第37話
少しだけぼんやりしていると、店が明るくなって、どうやら片付けが始まった。
周りにはもうお客さんがひとりもいないのに、「出て行け」とは言われない。
このままここにいたら迷惑になると思って立とうとしたら、足元がおぼつかなくて叶和に笑われた。
「酔っぱらい」
「ごめんね、酔っ払いで」
「そんなんで帰れるの?」
「大丈夫。外で少し休んだら何とかなる」
「外で? バカ? 世の中いい人間ばかりじゃない」
「……だったら、わたしはラッキーだね。叶和がいる」
「タクシー捕まるとこまで送ってくから」
「……今日……どこで寝るつもり?」
「Barのスタッフルーム。パイプ椅子でも並べて。柊二さんにはもう迷惑かけたくないし、唯可には追い出されたから」
「そうだよ、これ以上迷惑かけられたくないから、さっさと帰れ。後はやっとく」
柊二にそう言われ、叶和は一度奥に入ってから戻って来た。
店を出ると、叶和が「おんぶ」と言って中腰の姿勢をとったので、酔って頭がぼんやりしてるのを理由に、言われるまま背中にしがみついた。
「重くない?」
「重い」
「意地悪」
「優しいと思うけど?」
「……聞いて。わたしね、9歳の時……父を殺したの……」
唐突にそんな話を始めたわたしに、叶和は聞いているのか聞いていないのか、黙ったままだった。
「『危ないから近づいたらだめ』って言われてたのに、言いつけを守らずに、川へ入って……魚を見つけて追っかけた。そうしたら急に水底が深くなって、足をすべらせて……水をいっぱい飲んで、もがいて、どんどん流されていって……」
頭の上ではずっと太陽はきらきらとしていた。
でも、足元ではさっきまで透明だった水が、急に冷たくて濁ったものへと変わっていた。
掴まるものを探して手足をばたばたと動かし続けた。
でも、もがけばもがくほどからだは下へ下へと落ちていこうとする。
鼻からも口からもたくさんの水が入って来て、それをどんどん飲み込んだ。
耳の中にも水が入ってきて、ごぼごぼと音じゃないものでいっぱいになっていった。
暗闇の中で、恐怖しかなく、自分に触れるもの全てに力の限り抵抗した。
次に目を覚ました時には知らない部屋にいて、すぐそばに母がいた。でも、父の姿はどこにもいなかった。
父の声を聞いた気がしたのに……父の感触があったのに……
「わたしが……だめって言われたのに言うこと聞かなかったから……わたしを助けたせいで父は亡くなってしまった。そのせいで父の両親から『大事な息子を殺した人殺し』って言われた。母の育て方が悪かったんだって、母も責められた。祖父母の中でわたしは、大切な息子を殺した敵みたいになってた」
「……血がつながってると……容赦ないから」
「何かが壊れてしまって、家を出れなくなった。ご飯も食べれなくて、夜も眠れなくなって……母に心配ばかりかけた。元々母は身寄りのない人だったから、わたしのせいで母子2人きり。頼る人もいない。すごく苦労させてしまった」
それからずっと、『間違ったこと』をしないように生きてきた。
『近づいたらだめ』って言われてるものに近づいたら……大切な何かをまた失ってしまう気がして。
だから怖かった。
年齢も本当かどうかわからない。
名前だって嘘かもしれない。
出会いがゴミ捨て場で。
女の家を転々としているような生活をしていて。
叶和は『近づいたらだめな人』だから――
ずっと怖かった。
でも、叶和の背中が温かくて心地いということと、優しいということを、わたしは知っている。
「叶和、一緒に帰ろう」
「酔ってる」
「酔ってるけど、酔ってるから言ってるんじゃない」
「やっぱ酔ってる」
「朝、起きた時に、一番最初に『おはよう』を叶和に言いたい」
「……寝てて起きないかもしれないよ」
「意地悪」
「首苦しい」
「……落ちたら嫌だから」
「落とすわけないじゃん。絶対に落としたりしない」
叶和のため息が聞こえた。
「……唯可のところにいったのは……怖かったからっていうのもあるんだ」
「もう大丈夫だよ。彼女は手を出してこない」
「そうじゃない。オレは幸せになんかなっちゃいけないのに、沙也加と一緒にいると幸せだと思ってしまったから……怖かったんだ」
叶和も怖かったの?
叶和が怖いのは「幸せ」?
「でも……帰りたい」
叶和の、その言葉を聞いてずっと重かった瞼を閉じた。
「帰ろう……」
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