第36話 カクテル

繁華街から1本道を外れた場所にあって、ドアに「FILOU」と彫られた小さなプレートがあるだけのBar。


亜弥美と2人で訪れて以来、一度も来たことはなかった。


二度と来ることもないと思っていた店のドアを開けた。


薄暗い店内はきっと、照度が10ルクスもない。

叶和は週20時間以上は働いているはずなのに、雇用保険にも入っていない。

それは、叶和が身分を証明するものを持っていないからなんだろうけど、いろんなことがグレー。


それを「どうして?」としか思えなかったけれど、ここがなければ、きっと叶和は今よりもっとひどい状態に陥ってた。


いろんなことを、わたしの思う「正しさ」の中に当てはめるのは、きっと傲慢ってやつ……



仕事が終わるまで店の外で待つことも考えたけれど、そうしたらきっと叶和はわたしとは話さない。


店に入ったわたしを、叶和は見て見ぬふりをした。

想像していた通り、カウンターの向こうの叶和は、他の客とは時折話をしても、わたしとは目も合わそうとしない。

カウンター席に座ったタイミングで、柊二がわざとらしく裏へ入って行ってくれたため、叶和は仕方なく、といった感じでわたしの前に立った。



「プレリュード・フィズを」


「かしこまりました」



しばらくして、前に置かれたのはオールドファッションドグラスに入ったピンク色のカクテルだった。


意味だけを調べて、どんなカクテルなのかは知らないでいたから、恐る恐る口にした。

少し苦みがあるけれど、甘い味がした。



きっと、気が付くよね?



SNSに今日は深夜1時には店が閉まると記載されていた。

だから、それまでお酒を飲み続けて、叶和が仕事を終えるのを待つと決めて来た。


お酒は嫌いじゃない。

でも、多くは飲めない。

それにカクテルは度数が高いから、居酒屋なんかで飲むより早く酔ってしまう。

それでも、伝えたい言葉の分だけ絶対に飲む。



「ベルモット・カシスをお願いします」



2杯目を頼んだ時、叶和は眉をひそめた。



「カミカゼ」



3杯目を頼んだ時、叶和はようやくわたしの顔を見た。



「カリフォルニアレモネードです」



注文していないカクテルをわたしの前に置くと、叶和は、あの泣きそうな笑みを見せた。


カクテルにはそれぞれカクテル言葉があって、わたしは叶和に伝えたい言葉のカクテルを頼み続けていた。

「始まりはここから」「あなたのためなら危険も怖くない」「あなたを救う」。

その返事がカリフォルニアレモネード。その意味は「永遠の感謝」。



それで話しかけた。



「唯可と話したよ。わたしのことならもう大丈夫だから心配しないで」


「飲み過ぎ」


「叶和とずっと話したかった」



素直にそんなことを言えたのは、きっと酔ったからだ。

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