第38話 錯乱

 適当に選んだ二つのカップを借りて、インスタントコーヒーを淹れた。ハート柄のカップもあったが、今の篠田には柄の無いカップが最適だろう。




 リビングのソファで無気力になっている篠田のもとへ行き、自分の分を飲みながら篠田にもカップを渡した。篠田は目の上に乗せていた手をどかし、俺からカップを手にすると、横になった体勢を変えずに腹の上にカップを乗せた。




「……私の家のカップ。私の家にあったコーヒー」




「ついでに砂糖も二つ」




「堂々としてるね。他人の家の物を使う事に慣れてる」




「家主がいなければ空き家も同然」




「面白い。ついでに服やテレビも持ってって。金品とか、写真とか……何もかも無くしてほしい。この家は私が住んでた家のままだから……」




「そう落ち込むな」




「落ち込むなって? ハハ……私は両親に愛されてると思ってた。体が衰弱して、生きる意味さえ失いかけてた私の最後の希望だった。でも、それは私の勘違い。両親はずっと私が目障りだった。治る兆しの無い自分の娘を自分達では切り捨てられず、私が死んだ事を知って、喜んで出ていったのよ」




 篠田はため息を吐き、呆然と天井を見ている。かなり曖昧な嘘だったが、どうやら信じてくれたようだ。両親が自殺したよりも、家出したと言った方が良いと思った。あの感じからして、死んでからまだ日は浅い。おそらく篠田の死を聞いて、後を追ったのだろう。俺でも想像出来たのだから、実の娘である篠田も容易に想像つく。




 それに、今の篠田の言葉を聞いて、俺がついた嘘は正しかったと確信した。篠田は両親に対して負い目を感じていた。自分の存在が両親にとって重荷になっていると。もし真実を話していれば、篠田は両親に対する負い目を捨てられず、一生前に進む事が出来なくなる。




 不幸中の幸いとして、篠田には新しい居場所がある。お世辞にも居心地は良いとは言えないが、ルイスが篠田の面倒を見るだろう。篠田は俺の血液による人体実験の成功例。簡単には切り捨てない、はずだ。




「コーヒーを飲んだら、荷物をまとめて学校に帰ろう」




「……今日は泊っていこうよ」




「いや、すぐにでも出ていくべきだ」




「どうして急ぐの?」




「別に理由なんか無い」    




「なら、いいじゃん……私の体には相馬の血が流れてる。なんだか自分が自分じゃない気がする。視界に映る全ては目で見たものじゃなくて、目の後ろにあるもう一つの目で見たもの。目だけじゃない。全部がそう。まるで着ぐるみの中にいるみたい」




「……コーヒーを飲め。難しい話をするのは、ルイスだけで十分だ」




 篠田の様子がおかしい。これがルイスが言っていた障害か? 何にせよ、やはりここから早く出ていった方が良い。




「ねぇ」




 篠田は自分の分のコーヒーをテーブルの上に置くと、俺の膝から胸へ這い寄って来た。見下ろせばすぐに篠田の顔がある距離。口元は笑みを浮かべているが、瞳は黒く濁っている。




「相馬の体って、凄く温かいね。体温とかじゃなくて、居心地が良い。匂いも凄く安心する」




「お、おい……」




「相馬の背に乗せてもらった時から、ずっとこうしたかった」




 篠田が唇を近付けてくる。何をしようとしているかは明らかだった。別に篠田の事は嫌いじゃない。容姿は良い方だし、守ってあげたくなる。だから、本当は嬉しいはずなんだ。     




 でも、体が拒否してしまう。自分に明確な好意を寄せてくる度に吐き気がする。




「ッ!? やめろ!!!」




 俺は篠田を突き飛ばしてしまった。後ろにあるテーブルに背中を打った篠田は俺の足に倒れ、苦しそうな声を漏らしている。




「あ……わ、悪い……お前が悪いわけじゃない。だが、俺はお前とはそういう関係になれない」




「……」




「……もう帰ろう。荷物もいい。とにかく、ここから出よう。外に出れば、正気に戻るはずだ」




「私が正気じゃないって言いたいの!?」




 細い体からは予想出来ない力で篠田は俺を押し倒した。俺の腹部に跨った篠田は、俺の首を目一杯に絞めつけてくる。躊躇いは無い。本気で殺す気だ。




 首を絞める手をどかそうとするが、俺がどれだけ力を入れてもビクともしない。信じられないが、今の篠田の力は俺以上だ。




 このままでは絞め殺される。危機的状況の中、俺の体は最適で最悪な行動を起こした。篠田の顔を叩き、体勢を入れ替えて、今度は俺がマウントを取って篠田を殴った。気を失うまで、何度も。




 篠田が完全に動かなくなった頃、その顔は腫れ上がっていた。自分が篠田を傷付けた罪悪感が湧いてしまうが、ともあれ篠田を落ち着かせる事は出来た。篠田の部屋にあるフード付きの服を篠田に着せ、フードを深く被せてから背負った。




 家から外に出ると、晴れていたはずの空は黒い雲に覆われ、雨が降り始めていた。

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