第5話 交換殺人詳細計画
ある青年が、交換殺人というものを企んでいた。
名前を、
「島村康弘」
という。
この男は、本当は殺人などを犯さなければいけないという、
「れっきとした動機」
というものはない。
ただ、大学時代から、ミステリーに興味があり、犯罪研究を独自にしていた。
大学を卒業してからは、普通に会社に就職し、その会社では、
「犯罪研究などをしている」
などというと、まわりが誰も寄ってこないということで、このことは、しばらく誰にも言わないでいた。
おかげで会社でも友達が結構増えて、犯罪研究などしなくても、それなりに、
「若い世代の仲間と楽しくできるんだ」
ということに、いまさらながらに気づき、
「大学時代よりも、結構今の方が楽しいじゃないか」
と思うようになったのだ。
高校時代から、いや、中学時代からだったか、とにかく暗い青年で、この暗さというのは、
「自分だけのことで、他の人にはないんだ」
という、
「自分の独自性」
というものを、よくも悪くも持っていたのであった。
中学時代は、まだ少しは明るかったかも知れない。しかし、高校生になると、真剣に暗さが半端なかったのだ。
それは、自分でも、
「どこが変わった?」
ということを考えても分かることではなかった。
なぜなら、
「実際に何かが変わったわけではなく、変わったのは、周りだったことだ」
中学時代までは、皆義務教育なので、ある程度平等だった。
しかし、高校生になると、その学力が、平均化されていった。
なぜなら、中学から高校に入学する際に、それぞれ学校にランクがあり、そのランクに遭う学校に行くように、入学試験というものを突破する必要がある。
今までと変わりがないというような。
「中の中」
レベルの、標準的な学校に進んだのであれば、それは別に問題はないのであるが、レベルの高い学校に進めばどうなるか?
ということである。
今まで中学では、成績がトップクラスに近いくらいの生徒は、自然と教師からも、贔屓されるようになり、自分でも、成績がよいということで、幾分かのうぬぼれのようなものがあったことだろう。
それを考えると、
「高校に入っても、同じようなレベルを想像すると、それは大きな間違いだ」
ということになる。
なぜなら、自分が進んだのは、進学校である。
つまり。
「自分と同等、あるいは、それ以上の生徒がよりすぐられた」
というわけだから、入試の時、
「五分五分」
といわれて、先生から、
「ランクをもう一つくらい下げた方がいい」
といわれたところを無理矢理に受けて、合格すれば、
「精神的なことと、実際のこととのギャップに悩まされる」
ということになるのだ。
確かに、合格するところまでは、えらかったといえるだろう。
しかし、合格したとしても、それは、
「ランク的にギリギリのところでの合格」
ということで、実質的なランクは、かなり下の方なのかも知れない。
しかも、本人は、
「自分の実力で、先生がやめておけばいい」
といったところに合格しているのだ。
「自惚れてしまった」
としても、それは無理もないことだろう。
先生も、
「自分の生徒が進学校に入学した」
ということで、鼻が高いというもので、生徒本人のことを真剣に考えていなければ、それらのギャップを見逃してしまうことになるだろう。
中学の先生は、
「卒業してしまえば、あとは高校に任せる」
という気持ちがあるのか、それとも、
「後から、どんどん新しい生徒が入ってくる」
ということで、目が離せなくなってしまう。
ということになるだろう。
島村も、そのたぐいの生徒だったのだ。
成績は、高校に入学すると、
「中の下」
くらいになっていた。
「あれ?」
とは思ったが、その本当の理由を知るわけではなかった。
冷静に考えれば分かりそうなものだが、そのことに気づいたのは、大学に入学してからのことだった。
これが、
「下の中」
くらいの成績であれば、
「授業にもついていけず、しかも、学校は、成績の悪い生徒を、どんどん落ちこぼれとして、見捨てていくようなところであった」
といえるであろう。
進学校の中には、成績の悪い生徒でも、決して見捨てないというようなところもあるが、島村が入学した学校は、そうではなかった。
それでも、何とか卒業までついていき、その分、さらに暗くなってしまうという、
「代償」
を払いながら、大学受験にもこぎつけた。
さすがにその時は、
「無理なことはしない」
ということだけは身に染みていたので、
「成績からのランクをかなり下げたところでの、入学試験を受けたところで、その中でも第一志望に合格できたということで、晴れて大学生になれたのだ」
そもそもが進学校だったので、ランクを下げたとしても、
「世間一般的なレベルの大学」
に入学することができた。
そのおかげで、それまで暗かった自分が、少し明るい性格になれたのだった。
元々、子供の頃から、推理小説のようなものが好きで、まだ、暗い性格になる前の、中学一年生くらいの頃は、よく友達と、
「謎解きの本」
というのを図書館で見て、
友達と二人で、楽しんでいたのだった。
だが、二年生になるとその友達が、
「親の会社の都合」
ということで、遠いところに引っ越してしまったということで、島村は、
「孤独」
というものを味わうことになったのだ。
その頃から、自他ともに認める、
「暗い少年」
ということになったのだ。
その頃というと、成長期であり、いわゆる、
「思春期の入り口」
ということもあって、精神的にも肉体的な変化に対しても、微妙な時期だった。
そのことに気づかないでいると、高校生になってからの、自分の暗さが、
「まわりとの関係から、錯覚も混ざってきている」
ということに気づかないようになっているのであった。
それを考えると、自分が、
「大学受験というものに、必要以上の違和感を感じているからだ」
と思うようになったのだ。
だから、大学入試も、ランクを思い切り下げたのだ。
「大学入試に、浪人などすると、俺の神経が持たないかも知れない」
という思いからだった。
親は、幸いにも、島村に対して、
「必要以上の過度な期待はしていない」
ということだった。
島村は、
「昔でいう教育ママのような家庭は異常だ」
と思っていたのは、自分の親が、そこまで子供のことを真剣に考えていないということに感謝したいくらいだと感じていたからだ。
高校生くらいになると、親が子供に対して、
「過度な期待」
というものをするのは、
「母親が、自分のマウントが他の人に子供のことで取られるのを嫌がっているからだ」
と思っているのと、
「お父さんのような大人になっちゃダメ」
ということで、この場合も、
「父親の出世であったり、会社のレベルで、自分たちの世界のマウントが決まってくるのだ」
と考えるようになったことが
「大きな理由だ」
と思うようになっていた。
だから、そんな母親の世界を、
「反吐が出るほど、嫌気がさしていた」
といってもいい。
幸いにも母親はそんな、マウント合戦のような世界には興味がないのか、まったく近寄ろうとはしない。
一人で孤独に見えるのだが、母親だけは、
「孤独を感じさせない」
と思っていた。
それは、母親が、
「そんな世界に入り込もうとしないからだ」
ということであり、
「母親の持って生まれた性格ではない」
と思っていたのだ。
これが、そもそもの、
「人間としての。性格」
というものを読み間違えていた最初だったのかも知れない。
小学校、中学校の頃は、成績がよく、
「勉強をすればするほど成績は上がり、順位も上がっていく」
ということが、楽しくて仕方がなかったのだ。
だから、中学生の途中くらいから、友達が引っ越していった時に、一段階目の暗さが襲ってきて、
「高校に入学してから、本格的な暗さがにじみ出てくるようになった」
といえる。
しかし、
「まわりも、同じように暗いので、本人が自分の暗さを自覚している分、まわりとの差に、そこまで気にはしていなかった。気にならないわけではなかったが、それがどうしてなのかということを気にするまでにはなかった」
ということだったのだ。
それが、島村にとっての、人生の傾斜の第一歩だったのかも知れない。
島村という男は、
「大学生になってから精神的な余裕ができたこと」
と、
「入試というプレッシャーから解放された」
ということから、
「中学時代に好きだったものを思い出した」
のであった。
そして、自分が暗くなった理由が、そこから始まっているということに気づいたことで、
「もう一度、ミステリーの研究をしてみよう」
と思ったのだ。
幸い、大学には、いくつかのミステリーサークルがあった。
「皆でミステリー小説を読んで、その感想を言い合う」
というような標準的なサークルから、
「自分たちも、ミステリー小説を書けるまでになりたい」
という、
「ミステリー作家養成」
といったことを目的にした、少し突っ込んだ形のミステリーサークルもあったのであった。
島村は、それよりも、
「小説というものよりも、トリックや謎解きに、特化したようなところで、皆といろいろ犯罪というものを考えていきたい」
と考えるようになったのだ。
そんなサークルも存在した。
というよりも、むしろ、
「大学サークルというところは、そういう学問の研究というようなサークルがあってしかるべきだ」
と思っているので、最初から、
「探せばあるだろう」
と思うようになっていたのだ。
そのサークルには、いろいろな仲間がいて、何と、中学時代に親の転勤で別れてしまった友達がいたのだ。
同じ大学というのが、信じられないような偶然ということであり、
「同じサークルにいた」
というのは、
「大学が同じなら、別に不思議なことではない」
ということになるのであった。
そのことは誰よりも、二人が分かっていることであって、それでも、
「偶然の再会である」
ということに変わりはなく、お互いに。その喜びは、表現できるものではなかったのだ。
それを考えると、
「大学時代が中学時代までの明るさが取り戻せるような気がする」
と感じたのだが、それも当たり前のことで、
「その前兆というものが、この偶然の再会が、表しているに違いない」
と感じさせたのだ。
これは、
「感じたのではない、感じさせたのだ」
ということで、それだけに、自分の中で信憑性を感じさせた」
それを思うと、この感覚は、裏付けだと思ってもいいということになるであろう。
そんな大学時代において、入ったサークルで、島村と友達は、まるで、
「水を得た魚」
のように、発想が湯水のように浮かんできた。
それは、中学時代に、成績が良かったことで、
「自分は、頭がいいんだ」
と、まわりには言えなかったが、その発想が強かったことで、それが却って高校入試の時にあだになってしまったのだったが、
「もう大学に入ったのだから、時効だろう」
というように、
「上を見ればきりはないが、自分に自信を持ち、自惚れるくらいの方が、明るくて、今までにない発想が生み出せるような気がして仕方がない」
ということであったのだ。
二人は、サークルの中で、人間関係も、崩すことなくうまくやっていたと思っていた。
実際に、ぎくしゃくしたこともなかったし、二人と会話する人も多かったのだ。
それでも、
「二人は二人」
他の人たちのそれぞれの、
「絆」
というものとは一線を画していたといってもいいだろう。
そんな状態で二人は、サークル内で、いろいろな殺害方法などを研究することに没頭していた。
あまり、中学高校時代と、ミステリーというものから遠ざかっていた島村と違って、友達の方は、
「いろいろ自分なりに研究していた」
と豪語するだけあって、かなりの探偵小説から、ミステリー小説と、読み込んでいるようだった。
そのジャンルは、
「広義の意味でのミステリー」
といってもよく、
「猟奇殺人」
などというジャンルから、
「ホラー」
や、
「オカルト」
といったジャンルにまで、食指を伸ばしていたようで、彼曰く、
「推理小説という単純なジャンルだけを見ていると、見えてくるものも見えてこないからな」
というのであった。
その発想は、島村にはなく、
「まるで目からうろこが落ちたかのような気がするくらいだった」
というくらいのものであった。
そのおかげか、完全に、友達に主導権を握られているかのように思うのだった。
特に、
「猟奇殺人」
と呼ばれるようなものは、中学時代から嫌いで、
「友達も確か嫌いだったはずなんだけどな」
と思っていたのに、
「どうした風の吹き回しなのだろう?」
と感じるようになった。
好き嫌いというものは、それぞれ、誰にでもあるというもので、
「ホラーやオカルトというのも、そんな猟奇犯罪にかかわってくるから、嫌いだったのだ」
と思っていた。
島村は自分の中で、
「反則だ」
と思っていたのだ。
前述の、
「ノックスの十戒」
というもののように、
「探偵小説には、タブーといわれるものが多数存在する」
ということで、
「読者との間に、隠し事があったり、欺くというような行為があったりすれば、それは、すべてが違反だ」
とまで、島村は思っていた。
そういう意味で、
「怪奇」
であったり、
「超常現象」
というものは、トリックの発想というものには、反則ではないかというように見えるということは、友達も同じはずだった。
しかし、そんな友達が、
「どうして、ホラーやオカルトに走るような行為に至ったのか?」
ということを知りたいと感じていたのだった。
それが、島村にとって、唯一の課題だと思っていたのだ。
島村が、交換殺人に興味を持ったのは、やはり、
「本当に、不可能なのか?」
と感じたからだった。
実際に、本などを見ていると、
「なるほど」
と納得できるだけの内容が乗っている。
「ミステリ小説には存在するが、実際には、なかなか難しい」
ということと、その理由として、
「ハイリスクハイリターン」
ということで、
「成功すれば完全犯罪となるが、成功する可能性はほぼないのではないか?」
ということを書かれているのを見て、さすがに納得しないわけにはいかない。
だが、それも
「理屈の上で、精神的に不可能であることが分かる」
ということからであって、実際に本音とすれば、
「理屈はそうでも、本当に不可能なのだろうか?」
と、今度は自分の性格が、
「不可能を可能にさせてみたい」
という、天邪鬼な性格が、そう思わせるのであった。
考えてみれば、
「そんな不可能を可能にできないか?」
というのを考えるのが、そもそも、このサークル活動の本心ではないだろうか?
そこで考えてもできなければ、本当の意味で自分が納得するということになる。
確かに本に書かれていたりしたことが、納得いくことであっても、自分の頭で、
「本当にそうなのだろうか?」
として、再考してからこそ、それでもだめであれば、
「自分で納得した」
ということになる。
高校時代までの自分は、まわりの意見に流されるかのように、相手の言うことが納得できることであれば、信じるしかないということで、それ以上を考えるということはなかったのだ。
それを思うと、大学生になってから、少し考え方を広げることができるようになった。
「小学生の頃まではできていたような気がするんだけどな」
と今から思えば感じるのだ。
だが、それを中学高校時代に感じたことはない。
つまり、
「まわりから流されるというような考え方は、古いということではあるが、決して悪いことだという感覚ではないような気がしていたのだ」
ということであった。
それとも、中学高校時代では、
「本や人のいうことが自分で納得さえできれば、それが正しいことだということで、納得していた」
ということであり、
「小学生の頃の方が、よほどいろいろ考えていた」
ということすら忘れていたということであった。
しかし、実際に大学生になると、小学生の頃のことを思い出した。
そうなると、
「小学生の頃の方が、中学高校時代に比べて、まるで昨日のことのように感じさせられる」
という感覚になったのであった。
それだけ、中学高校時代では、
「自分で何かを考えたり、感じたりしなくなっていた」
ということであり、その原因が、
「受験」
というものにあったようだ。
受験勉強をしなければいけないと考えるようになると、自分の頭をそれ以外のことで使うというのは、時間的にも、能力的にも、
「もったいない」
と感じていた。
それは、
「時間的にも、能力的にも、絶対的な限界というものがあるからだ」
と考えていたのだろう。
つまり、
「限られた時間において、不可能を可能にするだけの能力を持ち合わせていない」
ということから、
「気持ちに余裕など持てるはずがない」
ということで、それがいかに、自分を力づけるというのかということを分かっていないのであった。
だから、
「受験というのは、プレッシャーでしかなく、どうして、そんなものが存在しているんだ?」
と思うようになったのだった。
ただ、小学生の頃、テストは嫌いではなかった。
自分で勉強した成果が、数字となって現れるのだ。成績が悪ければ、
「もう少し頑張れ」
ということで、成績がよければ、
「もっと高みを見てもいいのではないか?」
と考えられるという、自分にとっての指針であると思うと、
「本来の試験というのは、プレッシャーを感じるものではない」
と考えられる。
「余裕がない」
というのは、それが、
「入学試験」
というものであり、勉強したいと思っていたとしても、自分のレベルで勉強したい学校に行けるかどうか、試験されるということになるのだ。
「その日、体調が悪い」
ということもあるだろう。
自分が重点的に勉強したところではないところが出たりすれば、お手上げということもありえる。それこそ、
「ふたを開けてみないと分からない」
ということになるのだ。
入学試験というものが、どういうものなのかということは、受けたことがある人間でなければ分からない。
試験を出す方だって、難しくしても、簡単にしても同じである。
これが、
「資格試験」
というものとの違いだといってもいいだろう。
「資格試験」
というものは、ほとんどの場合、
「定員が決まっているわけではなく、一定の成績を治めさえすれば、合格ということになる」
というもので、逆に、
「入学試験」
あるいは、
「入社試験」
というものは、
「定員というものが決まっていて、応募者数が定員よりも多ければ、試験というもので、ふるいにかける」
ということになるのだ。
だから、合格点というものは存在しない。平均点が低ければ、合格点は下がるだろうし、平均点が高ければ、合格点は上がる。
資格試験や検定試験では、
「自己採点」
というものをすれば、大体合格発表までに、合否の検討はつくというものだが、入学試験、入社試験というものは、そもそもの合格点が分からない。
だから、合格発表までに自己採点はできるだろうが、それが合格点なのかどうかは分かりっこないというものだ。
しかも、入学できないと、
「浪人」
ということになったり、
「希望した学校に入れない」
ということで、
「滑り止め」
として受験した、自分が行きたいと希望していない学校に行かなければいけないのかということになるであろう、
それを考えると、
「受験戦争の時代に、プレッシャーに押しつぶされそうになっていたのだろう」
と思えた。
だから、高校時代などは、皆が皆、まわりを敵認識していたことだろう。そんな精神状態の中で、
「明るく接することができる」
というような精神状態が、鋼のような人はどれだけいたということであろうか?
受験戦争という時代が終わり、自由な発想ができるようになり、サークルに入って、いろいろ考えることができるようになると、
「納得いくというのは、他力ではなく、最後には自分が納得したことでないといけないのだ」
ということになる。
「完全犯罪がいかにすれば、成功するようになるのか?」
という発想はそれまでにはなかった。
「本や皆が、不可能だといっていて、自分がそれを納得できるのだから、それ以上考えても無駄なことだ」
と思っていた。
だから、完全犯罪というものは、サークルで考えるに値しないものだと思っていて、ジャンルとしてはありだろうが、
「自分が考えるということはない」
と思うのだった。
だが、自分が、犯行を犯すことになるとは思わないまま、完全犯罪という言葉に引き寄せられるかのように、
「いかにすれば、成功するかもしれない」
と思うのか、それを、サークルでは、誰にも相談することなく考えていた。
もし、
「自分がこんなことを考えているということを知っているとするならば、中学時代に分かれたその友達だったのだろう」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます