第4話 交換殺人の計画
交換殺人を計画した人が最初に考えたのは、
「自分が殺したい相手と、自分が差し違えてもいいのだろうか?」
ということであった。
もちろん、前述のように、自分が死ぬということが、
「相手を殺す」
ということと天秤に架けた時、どっちが重たいかと考えると、当然のごとく、自分の破滅は、この男のためにはありえない。
と感じたのだ。
昔であれば、
「仇討ちということもあった時代」
というものを考えると、
「やはり今の日本は、被害者側の近親者への配慮に欠ける」
としか思えない状況だと、被害者側の近親者は思うことだろう。
何といっても、
「人を殺しておいて、捕まったとして、その人が罪に問われたとしても、極刑にならないということなどありえない」
と思うことだろう。
しかし、それは、ひょっとすると、
「一点だけしか見ていないから、そう思うのだ」
ということなのかも知れない。
殺人を犯した人というのは、当然のごとく、殺意があってのことであれば、それは、
「れっきとした動機」
というものがあるに決まっているからだ。
それがどのようなものなのか分からない。
ひょっとすると、
「殺されても仕方がない」
というような事情があるのかも知れない。
たとえば、殺された人は、詐欺師であり、犯人は、
「その人を殺さないと、自分が破滅する」
ということになるのは、明らかだとすると、人間というもの、
「一つのことを悪く考え始めると、どんどん、自分ではどうすることもできなくなってしまい、結局、追い詰められて、相手を殺さなければ、自分が死ぬしかない」
というところまでくれば、
「相手を殺してでも」
ということになるだろう。
そうなると、
「相手を殺して、差し違える」
ということは考えにくい。
もちろん、
「自分をここまで追い詰めた相手もろとも、自分も差し違えて死のう」
と思うのは当たり前のことだといえるのではないだろうか。
だが、そこまで考えると、またしても、相手に対しての憎しみが湧いてきて、
「あんなクズのために、自分を犠牲にするのはありえない」
と思うから、殺人計画というものを練ることになるのだろう。
そして、殺した相手が、被害者となり、自分が加害者として捕まることになったのだ。
そうなると、問題は、
「被害者の家族」
ということである。
これが、被害者の家族であれば、
「あそこは、家族が殺されてしまってかわいそうだわ」
といって、同情を集めることはできるだろう。
しかし、だからと言って、被害者家族に必要なだけの援助が得られるというわけではない。
「同情なんか、誰にだってできるのだ」
ということで、そういえば、昔のドラマの、
「一世を風靡したセリフ」
ということで、
「同情するなら金をくれ」
という言葉があったが、まさにその通りだ。
「本当に気の毒だ」
とは、口では何とでもいえるというもので、
「被害者家族に対して、本当に、金を寄付できるか?」
といっても、誰がそんなことをするであろうか?
これが、
「自然災害の被災者」
ということになれば、誰もがこぞって寄付したりするというものだ。
これは、
「人間の心理」
というものが働いているのではないだろうか?
というのは、
「そもそも、人間は、見返りというものを求める」
ということである。
逆に、
「見返りを求めるから、人間らしい」
といえるのではないだろうか?
殺人事件などというのは、確かに毎日のように起こっていることであるが、実際の殺人事件というものが、本当に起こっているのかどうか?
ということになると、
「自分の本当の近親者で、加害者も被害者もいない」
という人が、そのほとんどだということではないか。
だから、
「気の毒だ」
とは思いながらも、実感がないのだ。
しかし、自然災害というのは、そうではない。
「確かに、自然災害を味わったことのない」
という人も多いだろうが、実際に、
「被災した」
という人は少なくはない。
そういう人は、
「以前に巻き込まれた自然災害の時、ボランティアの人であったり、一般の人から寄付を受けて助けられた」
という思いから、率先して助けようとする。
それが人情というものであろう。
ただ、中には、
「売名行為」
という人や企業もあるだろう。
確かにボランティアではあるが、
「ここで、名前を売っておけば、その時に損をしても、いずれは、儲けとして戻ってくる」
ということで、これを、
「投資」
と考え、
「損して得取れ」
という言葉を実践している人たちである。
ただ、それも、
「人助け」
ということになる以上、悪いことではない。
「動機としては、若干、不純だ」
といてもいいだろうが、だからと言って、
「それを悪いことだ」
と糾弾するということはできないであろう。
しかし、個人でやる人には、
「売名行為」
のような、あからさまなメリットはない。
それこそ、
「損はするが、得をすることはない」
ということになるかも知れない。
「じゃあ、どうして、特にもならないことをするというのだ?」
と考えると、そこは、
「明日は我が身」
と考えるからであろう。
「いつどこで何が起こるか分からない」
ということであれば、自分も被災することになるだろう。
そうなると、
「死んでしまわなかった場合、不自由な暮らしを余儀なくされる。食べ物も満足になく、住むところもなく、一人ぼっちで死んでいく」
ということを考えると、
「援助してくれる人がどれほどありがたいか?」
と思うのだ。
だから、ここで考える見返りというのは、
「同じ立場になる可能性は非常に高い」
ということで、
「殺人事件の被害者家族とを比較する」
ということになると、
「これだけ毎日のように発生する殺人事件に、今まで遭遇していないのだから、自分が彼らの立場になることはまれだろうから、援助しても、その見返りのようなことはないだろう」
ということになる。
そう思うと、
「同情はするが、援助はしない」
ということで、
「同情するなら金をくれ」
という昔のトレンディドラマのあのセリフは、
「そのことを引き食った言葉」
ということが言えるのではないだろうか。
だから、被害者家族に同情は集まるが、本当の支援はない。そうなると、
「日本は、加害者家族には厳しい」
といわれるが、それだけではなく、
「被害者家族に対しても、その行動と心情が一致していないことで、中途半端な状況になるのだ」
といえるだろう。
結局、人間というのは、
「最後は自分がかわいい」
ということであり、
「口ではかわいそうだといっておきながら、何の援助もしない」
ということになる。
唯一、災害などの場合の被災者には、援助を惜しまないというところが、まだマシなところだといえるだろう。
「人間にも、真っ赤な血が流れている」
というのは、あくまでも、この場合に言えることであり。逆に人間というのは、
「打算で動く動物だ」
ということが言えるのは、この、
「被災者に対しての援助を惜しまない」
ということであろう。
それが、企業における、
「売名行為的な援助」
であったり、個人の場合は、
「明日は我が身」
という恐怖から、今のうちに助けておけば、ことわざにある、
「情けは人のためならず」
ということになるということであろう。
「情けを掛けておくと、それは、その人のためだけではなく、いずれは、自分にもいい報いとして返ってくる」
ということになるのである。
それが、
「被害者家族に対しての考え」
との違いということになるだろう。
しかし、それでも、被害者家族はまだ、
「同情してくれる」
というだけでも、マシではないだろうか。
実際には、同情どころか、加害者家族は、白い目で見られ、下手をすれば、
「家族の離散」
ということもあるくらい、世間から、
「奥さんは奥さん、子供は子供」
というそれぞれの世界で、誹謗中傷を受けたり、実際に差別や、いじめに繋がったりするだろう。
特に、主婦界隈であったり、子供の世界というと、
「容赦がない」
といってもいい。
会社組織などを経験していれば、
「社会的にソーシャルな人との付き合いというのも分かる」
というもので、
「どこまでが許されるのかということが分かる」
というものだ。
しかし、実際には、
「歯止めの利かない世界」
というのは、
誹謗中傷といえる、言葉の暴力や、ナイフで突き刺されるような鋭い視線」
というものがあったり、子供の世界のように、
「理不尽な苛め」
というのは、
「そのターゲットを絶えず虐める方は探しているので、こういう、
「苛めに値する」
と思った相手には容赦しない。
特に、
「相手は殺人者の息子ではないか?」
と思うと、
「あいつを虐めるのは、正義なんだ」
という免罪符を与えてしまうことになるからだ。
だからと言って、大人がいじめられていることもを何とかできるわけでもなく、結局、見て見ぬふりをすることで、加害者の子供は、
「俺は何もしていないのに」
という思いがあることで、
「理不尽というものをどうして、自分が味遭わねばならないのか?」
ということになるわけで、
「どうすることもできない」
ということになってしまうのであった。
それを考えると、
「どうすることもできないで、大人になっていく」
と考えると、今度はその子が、
「復讐に燃えることになる」
ということを、
「誰も気づかないのだろうか?」
と思えそうなのだが、本当に誰も気づいていないのだろう。
後になれば、
「どうして、誰も気づかなかった?」
と思うようなことはたくさんあり、たとえば、
「バブルが弾けた後」
皆どうして、
「こんな簡単なことに気づかなかったのか?」
ということになるのである。
「知っていたが、パニックになるのを恐れて黙っていた?」
とも考えられるが、本当のところは誰にも分からない。
ただ、知っていて何も言わないというのは、
「知らなかった」
ということと同じであり、下手をすれば、
「もっとひどい」
といえるのではないだろうか?
交換殺人というものを計画する時、
「最初から交換殺人をもくろもう」
と考える人はなかなかいないだろう。
計画するとしても、それは、なかなか実行できるものではなかったり、実際の犯罪というものの中で、
「普通聞いたことないよな」
と思うと、その現実性というものを、どうしても、疑ってしまう。
しかし、
「可能性としてはないわけではないし、成功すれば、完全犯罪だ」
と思う人もいるだろう。
自分に対して。
「よほどの自信を持っている」
という人か、
「一か八か」
であっても、
「とにかく、相手を殺さないことには埒が明かない」
と考えた時、
「前しか見えない」
という猪突猛進の人でないと、あり得ないことなのかも知れない。
というのも、
「犯罪を計画し、その通りにできたとして、それで安心だ」
と思える人がどれだけいるだろう。
「相手を殺さないと安心できない」
という精神状態の時は、
「とにかく、死んでもらわないとどうしようもない」
ということになり、
「前しか見えない」
というのも、無理もないことであろう。
しかし、自分で計画し、その通りにできたとすれば、かなりの安心感を得られることになるのではないだろうか。
というのも、そこには、
「達成感」
というものがあるからだ。
達成感は、それまで
「死んでもらわないと、どうしようもない」
という後ろ向きだったからこそ、
「前を向くしかない」
という考えに至ったことで、
「犯行を決意することができた」
ということになるのだ。
そして、
「完遂までに、この前向きな気持ちが少しでも緩んでしまうと、達成には及ばない」
ということになるのだ。
しかし、完遂してしまうと、本来であれば、
「達成感とは別の何かが溢れてきて、達成感が満足感に変わってくる」
ということを実感できるはずである。
だが、今回の犯罪に関しては、
「達成感は確かに感じることができるのに、それ以上のプラスアルファのようなものを感じることができない」
という思いがあり、
「それが、自分の中で、何か中途半端な気持ちになる」
ということを感じさせるのであった。
そういう意味で、
「殺人という犯罪は、昔であれば、時効が成立するまでは安心できない」
といえるのだ。
しかし、実際に言えば、
「今の時代、殺人に時効というものはなくなった」
ということで、本当の意味で、犯人が安心できるのは、
「死んでからでないとありえない」
ということになるのだ。
正直、
「昔の15年」
というのも、かなりの年月だ。
犯罪を犯した年齢が、例えば35歳だということになれば、最短で
「50歳になるまで、安心はできない」
ということになる。
しかも、その間、警察に捕まるわけにはいかない。だから、逃亡犯として、
「整形したり、指紋が残らないように、焼き切ってしまったり」
などという、
「涙ぐましい努力」
をしないといけないのだ。
もちろん、病気になっても、医者にも罹れないなどということもありだろう。
「普通の人が普通に生活できるということができない」
ということになる。
それを考えると、
「自分にとって、言葉通り、自分を殺して生きなければいけない」
ということになる。
それを本来であれば、いい悪いは別にして、
「人生の醍醐味」
である年齢の間、
「明らかに棒に振る」
ということになるわけである。
「人を殺す」
ということが、自分にとって、
「それしかない」
と思えたことであっても、その代償というのが、あまりにもひどいことになるということを思い知らされるだろう。
確かに、犯罪を計画した時というのは、
「どうなってもいい」
という思いの下、
「殺さないと、自分にとって、ろくなことにならない」
と思い、殺すことにしたのだろうが、
「殺してしまった後」
ということに対して、
「どこまで考えていたのか?」
ということである。
それまでは、
「殺人を犯したわけではないので、他の人と同じ一般市民だった」
ということであるので、一般市民という目から見ると、
「殺人は、最悪のシナリオではない」
と思っていたが、
「人を殺してしまった」
というその後のことになると、立場が完全に変わってしまい、
「捕まるわけにはいかない」
ということから、
「必死の逃避行」
というものが付きまとう。
しかも、寝ても覚めても、安心できる瞬間はどこにもないということを考えると、
「殺人を犯してしまったことが、取り返しのつかない」
ということであることに気づくのだ。
「計画している時というのは、前を向くしかない」
と思っていたが、計画して、実行してしまうと、
「もう、後ろにあった結果というのは、自分に何ももたらさない」
ということで、
「もう、どうしようもないことだ」
としか言えないということになるのだった。
それが、
「殺人という罪を犯してしまったことに対しての、代償だ」
ということになるのであれば、
「これほどひどいものはない」
と思い知ることになるのだ。
交換殺人を計画する時は、まず、
「交換殺人という殺害手段を思いついたことで、同時に考えるのが、その、完全犯罪性というものである」
つまり、最初に、
「テンプレートといっていいような殺害手段が頭に浮かぶということであり、それが、犯罪というものをどのようなものとするのか」
ということを考えると、その骨格が現れてくると、今度はすぐに細部の計画に目が行くことになるといってもいいだろう。
というのは、
「他の計画とは、だいぶその様相が違っていることで、全体構造は見えても、その細部の違いまでが見えてこない」
ということで、
「どのように計画すればいいのか?」
というものが、
「順序だてないと計画できない」
と思うのである。
だから、その細部というのが、細かければ細かいほど、種類も多いということである。
それだけ時間が掛かるということで、その細かいところを最後は一本の線にしなければいけないということになると、
「忘れっぽい」
と思っている人には、
「致命的な計画だ」
と考えるようになるのではないだろうか?
それを考えると、
「一気に組み立てなければいけない」
ということになり、その考えのデメリットとして、
「目先のことしか見えてこない」
ということに気づいてくるのであった。
それを考えると、
「犯罪計画というものを練る場合、Wすれっぽい性格というのは、致命的ではないか?」
と考えられる。
しかし、それでもしなければいけないのであれば、
「早く計画を立てる」
ということになるだろう。
その間に、
「辻褄の合わないこと」
であったり、
「矛盾を生じさせる」
というようなことは、なるべく最初に克服させる必要があるだろう。
そうしておかないと、どうしても、計画が一点に集中し、それ以外のことが分からないということになると、
「一点にしか目がいかない」
ということになるので、その結果として、
「想定外のことが起こった時、対応することができない」
ということになるだろう。
「百戦錬磨」
というような人であっても、何も、
「最初から、百戦錬磨だった」
というわけではないだろう。
いろいろな経験をすることで、その時々にどのように対応すればいいのかということを、自分なりに勉強し、習得していくということになるのであろう。
そうでなければ、
「自分がどのような計画を立てなければいけないのかということを、想定外のことを考えたうえで練ることができれば、想定外のさらに想定外のことが起こったとしても、まったく何もできない」
ということにならないのではないだろうか?
そう考えると、
「交換殺人」
という計画は、
「計画を立てる段階で、雁字搦めの計画なのではないか?」
ということであった。
つまり、
「入口と出口が決まっているのが犯罪だ」
ということになれば、その過程においては、
「どのような計画を立てるか?」
というのは、それこそ無限にあり、
「その方法の中から、最良の方法」
と考えると、
「完全犯罪というのは存在するのだろうが、それを見つけ出すのは、まるで、砂漠の中から砂金を見つけ出すに等しいくらいではないか?」
といえるだろう。
しかし、交換殺人というのは、
「うまくいけば、完全犯罪になる」
といわれるほど、
「そのやり方は、ある程度決まっている」
といえるだろう。
しかし、そのことを誰が証明するというのか、正直、
「交換殺人というものを思いついた人は、実に賢く、天才だ」
といってもいいのではないだろうか?
実際にその通りにやれば、完全犯罪が成立するという、マニュアルを作り上げたのであり、それが完成されるかどうかは、実行者の手腕によるということである。
そんな計画がうまくいくかというのは、ドラマでいえば、
「監督と演者の力」
といってもいいだろう。
脚本家とプロデューサは、その設計図についてを表したというだけで、実際に、それを表現するというのは、
「監督」
であり、
「演者」
の力だった。
ドラマ作成において、脚本家というのは、小説家のように、
「すべてを自分で書く必要はない」
というのは、実際に、映像作品に仕上げるのは、監督と演者なのだ。
脚本家は、販売までの材料を作るだけで、
「設計図にも至っていない」
というものなのかも知れない。
だから、
「小説の場合は、描写もセリフもすべて、小説家が考える」
ということになり、だからこそ、読者が勝手に想像し、楽しむものである。
「しかし、シナリオというものは、最終形態として、映像作品ということになるのだ」
つまりは、
「脚本家が、セリフ以外の、描写まで、事細かく書いてしまう」
ということになれば、
「せっかくの、演者の個性であったり、映像作品の現場における、すべてを取り仕切る監督のオリジナリティが発揮できない」
ということになるのだ。
それを考えると、
「脚本家は、本当の影の力持ちでしかない」
ということになるのだ。
それを考えると、
「ドラマというものは、すでに、映像ということで、視聴者に対して、すべての情報を与えているということになるので、そのすべてを作者一人が請け負う小説と違って、すべてが分業制ということになり、小説家としては、何か物足りない」
というような気持ちになるということではないだろうか?
そういう意味で、
「原作のある脚本を書く方が、脚本家オリジナルの作品を書くよりも、難しいのではないか?」
ということになるのだ。
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