第3話 完全犯罪の神髄

 犯罪として、確かに交換殺人は成り立たないだろう。

 何といっても、

「肝心なことを忘れている」

 ということである。

 何といっても、交換殺人というものは、誰がなんと言おうとも、殺人という犯罪なのであり。これが、最初に誰かが殺されたとして、その人が殺されたことで、初めて、犯罪が露呈し、

「被害者と加害者」

 そして、犯人に対して、

「逮捕されれば、それに似合うだけの刑事罰」

 というものが、裁判によって決まるということになる。

 交換殺人においても、それは代わりのないことであり、ただ。

「最初の殺人が行われた時点で、加害者は、二人いることになる」

 というわけである。

 これは、

「主犯と共犯」

 という形ではなく、

「主犯と実行犯」

 という形である。

 主犯というのは、その人に本当に死んでもらいたいと思っている人であり、実際に犯行が行われた時には、

「完璧なアリバイを作っておく」

 というわけであり、実行犯としては、

「被害者と面識もなければ、縁もゆかりもない」

 という人でなければいけない。

 そうなると、確かに、この殺人だけでは、

「被害者と主犯の関係性だけは分かるというものだが、実行犯と被害者、そして主犯とは、縁もゆかりもない、ただの赤の他人だ」

 と思わせておけば、

「完全犯罪になる」

 というわけだ。

 確かに被害者と実行犯は赤の他人だということで捜査は進むだろうが、実行犯と主犯がお互いに、

「赤の他人だ」

 ということを示す必要がある。

 ただ、この場合は、たぶん、通り一遍の警察の捜査では、

「主犯と実行犯の間を結び付けるものは何もないはずだ」

 といえる。

 確かに主犯が、

「一番怪しい」

 ということであり、その時に鉄壁なアリバイがあるとすれば、警察は、

「別に実行犯がいるのでは?」

 と考えることだろう。

 だから、主犯の交友関係も調べられるだろうが、よほどのことがない限り、実行犯が疑われることもないだろう。

 最初から、

「交換殺人だ」

 と決めてかかっていれば、あるいは、実行犯に目がいくかも知れないが、普通であれば、そう簡単に実行犯に目が行くこともないだろう。

 何といっても、

「殺人を犯す」

 というわけである。

 れっきとした動機というものがなければ、いくら実行犯といえども、そう簡単には、犯行に及ばないだろう。

 実行犯と、被害者の間に、何らかの接点でもあれば、そこから捜査もできようものだが、接点がないのであれば、捜査は進まない。

 万が一、実行犯が犯罪を犯すとすれば、主犯と見込んでいる男に、

「何らかの理由があり、弱みを握られている」

 などということで、犯人と実行犯との関係を洗い出そうとするに違いない。

 だから、完全犯罪ということにするには、

「実行犯と主犯の関係が表に出ては、致命的な結果を生むかも知れない」

 ということになるのだ。

 だから、二人は、なるべく犯罪計画を練る時も、

「二人がいるところを誰かに見られたりしない」

 ということが必要だろう。

 電話なども危険である。

 もし、警察が捜索令状などと取って、スマホを没収し、通話履歴などを確認されると、そこから足がつくことだってある。

 それなら、まだもっと原始的なことの方がまだマシなのかも知れない。

 そして、もう一つ、一番の問題というのは、

「第二の殺人というものが、最初の犯行と、まったく関係のないものだ」

 ということにしておかなければいけない。

 もし、この二つに関連性が見つかれば、苦労して、実行犯と主犯の関係を見つからないようにしても。この二つの犯罪が、関係あるということになると、おのずと、二人の関係性というものが露呈するということになるのだ。

 分かってしまうと、

「交換殺人ではないか?」

 ということを匂わせることになる。

 何といっても、第一の犯罪で、交友関係を当たった中に、第二の犯行において、

「一番の重要参考人」

 というべき人間が、初めてクローズアップされ、二つの事件が結びついてくることになるのだ。

「最初の犯罪と二つ目の犯罪が、結びついているということで、二人の関係が露呈するのか?」

 それとも、

「二人の関係が露呈していた時点で、第二の犯行が起こったのか?」

 どちらにしても、

「交換殺人」

 というのは、その事件が、交換殺人だということがバレてしまうと、小説ではアウトであるということになるのであった。

 そういう意味では、

「計画通りにいけば、これほど完全犯罪に近い」

 というもので、そのかわり、どこかでほころびが出ると、

「これほど、事件が分かりやすいものはない」

 ということになるのだ。

 だから、

「現実味がない」

 ということになる。

 そして、その中で一番、この事件を、

「現実ならしめない」

 というのはどういうことなのかというと、

「第一の殺人を行ってしまえば、その時点で、第二の犯罪は、起こりえない」

 という心理的な問題ではないだろうか?

 というのは、

「第一の犯行では、主犯とすれば、自分の死んでほしい相手が死んでくれて、そして、自分には、完璧なアリバイがある」

 ということになる。

 しかし、実行犯とすれば、

「殺した相手は、自分にとって縁もゆかりもない相手で、殺しても自分に何のメリットもない」

 ということであり、実行犯とすれば、

「第二の犯行で初めて自分にもメリットがあるというわけで、自分としては、まだ犯罪が起こっていない」

 というくらいの感覚しかないのだろうが、実際には、今のところ、自分にとっては、

「まわりからは自分が犯人だということが見えていない」

 つまりは、警察の捜査の中では、

「石ころのような存在」

 と言ってもいいだろう。

 だから、最初の実行犯で、次の殺人の主犯とすれば、

「次の殺人のための、予行演習」

 というくらいの意識しかないだろう。

 ただ、いくら縁もゆかりもないとはいえ、そんな相手を殺してしまったということは消えるわけではない。うしろめたさなどもあるというもので、その分、心理的には、

「複雑な思い」

 というものがあるであろう。

 そして、

「二つの犯罪がまったく別のものだ」

 ということにしなければならないわけで、そうなると、第一の犯罪と第二の犯罪というものは、

「できるだけ、時間を離して実行されるべきであり、できれば、犯行現場も、

「遠ければ遠い方がいい」

 ということになるだろう。

 幸い警察というのは、

「縄張り意識」

 ともいえる、管轄というものがあり、管轄外の刑事が、自分の管轄に入ってきて、勝手に捜査などすると、

「苦情問題」

 ということに発展したりする。

 テレビドラマなどでは、よくあることで、見ている視聴者のほとんどは、

「警察は何をやっているんだ」

 と思っていることだろう。

 そんな感覚を植え付けるのだから、それがあるから、ドラマは面白いわけであり、それを、

「市民を守るべき」

 しかも、

「税金で飯を食っている連中」

 がやっているというのは、市民からすれば、

「笑いごとではない」

 といってもいいだろう。

 第一の犯罪と第二の犯罪が、

「かなりの時間をおかなければいけない」

 ということになると、どういうことが起こってくるかというと、

「心理的なことで、犯罪計画が瓦解していく」

 ということであった。

 というのは、

「第一の犯行で、自分に完璧なアリバイがある人間とすれば、何も危険を犯して、第二の犯行に及ぶ必要はない」

 ということに気づくのだ。

 もっとも、これは、

「どちらが、この事件すべての首謀者なのか?」

 ということに関係はない。

「とにかく、第一の事件の主犯が、そのことに気づいてしまえば、そこで、当初の計画とは違った形で、その人にとっては、完全犯罪ができあがることになり、実行犯としては、自分にはメリットはないが、人を殺してしまった以上、バレないようにしなければいけないということで、それが、最初の事件の主犯の完全犯罪を助けることになるわけだが、それも、自分が殺してしまったことを隠蔽するには仕方のないことである」

 といえるのだ。

 ただ、問題は、

「縁もゆかりもない赤の他人を殺してしまわなければいけないほど、自分にとって死んでもらいたい人間がいるのに、その男は、もう誰も殺そうとすることはない」

 といえる。

 第一の犯罪の実行犯とすれば、

「犯行がバレないようにする」

 ということを取ると、最初の目的は二度と達成できないということになる。

 それこそ、

「事故で死ぬか、他に誰か恨んでいる人がいて殺害されるか?」

 あるいは、

「普通に死因に怪しいところのない病気などで死ぬくらいしかないだろう」

 もっとも、原因は別にして、

「死んでほしい人が自殺をする」

 ということも考えられる。

 ということになれば、どんな死に方をしようとも、結果死んでいくのであれば、

「俺は何をとち狂った形で焦って、縁もゆかりもない人を殺してしまわなければいけないんだ」

 ということになる。

 そうなると、自分が殺してしまったという事実は、

「まったくの無駄」

 ということであり、

「主犯の完全犯罪のために、メリットもないのに、協力する形になった」

 ということであり、どちらに転んでも、精神的には、永遠に自分を責め続けるということになるに違いない。

 それを考えると、

「犯罪というものは、共犯者が多ければ多いほど、露呈しやすい」

 ということを言われるが、

「交換殺人」

 などというものは、他の犯罪のような、

「主犯と共犯」

 という形ではなく、

「主犯と実行犯」

 という、いわゆる、

「歪な形の共犯関係」

 ということになると、

「一連の犯行を途中で止めることによって、本来であれば、対等な形の事件となり、それが、元々の交換殺人というものを完全犯罪ならしめるための鉄則だ」

 ということが、

「実は神話ではなかった」

 ということになるのだ。

 そういう意味で、

「交換殺人というのは、もろ刃の剣だ」

 ということになる。

 もし、そこまで考えて、他人に交換殺人を持ち掛けたとすれば、その人は、

「希代の犯罪者だ」

 といってもいいだろう。

 その人にとって、犯罪というのは、本来であれば、

「復讐」

 であったり、

「その人が死んでくれなければ、自分の安心できる生活ができない」

 ということで、

「動機というものがハッキリしている」

 というものである。

 だから、警察の捜査も、まず、、容疑者の絞り込みとして、

「被害者の交友関係」

 というものから当たることになるだろう。

 だから、ほとんどの事件で、容疑者は数人に絞られることになるというわけである。

 確かに。被害者が、

「想像を絶するような極悪人であり、彼のまわりにいるほとんどの人から恨みを買っている」

 ということもあるだろう。

 しかし、実際には、

「本当に殺してやりたい」

「殺しても余りある」

 というほどの人ともなると、どれほど絞られるというものか。普通の人であれば、

「一人いればいい」

 ということになるだろう。

 しかし、人間というのは、

「いつどこで人から恨みを買うか分からない」

 というもので、死んでから、

「この人は、こんなにも人から恨まれていたんだ」

 ということで、恨みを人から買っているということを分かっていた人たちもびっくりするくらい出てくる人もいあるだろう。

「誰からも恨みを買っていないという人が、天国に召される人なんじゃないかな?」

 と考えると、

「神様といわれる存在というのは、本当に、人間を超越した存在なのかも知れないな」

 と思うのであった。

 だからこそ、

「世の中から犯罪というのはなくならない」

 というものであり、特に殺人事件というのは、

「一日に全国で何件くらい起きているのか?」

 と、まったく想像もできないだろうが、

「ほぼ毎日同じくらいの数。つまり、誤差の範囲といえるくらいで、その人数は推移しているのではないだろうか?」

 といえるだろう。

「完全犯罪というものを、ほとんど殺人を計画する人は考えることだろう」

 しかし、

「犯罪を考えているうちに、それがもろ刃の剣である」

 ということが分かってくる。

 つまり、

「ノーリスクハイリターン」

 などという、そんな都合のいいことがあるわけはないと思うからである。

 だから、犯罪計画というものを練る時には、当然のごとく、

「メリットとデメリット」

 というものを考えることであろう。

 それを思えば、

「最初に全体像を考えてから、細部にわたっての計画を立てる」

 ということにするのか、それとも、一つ一つ、問題のない状態から全体を作り上げていくのかということの、

「どちらがいいのか?」

 ということになるのであった。

 これは、パズルを作るうえでの問題でもあり、基本的には、パズルの構成上、

「まずはまわりから固めていくのが、当然のやり方だ」

 ということになるだろう。

 それは、犯罪計画を練っているうちに、

「自然とジグソーパズルのピースを重ねていく」

 というイメージから、

「どうしても、端の部分だと思うところを組み合わせることが大切だ」

 と思うようになるであろう。

 それは、

「自分というものを信じれば信じるほど陥ってしまうという問題であり、そこが自惚れに繋がるのではないか?」

 と考えるのだ。

 しかし、

「うぬぼれというのが決して悪いわけではない」

 というのは、

「うぬぼれというものもなければ、自信を持って行動できる計画を練ることなどできるというものだろうか」

 つまりは、何かを開発して、それを販売しようとする人間とすれば、よく言われることとして、

「自分に自信のないものを人に売りつけて、それが本当にいいものなのかどうか、相手だって、営業が自信のないと思っているものを仕方なく売りつけようとしているということくらい分かるというものだ」

 ということになるのだ。

 営業たるもの、それこそ、

「自信のないものでも、あたかも、素晴らしい商品であるということを、心にもないということであっても、やらなければならない」

 ということになる。

 それこそ、

「詐欺の一歩手前だ」

 とすら思えることであろう。

 交換殺人を行う場合、理論的に見ても、精神的に判断しても、

「同じタイミングで犯罪を犯さない限り、ありえない」

 といえる。

 これは、精神的に考えた場合なのだが、逆に、理論的に考えると、

「同じタイミングでの犯行は、もはや、交換殺人の域を超えている」

 といっていい。

 交換殺人が、完全犯罪となるゆえんは、

「本当に動機を持った人間に、完璧なアリバイを作り、実行犯が、殺人者ではないという、まったく関係のない人間で、捜査線上に浮かび上がらない」

 ということが必要だということからであろう。

 だから、少なくとも、それぞれが連続殺人だと思わせると、二人の関係が露呈してしまい、その時点で、

「完全犯罪ではない」

 ということになる。

 そして、これはあくまでも、理論上の問題であり、

「犯罪に限ったことではなく、何かを計画したり、開発したりすると、その完遂までには、想定外の出来事がいくらでも出てくる」

 というものだ。

 そんなものがどんどん出てくると、結果として、

「物事は計画通りにいかない」

 ということになり、

「下手に計画が完璧であればあるほど、思わぬところがほころんでしまい、最初から、うまくいかない場合の対処をしていないと、それこそ、脆弱な計画ということになり、あっという間に、計画が暴露されてしまい、単純な犯罪と化してしまうということになるのではないだろうか?」

 それを考えると、

「やはり、世の中に完全犯罪なるものはありえない」

 ということになるのであろう。

 犯罪計画というものが、どのようなものなのかということを考えていると、

「誰もが、完全犯罪をもくろむものだが、少しずつその計画が瓦解していき、次第に破綻に近づいていくのだろうが、その犯行をどこまで自分の中で完遂させないと、乗り掛かった舟というものが沈んでいくだけとなるので、結果やめられなくなってしまう」

 ということになるのではないだろうか。

 もちろん、

「誰かを殺したい」

 あるいは、

「死んでもらわなければいけない」

 という切羽詰まった事情であったり、その人が生きていることが、自分の存在を否定してしまいかねないほどの、恨みを持った人であるということを考えると、第一に思うことは、

「その人間の抹殺が第一条件で、自分が助かるというのは、二の次だ」

 と思ったとすると、最悪、

「相手を殺して、自分も死ぬ」

 ということもありなのかも知れない。

 ただ、それはあくまでも、最悪ということであり、なるべくなら、死にたくなどないというものだ。

「あんなクズのために、どうして自分が死ななければならないのか?」

 とも思うからだ。

 相手も死んで、自分も死ぬというのは、結果としては、対等であり、殺したい相手が、差し違えるにふさわしい相手なのかということになるのだ。

 殺したいだけの相手が、

「差し違えるほどの人間であるわけもない」

 ということであり、

「みずみす、自分も死ななければならないという理不尽なことを甘んじて受け入れる必要などない」

 といえるであろう。

 それを考えると、

「完全犯罪を目指す」

 ということは、

「自分が、殺したい相手のために差し違えるような破滅をしたくない」

 という思いがあるからに違いないのだ。


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