第2話 交換殺人
この事件が起こってから、世間の犯罪形態というものは、微妙に変わってきたような気がする。
時代としても、会社や家族で、かなり変わってきたというのも当たり前のことであった。
というのも、事件として、
「バブル崩壊」
というものが起こったからであった。
「事業を拡大すればするほど儲かる」
とおうことで、当時神話として言われていた。
「銀行は絶対に潰れない」
ということで、その銀行が、
「融資しましょう」
ということであれば、企業の方も、安心して事業を拡大する。
しかも、銀行営業マンから、
「少し増額しましょう」
などといわれると、
「うちの企業はそれだけ銀行からも期待されているのだ」
と思うと、銀行の申し出を何が断れるというのだろうか。
実際に、
「ありがとうございます」
ということでお金を借りて、事業を拡大すれば、それだけの成果が数字となって表れて、まさか、それが、
「虚空で、実態のないものだ」
という意識が、誰にあったであろうか?
そもそも、
「バブル経済」
というのは、泡であり、実態のないものだ。
当時は、
「土地ころがし」
などという言葉もあり、
「土地を右から左に転がすだけで、大きな富が得られる」
という時代だった。
だからこそ、
「投資は正義」
といわれていたりして、
「お金を回すことが、経済を豊かにすることで、皆が幸せになれることだ」
と信じて疑わなかったのだ。
それは確かに間違いではない。
歯車が一つかみ合えば、すべてがうまくいくからで、逆に一つでも狂えば、すべてが瓦解するといってもいいだろう。
それくらいの理屈は分かっていた人もいるだろう。
しかし、それを口にしてしまい、そのために、もしうまくいっていることが、いつの間にかうまくいかなくなり、結果、
「自分の一言が、世間の歯車を狂わし、どうにもならない状況にしてしまったら」
ということを考えると、何もできなくなってしまう。
特に、
「うまくいっている」
ということであればあるほど、
「自分の一言が余計な波紋を呼んだり、想定していないことが起こってしまったりすると、その責務は、すべて自分に来る」
というものである。
精神的にも、罪の意識にさいなまれ、それが自分を苦しめることになるのだ。
そんな状況を自らが作り出すというリスクは、世の中がうまく回っているだけに、何もできないのである。
「世の中というものが、どうなればいいのか?」
そんなことが分かっていれば、誰も苦労はしない。
「評論家」
などという人もいらない。
もっといえば、
「これだけ毎日事件があり、新聞が溢れんばかりの記事で埋まるのだから、何を持って平和というのか、分からない状況だ」
というカオスな状況になっていることであろう。
犯罪の中には、人間の心理を巧みに操るやつらもいる。いや、
「心理を巧みに使えるだけのやつでなければ、
「犯罪というものを企むというのは、ある意味おこがましい」
といってもいいだろう。
今はどうかは知らないが、昔であれば、
「日本の警察は優秀で、東京は、世界先進国の首都の中でも一番安全だ」
といわれていた。
実際に、本当に治安がいいのかも知れないが、実際にはよく分からない。犯罪を犯すには、そんな警察を欺かなければならず、
「捕まるかも知れない」
というリスクを犯すわけなので、犯罪計画は、少なくとも入念に練る必要があるということである。
確かに、犯罪は、
「入念に啓作されたものだけではない」
といえるだろう。
衝動的に相手を殺してしまう場合もあれば、本当なら、事故で済まされることが、放置してしまったために、殺人事件になってしまったりすることだってある。それも、衝動的な犯罪と同じで、入念な計画などない。
そもそも、
「犯罪を犯す意思があったのかどうか?」
それが問題である。
人殺しをしたとしても、
「もみ合っていて、突き飛ばしたことで、相手が頭を打ち、その打ち所が悪く、死んでしまった」
ということもあるだろう。
気が動転していれば、その場から立ち去ってしまうことも普通にある。半日、あるいは、一日経ったところで、思い直して自首しに行こうとしても、今の時代は、防犯カメラなどもあり、最初から犯行の意志がないのであれば、手袋をしていなかったりして、指紋が残っていることもあるだろう。
特に、着衣であったり、カバンなどに、指紋が残っていれば、基本的に近親者以外の指紋があれば、怪しいと思われて仕方がない。それと防犯カメラから、人物の特定だってすることもできるのだし、もし、警察の中に知っている人がいるなどということになれば、本人が考えているうちに、警察が任意同行を求めてくるということくらいあり得るだろう。
さすがに、1日くらいでは、指紋から本人にたどり着くのは難しいかも知れないが、何か他のことで警察に指紋が残っていないとも限らない。
空き巣被害などに遭うと、指紋を取られることは当たり前だ。そこから、
「足がつく」
ということも普通にあるだろう。
「刑事ドラマの見過ぎ」
といわれるかも知れないが、それくらいのことは、普通に知っている人も多いことだろう。
刑事ドラマなどを見ていると、
「昭和時代のアナログの捜査」
などという言葉がよく出てくる。
「捜査というのは、足で稼ぐものだ。刑事の靴がいつも新品だなどというのは、仕事をしていない証拠だ」
などといわれていたのが、昭和時代であろう。
これが、コンピュータの普及などによって、
「犯人のイメージを分析する」
ということで、プロファイリングというもので捜査をするということもあった。
これに必要なものとして、膨大な量の報告書であったり、調書のようなものを、コンピュータに入力する必要がある。
「知りたい情報を、知りたい角度で分析したり、検索を行ったりするには、もちろん、検索ソフトも必要だが、統計として割り出すために、データ入力が必須である」
ということは分かり切っているということである。
今の時代であれば、パソコンやスマホなどの、
「検索エンジン」
などというものは、当たり前のように使っている。
当然、開発され始めてから、かなりの時間が経っているのだから、入力にしても、ソフト開発にしても、かなり進んでいることであろう。
ただ、事件というのは、日ごろ毎日のように起こっている。前述のように、
「今日、100件事件があったから、明日は0ではないか?」
ということはありえない。
「今日100あったのなら、誤差の範囲くらいで、犯罪は起こるものだ」
ということなのだ。
考えてみれば、実に不思議なもので、
「まったく知らない同士の、まったく別の犯人が、今日は俺が犯罪をするから、お前は明日」
というようなことをするわけもないのだ。
そういう意味で、まんべんなく犯行が行われるというのは、不思議なことだといえるだろう。
もし、
「示し合わせた犯罪」
というものがあるとすれば、一つ思い浮かぶものとして、
「交換殺人」
というものがある。
交換殺人というのは、
「成功すれば、完全犯罪であるが、その可能性は低く、まずありえない」
というのが、ちまたの考えではないだろうか?
あるとすれば、
「探偵小説などでなければありえない」
ということである。
なぜなら、
「交換殺人というのは、ハードルが高い」
といえるからである。
つまり、交換殺人というものは、
「メリットとデメリットが多すぎる」
ということである。
これは、
「ハイリスクハイリターン」
だということで、まるで、博打のようなものだといえるのではないだろうか?
パチンコなどであれば、
「荒い台」
ということで、
「勝つ時は大勝するが、負ける時も、一気に負ける」
というものだ。
それでも、トータルすれば、負けてはいるだろうが、それほど本人は、負けているという意識がないのかも知れない。
勝つ時が稀なだけに、爆発した時の興奮は、
「まるで昨日のことのようだ」
と思うほどになり、勝ち負けの発想は、
「勝った時は、まるで昨日のことのように感じ。負けている時は、負け続けであろうから、次第に負けているという感覚がマヒしてくる」
ということになる。
その方が自分の中で、罪悪感というものが軽減され、
「まるで免罪符を得た」
かのように感じさせるのではないだろうか。
それを考えると、
「なるほど、これなら依存するはずだ」
ということになる。
買い物依存の場合は、代価としての商品が手元に残るが、パチンコは、勝った時だけ、お金が戻ってくる。
しかし、このお金を、
「あぶく銭」
ということですぐに使わず、
「次回のゲーム代」
と思えば、代価のようなものということで、負けても勝ってもそんなに問題視しないということになるだおろう。
交換殺人においてのメリット、いわゆる、
「完全犯罪たる理由」
というのは、まず、
「特定されにくい」
ということになる。
しかも、状況証拠だけではほとんど話にならない。それこそ、
「夢物語を話している」
というだけにしかならないということであり、その理由としては、
「交換殺人など、ドラマか小説でしかありえない」
ということだからである。
実際に、本当の事件として発生したという事実を誰も知らない。だから、誰も本気にはしないし、夢物語としてしか見られないということだ。
だが、実際に成功すれば、これほどの完全犯罪はないといってもいいかも知れない。なぜなら、交換殺人というものを行うメリットとして、
「犯人として疑われるであろう、一番怪しい人物。実際に、殺したいという動機がある人物として犯人が挙がったとしても、実行犯ではないのだから、鉄壁のアリバイを作ってさえいれば、それでいい」
ということになる。
また実行犯が、
「被害者とまったく利害関係のない人物だということになれば、疑われるということもない」
といえるだろう。
つまり、
「実行犯が被害者とはまったく関係なく、また、世間体では、真犯人と実行犯にかかわりがなければ、警察は、実行犯を疑うことはない」
という一種の、三段論法的な発想になるのであった。
このままでは、実行犯は、
「犯罪を犯し損だ」
ということになるわけで、それでは不公平なので、逆に、最初の事件では、実行犯だった人間が、どうしても殺したいという相手を、最初の事件の真犯人が実行犯となって、逆に最初の事件で実行犯をしてくれた人のために、人殺しを行うという、
「襷が掛かった犯罪」
ということになるのであろう。
だから、
「それぞれの犯人に、接点がなければ、完全犯罪が成立する」
ということになるのだ。
しかし、そのための、デメリットも相当にあるといってもいいだろう。
交換殺人というものの肝は、何といっても、
「それぞれに、関係性を見いだせないということが命だ」
ということである。
これが見つかってしまうと、すべてにおいて、それまでつながっていなかった話が一つの線でつながることになり、証拠集めも、警察が調べれば、
「いくらでも、出てくる」
ということになるかも知れない。
犯人は、必死になって、二人の関係性を隠そうとするだろう。
それが肝なのだから、当たり前のことなのだが、それはあくまでも、一点を集中的に見ていくということになる。
しかし、調査する方は、まず全体を見て、そこから絞っていくので、まったく犯人たちとは違うところから攻めてくる。しかも、一つを重点的に見てしまうのであるから、逆から見た場合に見つからないということが往々にしてあるということに気づかないといえるであろう。
それを考えると、
「完全犯罪をもくろもうとすると、一つのアリの巣の穴が、あっという間に巨大な山を潰してしまうような穴になってしまう」
ということだ。
そのデメリットという意味で、一番の盲点は、
「実に簡単で、調べる方からすれば、最初に疑問を持つことすら、分かっていない」
ということである。
しかも、その気づかない部分というのは、
「交わることのない平行線」
のようなもので、結局、
「分かるであろうはずの、肝心なことを見逃してしまうと、一周まわるまで、気づかない」
ということになり、その時には、逮捕されているということになるであろう。
それは、一つは、
「灯台下暗し」
ということであり、まるで石ころのような存在なのかも知れない。
というのも、
「何かを企む人間は、自分がされることに気づかない」
という言葉もあるように、例えば、
「人を殺そうとたくらんでいる人は、自分が誰かから殺されるということを考えていない」
というもので、それだけガードが甘くなるという人もいるだろう。
また、石ころのように、河原に落ちている石ころは、目の前にあっても、
「そこにあって当たり前のものだ」
ということであれば、注意深くまわりを探っていても、そんなどこにでもあるような石ころにまで目がいかないということになるのである
主犯が最初に犯罪計画を考えた時、
「交換殺人というのは、自分たちの関係性がバレると終わりだ」
ということは分かっている。
分かっているからこそ、そこを中心に見るのだが、相手も同じはずだ。
しかし、それ以外の肝心なことを忘れてしまっては、いくら完全犯罪を計画したとしても、それは、
「絵に描いた餅」
でしかないということである。
というのは、
「相手との関連性ばかりを気にしていると、肝心なこと。つまり、心理的な部分で、当たり前のことに気づかれてしまうと。終わりだ」
ということである。
交換殺人というのは、
「最初の殺人では、実行犯であるか、それとも主犯であるか」
ということになるわけで、
「次の犯行では、その逆を演じる」
と考えるから、
「完全犯罪」
ということになるわけで、主犯としては、
「計画通りに事が運べば、完全犯罪が成立する」
と思っていて、計画が完成すると、
「その計画にまい進することに、全神経を集中させる」
ということになるであろう。
もっといえば、
「相手も自分と同じ気持ちで、まい進してくれる」
と、完全に相手を、
「自分の手駒」
としか思っていないだろう。
もちろん、お互いに一番大切なことは、
「それぞれの関係性がバレない」
ということが、犯行後は一番大切なことであることは分かっている。
「犯行完遂のために、かなりの労力を使う」
ということは当然のことだが、他の犯罪よりも、
「犯行後の行動が、一番大変だ」
というのも、この交換殺人というものの難しいところである。
何といっても、大きな問題として考えられるのは、
「きっと犯行計画を練っている時には、このことは、絶対に思いつかないだろう」
と思えることで、それだけに、
「計画が完成し、実行段階に入ると、余計に、気づくことはないだろう」
ともいえる。
なぜなら、犯行自体は、
「待ったなし」
ということで、計画の段階で、余裕のないものになっている可能性があるからだ。だから、もしもう一方が、その単純なことに気づけば、
「相手の一人勝ち」
ということになる可能性をはらんでいる。
しかし、実際には、
「交換殺人などはない」
ということは、犯罪計画の間に、計画を立てる人が、そのことに気づくからではないだろうか?
ただ、
「どうしても、殺したい相手がいて。犯罪計画に全神経を集中させ、性格的にも、計画の修正が利かないという人であれば、もうどうすることもできないということになるであろう」
それを考えると、
「交換殺人というのは、向き不向きがあるのだろうが、結局は、実現は不可能であろう」
と考えられるのだ。
交換殺人の一番のデメリットというのは、この犯罪の肝であるところの、
「二人の関係性」
というところから、理論的に考えればすぐに分かることであった。
というのも、二人の関係性が分からないようにして、お互いに疑われないようにするためには、
「主犯には、絶対的なアリバイを作り、実行犯は、絶対に被害者との関係がない人間でないといけない」
ということになるのだ。
そうなると、
「二人が同時に実行犯になる」
ということは物理的に不可能だ。
というのは、
「犯行を同時に行わなければ、最初の実行犯が不利だ」
ということだ。
確かに、練った犯行計画に対してお互いに同意したといっても、それは、
「口約束」
でしかない。
また、約定を取り交わしていたとしても、これは、
「殺人契約の密約」
ということで、法律的に生きるわけではない。
「殺人の契約書など、不法行為であり、そもそも、そんなものがあってはいけない」
そして、
「その契約書がそのまま犯罪の物証ということで、犯人側が表に出せるものではない」
そうなると、最初から作っていないと見るのが当然であろう。
最初に実行犯になれば、
「次は、相手が自分の殺してほしい相手を殺してくれる」
と考えるのは、甘いのだ。
というのは、
「最初の事件で、鉄壁のアリバイを作って、自分は一番安全なところにいるのだから、何も危険を犯して、最初の実行犯のために、自分が殺人を犯す必要などない」
ということである。
相手は、
「約束が違う」
と言い出すだろう。
しかし、実行犯としても、自分が主犯と関係があるということになると、自分が疑われるということになり、どんどん自分の立場が危なくなる。
相手に何かをさせようとしても、自分が実行犯であるということを示さないと、どうしようもない。
そもそも、そんなことをすれば、次に実行犯になってもらいたいと思っている人が主犯で捕まってしまうことになる。
「一人の人間を、実行犯という形の共犯となった以上、二人は一蓮托生であるということに違いはない」
ということであった。
ただ立場としては、
「絶対的な差がある」
ということになり、何もできないということであろう。
これが、
「うまく行けば完全犯罪となるが、実用出来ではない」
といわれる、
「交換殺人」
ということなのだ。
さらに、交換殺人というものは、以前であれば、ゴールがあった。
それは、
「時効」
というものであった。
「殺人罪であれば、15年間、警察に捕まらなければ、時効が成立し、犯罪が露呈しても、逮捕することも、裁判に掛けるということもできなくなる」
ということである。
だから、15年経ってしまえば、二人の関係がバレようがそうしようが関係ないということになるのだ。
それを考えると、
「今は、時効というものはない」
ということになる。
これは、
「凶悪犯」
に限ってのことで、凶悪犯でなければ、従来のような時効は成立する。
しかし、少なくとも殺人に関しては、撤廃されたといってもいいだろう。
ということは、犯人が生きている以上、永遠に罪に問われなくなるという時が訪れるわけではない。
もし、犯人が死んでいたとすれば、その時は、
「被疑者死亡」
ということでの書類送検ということになるだろう。
ただ、そうなると、裁判で明らかにすることはできず、ひょっとすると、殺人の中にでも、
「情状酌量」
というものが認められるような案件であっても、結果として、裁判が行われるわけではないので、
「死んでしまった人を悪くいうのは忍びないが」
とは言いながら、心の中では、
「あいつは、凶悪犯」
というレッテルが貼られたままになるであろう。
それを考えると、
「裁判というのは、刑罰の確定というだけではなく、犯人側の厚生も考えている」
ということになるのかも知れない。
しかし、日本という国は、
「加害者に甘く、被害者には厳しい」
といわれているところがある。
「一番辛いのは、被害者家族の方なのに」
ということで、ほとんどの場合は、殺されてしまった人の家族が、どんな思いでいるか?
ということを、裁判では明らかにしてくれない。
という人もいる。
もっといえば、
「かたき討ち」
というのが法律的に認められていないので、裁判で、本当は極刑にしてほしいと望む被害者家族の気持ちを裏切る形で、例えば、
「懲役10年」
という形になったとすれば、
「犯人は、たったの10年で出てくる」
ということになるのだ。
そして、
「罪を償った」
ということで、娑婆に出て、何事もかったかのように暮らすいうことが、許されるかという葛藤に悩むとになるということである。
殺人事件に限らず、
「被害者の中で永遠に残る傷があるとすれば、それは、すべてにおいて、犯罪としては、卑劣なことだ」
ということになり、
「日本の法律は被害者には厳しい」
ということになる。
ただ、
「加害者にも人権はある」
というのが、民主主義の建前で、しかも、何もしていない加害者の家族が、
「自分の家族に犯罪加害者がいる」
というだけで白い目で見られるのだ。
しかも、警察官などは、
「近親者に、逮捕者がいれば、警察官にはなれない」
ということで、
「警察官を目指している人には、その道が断たれる」
ということになり、実際に警察官の人は、
「辞職しなければいけない」
ということになっている。
それだけ警察官というものが厳しいということになるのだろうが、
「警察官本人には関係のないことなのに、近親者に逮捕者がいるということで、ここまでなるというのは、実に理不尽なことだ」
といえるのではないだろうか。
ただ、犯罪というものは、
「誰も起こしたくて起こす人はいない」
ということも言える。
何かののっぴきならない事情であったり、
「大切な人を奪われた」
ということで、犯罪者は、
「警察が何もしてくれないので、自分が相手に復讐をした」
という場合もあるだろう。
それこそ、
「加害者にも人権やプライバシーがある」
ということになるのだろうが、被害者の家族とすれば、
「そんな生易しいことで、許せるわけはない」
ということになる。
「死んでいった近しい人に、顔向けができない」
と思うのか、それとも、
「苦しかっただろうに、もっと生きていたいと思っていただろうに」
ということを思うと、
「志半ばで死んでいった人のことを考えると、どうしようもなくなるという場合だってあるであろう」
それが、親子や兄弟。そして、これから一緒に家族になると誓った、恋人であったり、婚約者であれば、その気持ちは強烈なものであろう。
「これから、自分は、あの人のいないこの世界で、どうやって生きていけばいいんだろう?」
ということを思い悩んでの犯行ということになるだろう。
それを考えると、
「警察や裁判というのは、生ぬるい」
と思っても仕方がない。
「警察や司法ができないのであれば、自分がするしかない」
ということで覚悟を決めての犯罪というのも、実に多いことだろう。
世の中で、
「犯罪がなくならない」
というのは、
「復讐された相手にも家族がいる」
ということで、そこから、
「いたちごっこのような、負の連鎖」
というものが、無限に続いていくことになる。
ということであろう。
司法が復讐を認めないのは、本当のところは、そういう
「負の連鎖」
というものが、どれほど犯罪を増長させるかということを分かっているからなのかも知れない。
そんな交換殺人であるが、やはり、
「もろ刃の剣」
といってもいいのではないだろうか。
そういう意味で、
「ハイリスクハイリターン」
というものであって、
「ばくち的」
だということになると、誰もやらないということのなるであろう。
しかし、そこに挑戦するのが、
「探偵小説作家」
というものである。
奇抜な発想がなければ売れないわけで、かといって、
「小説のタブーというものを破る」
ということはやってはいけないということになるだろう。
その一つとしていえることは、
「ノックスの十戒」
であったり、
「バンダインの二十則」
と呼ばれるものであった。
例えば、
「犯人を最後の最後に登場させる」
というのは反則である。
また、
「犯罪のトリックに、霊能力などの、超常現象で簡単に片づけてはいけないだろう」
とは言っても、
「絶対にダメだ」
ということはない。
読者の想像内であったり、ストーリーの展開として、舞台などが、
「超常現象がテーマとなっている」
とことであれば、
「何とかありだ」
といえるだろう。
つまり、
「小説を書くうえで、作者が、読者が、謎解きできるだけのヒントを与えていれば、それは十分に許容範囲である」
といえる。
それどころか、
「探偵小説の醍醐味は、作者が読者に挑戦し、謎を解いてみろということで、その謎解きの材料を、ちゃんと作者が示していれば、問題ない」
ということである。
読者が看破できれば、読者の勝ち。最後に、読者に、
「おお、そう来たか?」
ということで、分からなくても、納得いける内容であれば、
「お金を出して買った甲斐があった」
ということになるのだ。
それが、どんなにベストセラーであっても、その読者に、
「なんだ、評判ほどではないな」
と思われれば、作者の負けである。
「小説というのは、勝ち負けではない」
という人もいるかも知れないが、それだけではない。
確かに勝ち負けではないが、
「金を出して買った以上、ミステリーというと、謎解きの醍醐味を味わうものだ」
と読者が考えれば、少なくとも、読者に対して、作者が、
「挑戦状をたたきつけている」
ということでなければ、読者は納得しないだろう。
どんなにベストセラーであろうがなかろうが、
「小説というのは、そのジャンルの中で、最低限の小説としての体裁以外に、買う価値というものがあるとすれば、読者が、読んで、納得のいく小説」
ということになるであろう。
その中でミステリーというのは、その謎解きに対しての、
「トリック」
であったり
「読者への挑戦」
であったり、
話の進め方として、
「犯人が最初から分かっていて、犯人を追い詰めていくというような作風もある」
というものだ。
それが、
「謎解きの醍醐味に繋がってくるというもので、そして、作者とすれば、自分の作風であり、それが、作者の特徴」
ということであり。それが、
「個性だ」
ということになるであろう。
それを考えると、
「交換殺人」
などの殺害方法は、
「トリックを絡めるところ」
ということで、殺害方法や、トリックの種類によっては、
「読者に、最初から分かっていないといけない」
というものもあれば、
「読者に看破された時点で、作者の負け」
というものもある。
前者であれば、
「アリバイトリック」
であったり、
「密室殺人」
であったり、
「死体損壊トリック」
などは、殺害現場を見たり、捜査が進むにつれて分かってくるというもので、探偵小説としては、ここを読者に隠しておくというのは、ルール違反だということになるであろう。
逆に後者とすれば、前述の、
「交換殺人」
であったり、
「一人二役トリック」
などは、作者に分かってしまうと、その時点でアウトだということであろう。
前者の場合は、アリバイトリックだということは分かっても、問題は、そのアリバイトリックの解くということが醍醐味であり、一言でトリックといってしまったとしても、そこから謎解きがその後にあるということであれば、いかに、謎解きと読者がするかということになるのだが、作者としては、読者に対して、
「出せるだけの情報は絶対に出しておかないといけない」
ということになるのだ。
それも、たとえば、アリバイトリックなどで、
「電車を使えば、アリバイトリックとしては完璧だが、飛行機を使うということを読者が最終的なトリックとすれば、それを卑怯だ」
といえるだろうか。
この場合は、
確かに提示はしていないが、
「飛行機を使う」
ということくらいは、読者にも容易に判断できる。それを作者が提示しなかったからといって、
「卑怯だということになるのは、おかしなものである」
というのは、
「読者としては、言わないことで、読者に、飛行機を使うなどありえない。あるいは、飛行場が近くにあるともないとも言っていないから、飛行機はありえないと考えたとすれば、読者はブービートラップに引っかかった」
ということになるであろう。
それを考えると、
「情報を出さないのもわざとということであり。それこそ、トリックの中の一つとして、
叙述トリックというものだ」
といえるであろう。
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