第三章──修羅道踏破編
第16話『胡蝶の羽ばたき』
「友は言いました。『汝、隣人にものを頼む際は、誠意を尽くせ。さすれば隣人も誠意を以ってものへ取り組むだろう』と」
寂れて久しい廃教会。
古くは王都の信仰を一身に集め、セイヴァ教ひいては主たるメシエル・セイヴァの威光を轟かせていた祈りと静謐の本部。
だが、王城が大幅かつ急速な繁栄を遂げるに従い、人々の関心は無形の奇跡から有形の物質へと移行する。長い歳月をかけて現在の規模へと至った教会も、今や手入れの一つもなく崩れ落ちた外壁から腸を晒すのみ。
神父が聖書の一節を読み解き、傾聴するは野生の烏。
朽ちた長椅子に座り、瓦解した胸像に足をつけ、外界から寒気を通す窓枠に佇む。
見渡す限りの黒色は月明かりが零れる夜闇をしてなお黒い。ともすれば闇に蠢く影の軍勢が如き様相を前に、神父は凛とした声で告げる。
「と、いうことだから。後はよろしくね」
殊更大きな音を立てて手に持つ聖書が閉じられ、同時に烏達が一斉に羽ばたく。
舞い散る漆黒の羽根が人足の途絶えて久しい聖域を塗り潰し、喧しい羽音が嵐乱の前触れを果たす。寂れた廃墟から飛び立つ腐肉を啄む獣の群生に、神の訓示に意味を見出した様子は皆無。
何よりも、双眼には正気の喪失を思わせる輝きを放っていた。
「ヨハン書二章一三節……今のが魔術の詠唱というものか?」
神父だけが存在したと思しき教会に、低く重い声が響く。
声に呼応し、サファイアを彷彿とさせる蒼の瞳が鋭く射抜いた。
「いいえ、アレはただの趣味よ。弟子の残した聖書になら聖骸に関することもあるかと思って目を通してたんだけど……時間の無駄だったわね」
己が信仰をいとも簡単に切り捨てると、神父は不要になった新聞紙を捨てるように聖書を手放す。床を叩く本の音が止まると、元神父は目蓋を固く閉じた。
「ヴェアヴォルフ。ちょっと集中するから、警戒お願いね」
「委細承知」
目蓋の裏、少女の視界に跳び来んできたのは夥しいまでの視覚情報の濁流。
教会に招集した烏は、音に乗せて飛ばした魔力によって軒並み使い魔へと落とし込んだ。正確な数こそ把握していないが、目まぐるしく移り変わる光景は一〇〇〇や二〇〇〇では収まらない。
ともすれば脳が過負荷で
王都の町並を上空から睥睨するのは、昼間であれば景観を楽しめたであろうか。
が、流石に昼では一箇所に集中した烏の群生が不自然極まる。深夜の時間帯に加え、近頃は連続殺人事件によって人足が疎らな今だからこそ、少女の目は王都全域を掌中に抑えられた。
「連続殺人事件……えぇ、何とも胸糞の悪い事件よ」
零れた言葉に釣られてか、拳が固く握り締められる。
だが、現在巷を賑わせている殺人犯はどうだ。
弱者を標的に定め、終生を玩弄した末に死体の尊厳さえも奪い去る。笑顔などと、自己満足の象徴だけを現場に残して。
「思うのだが、その事件を貴様が追う必要があるのか。フラン?」
「現場からは異常なまでに証拠が欠落してる。意図的に残してる笑顔のマーク以外の一切を消し去るだなんて、多死者以外にあり得ないわ」
「だとしても、だ。
貴様の目的は聖骸の確保のはず。無駄な交戦を控え、雌伏に徹するも戦略だぞ?」
厳とした声音は、常人が耳にすれば即座に翻意する重みを内包していた。
だがフランと呼ばれた少女は二つ結びにした金髪を揺らすと、凛とした声が重厚感のある響きに反論する。
「じゃあ貴方は戦場と無関係な場所で意味もなく殺戮を繰り返す輩を、戦の邪魔にならないからと無視できる?」
「……真に守護すべきもののためなら」
腹の底から吐き出す声音は、本音と呼ぶには痛苦に塗れていた。万全を前提とするならば、理想を口にしていいならば。
声の主もまた、フランが望む答えを口にしていたと。
一瞬だけ開かれた瞳は、不快気に歯軋りする様子を目の当たりにする。
「そう。私の場合は、矜持とでも言えばいいのかしらね。ただ目的を達成する以外にも譲れないものが結構あるのよ」
「難儀な生き方だ」
「お褒めに預かり光栄ね」
やがて烏の内一羽が路地裏の一角を捉える。
街灯も届かぬ闇に呑まれた深淵の奥、鮮血に濡れた幼子と返り血を気にも留めず抱き締める少年を。
「子供と、少年……?
流石に使い魔越しじゃ、どっちが多死者なのか判別できないわね」
少女は目蓋を開くと、蒼の瞳で教会を改めて視界に納める。
打ち捨てられ、今や神の加護すらも遥か遠くへ置き去りにした暗がりの世界を。
「ん?」
だからこそ、認識が遅れた。
教会の一角、窓際に悪酔いした酔っ払いよろしく身体を揺らす烏がいることに。
赤のコートを揺らして目的地へ進むも、肝心の目標はフランの接近など意にも介さず酩酊を続けた。大口を広げて涎を垂らす様は、使い魔とは別の形で正気を手放している。
碌な抵抗もなく掬い上げると、掌で包み込んで魔力を照射。不調の原因を探った。
究明した真実は、至極単純。
「二つの魔力が、混在してる……?」
即席の使い魔への指示は魔力を介したものが大半。
故に第三者から注がれた魔力が抜け切らない内に指示を出した所で、体内で衝突し合って目的通りに動かすこともままならない。
フラン以前に注がれた魔力の存在は、彼女以外に王都を監視している存在を示唆する。
「確定とは言えないけれど、どちらかが
「どうするフラン、仕掛けるか?」
「少しだけ置きましょう。流石に今から事に及ぶのは拙速というものよ、それに少し観察したいしね」
言い、フランは教会の扉をくぐると膝を折り曲げて跳躍。
少女の肢体が月光に照らされ、光なき闇夜に浮かび上がる。
二つ結びにした金髪に宝石を思わせる蒼の瞳、痩身に右腕と左足だけ皮膚を晒した黒衣のインナーに赤のコートとショートパンツ。質のいいロングブーツは使い倒されたのか、各所に少なくない傷を残していた。
宙に浮かぶ肉体は容易に廃教会の屋上、更に象徴として存在する十字架の頂点へと着地を果たす。
そして烏の発見した方角を向くと、両目に魔力を通して遠見。遥か先にある路地裏の様子を眺めた。
幼子と抱き締める少年、そして彼らのどちらかが手を下したと思しき死体が三人分。
犠牲者は笑顔魔の犯行に於ける共通点と新聞が過大に主張していた女性ではなく男性。だが、
証拠に魔術の痕跡や主を失った得物がフランからも確認できた。
「アレは確か王立騎士団だったっけ……あの男の服はそこの制服ね。それに転がってる死体の服も同じ、と。
それに距離があるから分からないけど、魔力も二人のどちらか」
殺人の犯人か片棒を担ぐ存在か。
いずれにせよ、公的な立場を持つのであらば少年を軸に情報を集めるのが常道であろうか。
フランは時折独り言を呟きながら、殺人犯を追い詰める筋道を構築した。
なるべく無関係な人間を巻き込まず、かつ逃走の余地を無くすように。無益な殺戮を繰り返すケダモノに、人としての鉄槌を下せるように。
「ヴェアヴォルフ」
凛とした声音で名を告げると、十字架の頂点に一人の武人が片膝を立てる。
鬣を思わせる白銀の長髪に無精髭、威圧的な金の眼差しに老齢さを感じさせる顔立ち。血濡れの甲冑に右肩には蝙蝠を模したマントを風にたなびかせていた。
武人は無言のまま、フランと同じ方角を眺める。
彼に遠見の魔術は使えない。そも魔術に関しては門外漢であり、魔力は専ら身体能力の強化に割り振っているのがヴェアヴォルフ。護国の戦将として名を馳せた英傑である。
「彼らに接触する日は私の合図でいつでも出れるように準備していてね。探りを入れて、止まる気がないならば一気に攻勢に出るわよ」
「委細承知」
時として蝶の羽ばたきが遥か遠くで台風を呼ぶ。
本来ならば殺人事件の調査を進めながらも、フランが即座にジルと接触することはない。
だが、本来ならば起こり得ない事件が二人に接点を作り出す。
激突の定めという、接点を。
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