第14話『自由の兆し』
王都全域に夜の帳が降り、闇が一層に深まる。
頭上の星々が鼠色の雲に覆われたため、天上の神々も地上を見通すための穴を失った。
神の代行者たる教会も運営するは人の手、深夜遅くまで活動している訳ではない。
天上の目は塞がれ、地上より覗く者も一人たりとも存在しない。故に夜闇を駆け、屋根を点々と飛び移る一陣の風に気づく者は絶無。
「……」
無造作に腰まで伸ばした白髪をたなびかせ、端々の擦れたロングワンピースが宙を舞う。
両の手に握る血潮の目立つ出刃包丁は刃毀れが著しく、一見すれば刃物というよりも鈍器を連想させた。
が、夥しいまでの鮮血を啜り、凹凸が表面にまで及んだ凶器は異質なまでの説得力を有している。職人が長年担ってきた得物が無言で腕を証明するが如く、過去に切り刻んだ魂が開放の時を待ち望み蠢動していた。
「あー、うー……おー」
呟かれる音に意味はなく、天上の声は痴愚のそれを連想させる。
少女と呼ぶには小柄な体躯は幼い子供を想起し、にも関わらず先を進む速度は人の身を遥か彼方に置き去りとしていた。
闇の中に浮かぶ翡翠の瞳は喜色に歪んだ眼差しを地上へ注ぐものの、思うように獲物は見当たらない。享楽的に犯行を繰り返したことで都全体の警戒心が強まった結果であろうか。
「うー……誰もいない……」
口元に浮かぶ歪んだ三日月が反転するも、即座に笑みを再形成する。
「あー、笑顔笑顔。笑顔ならしあわせー」
紡ぐ言葉に意味はなく、そして声の主自身も意味を理解していない。
発言の大本ともいえる人物が、深く深く根付かせた張本人が、彼女を彼女たらしめる扱いをする口実に用いた詭弁に過ぎないのだから。
しかし、真意を理解する前に幸運が訪れては誤解するのも止む無しか。
「あー、見つけたー。これもしあわせー」
翡翠の瞳が目敏く獲物を捉え、俊足を以って屋根を駆け下りる。
たなびく風は知っている。
弄び喰らうべき存在は、常に人目のつかない場所にいると。
「あ、なんだぁテメェ……?」
「どこから来やがった、ガキが」
光届かぬ深淵。
手に持つランプの仄かな明かりが、二人の男性と地上に堕ちた翡翠の星を照らし出す。
魔道具による急速な発展の歪み、霧に沈んだ町が生んだ無垢なる殺戮者。僅か三年で一一名もの罪なき女性を切り刻み、笑顔の紋章を犯行現場に残していった
そして当然の如く望む形の
ジル・ミストレンジが、獲物を前に満面の笑みを覗かせた。
「ねーえー。二人はさ、しあわせ?」
「あぁ? テメェ何言って……!」
男性の片割れが言葉を紡ぐ隙はない。
確かに光明が捉えていた破顔する幼子は地面を叩き、続く声を二人の背後から紡ぐ。
「ジルはねー、そーねー、しあわせだよ」
「な、にを……?」
「は? どうし……」
不自然に言葉が途切れたことに相方が振り向けば、男の頭が上顎からずり落ちていく。生理的嫌悪を催す音が壁面に反響し、同時に舞い散る鮮血が足元を濡らす。
出刃包丁を滴る粘度の高い赤が音を立てて煉瓦を叩き、幼子は不気味に振り返った。
白い歯をランプに照らし、狂的な笑顔の仮面を張りつけて。
「だって笑顔だもん。笑顔だったらしあわせだもん」
「ッ……何言ってんだテメェッ。
──其は原初の一、生命の源。
星の息吹の一端よ、斯くも鋭く焼き抉れ──!」
ジルとの対話を不可能と判断したのか、男性は片手に持ったランプを触媒に魔術を行使。
途端にガラスを裁断した焔の刃が十重二十重、夜闇を焼き尽くして幼子へと迫る。
魔の探求に武力行使は欠かせない。他の魔術師や使い魔の反乱、追い求めた答えに対する衝突や魔術の触媒──更には聖骸のような聖遺物を巡る決闘など日常茶飯事。その上、近年では魔術を魔の探求ではなく単なる目的遂行の道具、魔道具の上位互換として見る動きも活発化している。
皮肉というべきか、男性達は魔術を道具として見る魔術使い共との凌ぎを削る戦いの末に腕前を大きく向上させていた。
単なる二小節の魔術ですらも、変幻自在の魔法の如く。
「怒ってちゃ殴られちゃうよー。おー、笑顔笑顔ー」
炎熱の極光がガラスに乱反射する不可思議な光景の中、ジルは身軽な動きで乱舞を回避すると瞬く間に男性との距離を詰める。
即座に煌めく白刃の一振りは、男性の血潮に濡れた努力を僅か数秒で両断すると意識諸共に奪い去った。
音を立てて崩れ落ちる男性だった肉塊へ振り返ると、翡翠の瞳が歪に輝く。
「おーあーうー。そうだ、お腹の中ので笑顔を作ろうかなー……」
「なんです、おい……」
ジルが自らの名案に両手を合わせるも、遠くから別の明かりが幼子を照らす。
曲がり角から顔を覗かせたのは、青を基調とした制服に四肢の甲冑を纏った恰幅のいい男性。左手にランプを持ちつつ、反対の手は帯刀した剣をいつでも引き抜けるよう柄を掴む姿勢は、見通しの劣悪な路地裏故の警戒心か。
「オイオイ、なんでこんな時間に子供が……って、こりゃあッ」
恰幅のいい男性は最初こそジルの身を案じる調子で話しかけたものの、足元に転がる骸を目撃してしまえば心中の第六感が最大限に警鐘を鳴らす。
即座に抜刀し、腰を落とした男性の中に幼子を見目通りに認識する油断はない。
「……王立騎士団所属のアキラッカ・N・ツオイ。ちょっと話を聞かせてもらいましょうか、
「ジルとお話? うん、いいよー!」
「調子が狂いそうですよ……全く」
ツオイは奥歯を噛み締めるも、屈託ない笑顔を見せるジルを前に緊張の糸を切らすまではいかない。
彼女自身気づいてはいないものの、顔やワンピースには多量の返り血が付着していたのだから。
「お話って何ー?」
「でしたら、まずはそこに転がってる連中は何です。まさか、酔っ払いとでもいう気はないでしょう?」
「あー、そのー、これはー……えへへー、何かなー?」
何を言うべきか頭を捻るものの、結局ジルは笑顔を添えて素直に誤魔化すこととした。ひとまず笑顔でさえあれば、殴られることはなかったのだから。
尤も、新人とはいえ王都の守護を担う騎士の一員。
幼子らしい情緒に引き摺られることはない。
「……ひとまず詰所まで来て貰いましょうか。騎士団に抵抗すれば怪我じゃすみませんからね、お嬢さん」
「うー、痛いは嫌ー」
ジルの身勝手な物言いに限界を迎えたのか。ツオイは力強く踏み込み、彼我の間合いを急速に詰めていく。
憤怒を極限まで凝縮した表情が迫る中、幼子は出刃包丁を改めて握り締めると迎撃の構えを取る。
振り下ろされる刃を身のこなしで回避すると、返しの刺突は素早く切り上げられた剣に遮られ致命には至らない。舞い散る火花が彼我の顔を照らすも、即座に次の光明が儚い命を散らす。
花弁が散るに五度、ジルは攻勢の調子を変えるべく身を低く屈めた。
「この、ふざけ……!」
下段への横薙ぎを跳躍で回避し、ジルは即座に足を伸ばす。
結果、切先が地面へと突き刺さり、ツオイの手には僅かな痺れが走った。
「つッ……!」
「あはははー!」
哄笑を上げるジルは困惑するツオイの隙を突き、刀身を踏み込み身を回す。
二度、三度。
男性の肉体が出刃包丁で切り刻まれ、同時にスキルの恩恵たる怨霊が生者の身を裂傷の形を以って蝕む。
弾け舞い散る血染めの華が柄から手を放させ、主を失った剣が虚しく音を立てた。急速に失われていく体温と意識がツオイの身体にたたらを踏ませ、辛うじて残った眼差しが罪の意識を持たぬ咎人を凝視する。
しかし眼差しの意図を掴めぬジルが首を傾げると、限界を迎えた躯体は俯せに倒れ伏した。
傷口から血が噴き出し数秒、無言の現場に羽ばたく音が響く。
「んー、烏さん。今日は早いんだねー」
頭上を見上げれば、一匹の烏がジルの犯行を目撃していた。目と目が合う感覚がするものの、気のせいだろうと首を振ると、足元の死体へと視線を移す。
そして出刃包丁の切先を向けた時、乾いた拍手の音が鳴り響いた。
「綺麗、あぁホンットに綺麗……!」
曇天の空を裂き、烏の飛び立つ先には真白な月が浮かび上がっていた。
更に一枚の羽根が宙を気ままに舞い下り、やがて一人の号泣している少年への視線誘導を果たす。
立っていた少年に対し、ジルは動揺を隠せない引きつった笑みで声をかけた。
「お、お兄さん、どうしたの……?」
「人ってさ、本当に綺麗なものを見ると感動で泣けてくるんだよ。ジルちゃん」
サイク・M・ハイラインは同期の骸を前にして、以前と変わらぬ愛を口走った。
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