第8話『泥中の蓮華』

 別に何か特別な事情があった訳ではない。

 骸と成り果てた女性に恨みはなく、逆に情愛もない。

 強いて言えば、そうしたかったから。

 ただ目に映った女性を切り刻み、彼女の鮮血を用いて壁に落書きがしたかっただけに過ぎない。次いでに言えば、明確に描きたい絵面も皆無。


「あー、んー……なーに書こっかなー」


 薄暗い路地裏、光の一辺も届かぬ王都の暗部にて。ジル・ミストレンジは無計画にぶちまけた塗料の上で、頬に手を当てて身体を左右に揺らす。

 肉袋から噴き出した鮮血も永遠ではない。

 時間が経てば乾燥し、色の鮮度も落ちてしまう。せめてまだ瑞々しい内に壁へ塗りたくりたいのだが、思い返せば筆も見当たらないではないか。


「あー、どこかないかなー?」


 首を左右に振り、辺りを見渡してみるもゴミ一つ見当たらない。

 女性を路地裏へと追い込んでいく内にわざわざ踏み込まない深部にまで到達してしまったのだろうか。湿気が目立つ空間に淀む空気すらも流れ込まない。

 が、やがて幼子は両手を合わせると、一つの答えに到達した。


「そうだ、笑顔を書こう!」


 無垢な笑みを浮かべ、ジルは地面に滴る血の海へとしゃがみ込む。手袋を乱雑に脱ぎ捨てて両手を血に浸し、ある程度掬い上げた状態で壁面へとぶつける。

 羊皮紙や画家が用いるような紙とは異なり、壁面は絵を描くのに適した画材ではない。

 しかし、何も知らぬジルが空想の羽を広げるには充分な土壌と、何よりも両手を伸ばしても届かないだけの広大な面積があった。

 まずは丸。

 続けて丸の中に目を意味する曲線を二つ。

 最後に欠かせない弧を描けば。


「完成ー! 笑顔ー!」


 ジルに向かって笑いかける、簡素な笑顔の子供が出来上がった。

 両手を上げて満足気な笑みを見せると続けて血の海の上を歩き、ワンピースに赤が付着するのにも構わず笑顔をもう一つ描く。

 先程と同様の手順を踏むも、次は目を縦線二つで表現した。

 新たな笑顔の誕生に目元を緩ませ、更なる力作へと意識を傾ける寸前。

 背後からの、視線。

 敵意は感じられない。が、あくまで暫定的なもの。いつ隙を見出して翻意するか分かったものではない。

 翡翠の瞳に敵愾心を満たし、時間を置いて振り返る。

 路地裏の一角、幼子が逃走するルートの一つを潰して立ちはだかるは一人の少年。

 後ろだけ腰まで伸ばした黒髪と喜色に歪んだ漆黒の瞳。共にラヌート王国には見慣れない色彩だが、纏う青の制服は王立騎士団所属を意味している。陽光遮る薄暗い空間には似つかわしくない白銀の甲冑を四肢に纏い、腰のベルトだけは不必要に長い。


「誰、お兄さん?」


 問いかけ、肺に溜まった空気を吐き出す。

 いつでも虚空より得物を取り出し、一跳びでは埋め切れぬ間合いを詰めて首を掻き切れるように。全ての動作を含めても、今ならば二秒とかからない。

 命を摘める確信の下、剣呑な空気が蔓延する。

 が、少年は場違いな笑みを浮かべると上機嫌な調子で口上を述べた。


「俺かい。俺は君の信者ファンだよ、ジル・ミストレンジちゃん」

「?」


 淀みなく告げられた自らの名に、ジルは警戒心を露わにする。

 多死者となる以前から犯行の足をつけられたことは一度たりともなかった。完全犯罪の申し子たる彼女の行いは望まぬ死を迎えたことで証拠抹消のスキルとして昇華し、最早常人では手掛かり一つ掴めはしない。

 生前からの確信が、眼前の見慣れない少年によって破られたのだ。

 発光する微粒子が幼子の手に集まると、徐々に一対の得物を形成。赤錆に塗れた刃毀れの目立つ出刃包丁を握り締め、刃の切先を不審な相手へ向けた。


「どうやってジルの名前を?」

「信者だからね。当然知ってるよ」


 答えになっていない答えを述べ、少年はジルとの距離を詰める。

 大仰に両手を広げた様は彼女の全てを受け入れんが如く。警戒心を解くためか、帯刀した剣も鞘ごと付近へ投げ捨てられていた。丸腰のままで出刃包丁の切先へ進む様は、彼に言わせれば殉教なのだろうか。

 敵意を見せず満面の笑みを浮かべて迫る様は、ともすれば見る者に狂気を見出させる程に。


「ねー、止まってよ。お兄さんの名前も知らないよ、ジルはー」

「サイク・M・ハイライン。そういえば名乗ってなかったね、ごめんね」


 だが、ジルだけは刃物を突きつけてなおも笑顔で迫る姿にどこか安堵を覚えた。

 少なくとも害意は微塵も存在せず、彼女の警戒心を解すための表情なのだろうと確信を抱かせる。

 どんな時も笑顔であれ。

 今は亡き母親の言葉を思い出すと出刃包丁を微粒子へと戻し、幼子は敵愾心を氷解させる。そして小首を傾げて口端を吊り上げた。


「でー、お兄さんはジルに何の用なのー?」

「君の手助け、かな。ジルちゃん」

「手助けー?」


 そう。

 質問に対して鼓膜に響く声音で答えるサイクに、ジルは人差し指を口に当てた。

 一つの目的を定めず、児戯の如く行動を変える幼子の何を手助けする気なのか。衝動の赴くままに生きている彼女には幇助される一つ事が思い当たらない。

 が、続く声には疑問ではなく、微かな驚愕が乗った。


「……ぁ」

「たとえ原作せかいを敵に回しても、俺だけは君の味方だよ。それだけは信じて、ジルちゃん」


 身体を包み込む、鮮血とは異なる温かさ。

 少年の同年代で見れば秀でたもののない、しかして一〇歳相当の肉体を持つ幼子を抱き締めるには充分な肉体が慎重に抱擁を重ねる。触れれば壊れる物体を慎重に取り扱うように、もしくは絹織物に皺一つ残さないように。

 心の奥底にまで浸透する温もりはジル・ミストレンジの一〇年間に該当する要素はなく、多死者となった後に埋められた記憶も絶無。

 呆けた表情を浮かべた彼女の頬に、自然と一筋の熱い何かが滴った。


「俺の思いは本当だよ。だけどジルちゃんには邪魔かもしれない……だからさ」


 覆い被さる姿勢を直してゆっくりと身体を起こすと、再びサイクは大仰に両手を広げる。


「もしも邪魔だったら、せめて俺のことを掻っ捌いてよ」


 曇りなき眼が翡翠の瞳と正対し、静謐な声色が発言の信憑性を高めた。

 仮にジルが二つ返事で切り刻んだとして、サイクは一切の後悔なく現世を旅立つと思わせる程に。

 真摯な表情で問いかける少年に対し、正視を嫌った幼子は視線を俄かに落とす。あまりにも真っ直ぐな眼差しに抵抗を抱いたのも事実だが、他にも彼が衣服が血で汚れるのも厭わず視線を合わせていたことに気づいたために。

 故に、両手を伸ばす。


「ジルちゃん……?」


 サイクの口端に触れ、頬を吊り上げさせるために。


「んー、ジルのためになんでそこまでしてくれるのかは知らないけど。とにかく笑顔だよ、笑顔ー」


 困惑する少年へ向け、ジルは白い歯を輝かせた。


「笑顔だとしあわせだって、お母さんも言ってたんだ。あー、でも、お兄さんだったらそんなことも知ってるのかなー」

「……うん、確かにそんなことを言ってたね」


 情緒の未熟な幼子は気づかない。

 応じるサイクの顔に悲しみの色が混じっていることに。漆黒の瞳が悲観の念を以って額の縫合痕へ注がれていることに。

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