第3話『穢土への転生は罪の証』

 肉の檻を失い、あらゆる束縛から解き放たれた感覚。

 重力の楔を飛び出し、時でさえも掴むことの叶わぬ至上の感触。剥き出しの魂による揺蕩いを一度実感すると、なるほど確かに昇天と呼ぶに相応しい。

 自分が末端から溶け落ちて世界と混ざり合う中、魂は時間をかけて自我を喪失。全てを漂白された後、新たな命として輪廻の輪へと飛び込むのが正しき流れ。

 故に強烈な何かを元に個我を思い出せば歯車は機能を失う。


「じ……るの、ぽすた、あ……あ?」


 目を開く感触もなく、児島守の意識は周囲を知覚する。

 漆黒のキャンパスに数多もの光が乱舞する未知の空間は宇宙を彷彿とさせるものの、呼吸に不自由は皆無。むしろ一息する度に全身へ活力が漲れば、意識が明瞭さを取り戻していく。

 たとえば、肉体を失う直前からの記憶回復。

 バイトへ向かう途中で事故に遭い、そのまま意識を手放してしまったのだ。

 不幸な事故の果てに身体へ戻れる気配もしない辺り、児島としての肉体は死亡してしまったのだろう。


「オイオイオイ、何とかならねぇのかよ。まだ死にたくねぇぞ」


 児島は肉体もなく一人愚痴るも、返事をするものなど何処にもいない。

 一般的な目線ではともかく、当人の視点に於いては確かに充実した日々だった。

 毎日代り映えもなくレクイエムオブシリーズを追い、新作の情報が出れば検索して詳細を調べ、時折ジルを筆頭にイラストを探る。正しく日陰の人生ながら、ダンゴムシなりの充足は得ていたのだ。

 だが現世から切り離されて宇宙空間で彷徨っていては、元の日常へ戻ることは到底不可能。

 如何に美麗なジルのイラストが世に生を受けても、レクイエムオブシリーズの新作が発表されても、児島は観測する術を永遠に失ったのだ。


「後悔のしようもねぇんだが、あんな最期」


 信号を遵守したにも関わらず、制御不能に陥った乗用車との追突事故など歩行者側に打つ手がない。天上におわす御主もまさか、反射神経を鍛え上げて車を回避するのが当然などと末法なことを宣うことはあるまい。

 が、現世に干渉する手段がない以上、何が出来るでもないのだ。

 中空を彷徨いながら、児島は独りごちる。独りごちる他にない。


「後悔の一つも残るくらいが人生ちょうどいいとは聞いたけどよ。んなの達観したおっさんの弁だろうが……こちとらまだ二十代だぞ」


 やり残したこともやりたいことも、腐るほど残っている。可能性を永遠に閉ざすには、まだ児島の年齢は早過ぎた。

 故に後悔も懺悔も浮かべれば即座に連想され、自然とありもしない目頭が熱くなってくる。

 もしも魂が肉体の形を取っていれば、辺り構わず暴れ散らしていた所。しかして空を切るための手足もないとくれば、哀れに過ぎるではないか。


「どうにかならねぇかよ……オイ」


 切実な想いを秘めた吐露に呼応したのか、児島の魂が下へと吸われていく。

 最初は落下したのかと錯覚したが、落ちていく先もまた漆黒のキャンパスに彩られた白の群れ。向かう果てなど伺えない。

 にも関わらず、何処とも知れぬ先へ落ちていく感覚が全身を襲い、ともすれば悲鳴を上げたい心境をありもしない口を瞑んで抑える。

 やがて児島の魂は光を知覚できなくなり、再度意識を手放した。



 いったい、どれ程の時間が経過したのだろうか。

 児島は重い目蓋を何度か瞬かせ、ゆっくりと開いていく。

 最初に飛び込んできたのは、目映い光を遮る原色剥き出しでカラフルに塗装された馬や羊のベッドメリー。等間隔で回転する様は子供の関心を惹くに充分な威力を有するものの、二十歳を超えた児島に対しては効果が薄いと言わざるを得ない。

 左右に首を振ってみれば、周囲を囲うは木で形成された檻と反発力のあるベッド。囚人にしても平民にしても違和感を覚える状況に首を傾げようとするも、身体が自由に動かない。

 何事かと疑問に思う間もなく、馬達との間に巨人が割り込んできた。


「おぉ、起きたかサイク。愛い奴め」

「…………はぁバゥ?」


 割り込んできたのは、髭を蓄えた初老と思しき男性。

 男性は聞き慣れない名で児島を呼ぶと、愛おしげに手を伸ばして撫で回してきた。

 鬱陶しさこそ覚えるものの、手足が不自然に短い彼の抵抗などたかが知れている。男性はさも楽に捌き切ると、子供の柔肌を存分に撫で回してきた。

 ある程度すると満足したのか、名残惜しそうに手を離すと男性は穏やかな笑みを浮かべて視界から消えていく。

 何だったのかさっぱり分からず、男性の向かう先へと首を回す。

 すると、男性が向かう扉の側に立つ姿見に一人の子供が写り込んでいた。

 木製のベビーベッドに寝転がり、漆黒の瞳をぶつける稚児の姿が。


「…………バゥ?」


 零れた声もまた、サイクと呼ばれた児島のものとは思い難い幼さを存分に出したもの。そも、正確な発音すらも叶ってはいないのだ。

 度重なる違和の連打は、彼に一つの推測を打ち立てさせてもいた。

 少なくとも、死した肉体が蘇ったことよりはまだ納得がいく程度の話であるものを。


バゥアウ……?」


 ヒンドゥー教に端を為し、仏教に伝わっていった輪廻転生の概念。

 前世の行いに応じて死後、六つの道と存在へ生まれ直す思想に倣えば、人間道が該当するのであろうか。前世を思い出すのも宿命通と呼ばれる悟りへ至る技法が存在することを思えば、納得できる範疇ではある。

 尤も、赤子の頃に思い出すとまでは聞いたことがない。

 訳の分からない衝動が心中より湧き上がり、サイクは大口を開けて泣き叫んだ。

 まるで、それこそが今世の業とばかりに。



 如何に肉体を得ようとも赤子の間では出来ることも限られてくる。

 親を介して言葉を覚え、両足で立ち、そして本を読むに至るまで五年の時を要した。

 そして五年の月日は、児島守の魂が宿ったサイク・M・ハイラインに現状を理解させるのに充分な時間でもあった。


「今年は救歴一〇八六年で、救歴とはセイヴァ教に於いてメシエル・セイヴァが生誕してから数える暦である、と」


 五歳となったサイクは、寝転がって歴史の本を読み漁っていた。

 幸い前世の時点で本を読む習慣が身についていた上、現在居を構えている世界が娯楽に乏しいため、文に目を通す時間は容易に確保できる。

 加えてハイラインという家が辺境伯に値する貴族階級のため、文献は無数に存在した。彼個人としては堅苦しくてあまり好まないのだが、現在身に着けている格式ばった服装も、貴族のものだと思えば納得できた。

 そうして理解したことは幾つかある。


「やっぱり、この世界のベースって前世なんじゃないのか」


 名称や細かい歴史こそ差異があるものの、大まかな流れは前世の世界史に類似していた。

 ハイライン領が属する地域もヨーロッパ周辺に該当し、地図を開けば日本と思しき東洋の島国も存在する。

 そして二つ目にして、ある意味では最重要な要素。

 文献の一節に記載されていた内容に、サイクは漆黒の瞳を煌々と輝かせる。


「なお、世界各地に現れては死ぬ存在もまたメシエル・セイヴァの奇跡とは別の事象であり、教会が定義する死者の蘇生には当たらない……これも多死者だろうし、やっぱりここはレクイエムオブシリーズ、それもアストレイの中……!」


 前世の児島として愛した作品の中に、一キャラクターとして組み込まれた事実に高揚を隠せない。弾む声音に合わせて黒髪が揺れ動く。

 救歴一〇九六年に巻き起こった聖骸を巡る戦いを描いた作品に、世界観的に大人である一五歳で絡める可能性がある事実。更には最愛の幼子を生で拝める千載一遇の好機に呼気が零れる。

 幸いというべきか。ハイライン家はサイクの上に二人の兄が存在するため、彼が王都に出奔したとしても困らない所か、継がせるものがないために応援さえしてくれるだろう。


「後は十年の間に彼女と会うのに相応しい男に成長すれば良し、か。

 時間はたっぷりとある、確実に一つづつ積み上げていけばいい……!」


 湧き上がる高揚とは反比例し、サイクは脳内で冷静に必要な要素を計算していく。

 何せ無垢なる殺戮者をただ一人で救い、幸せにしていく必要があるのだ。目的が目的だけに誰かを頼るなど言語道断、協力者を募ることも叶わない。

 だとしても、二度目の生に最愛の作品レクイエムオブアストレイが選ばれた以上、ジルを助けるのは当然の帰結であり、義務ですらある。


「俺は彼女を幸せにする。それこそが二度目の生に於ける意味だ」


 少年は一つの決意を固め、新たな本を読み耽っていく。

 漆黒の瞳に狂気的な光を携えて。

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