絵を描いた。
前髪が伸びている。瞼に掠るようにして、揺れている。
だから私は髪を撫でつけた。
それから、線をひとすじ書き足した。
余分な線だ。
男がひとり、ピアノを弾いている。彼はこちらを伺っているのか、少し上目遣いで前髪の隙間を跨ぐようにして、視線をよこしている。指先は鍵盤に差した影に覆われているけれど、力が抜け落ちたような、あるいは鍵盤の白と黒に沈み込んでいるかのような、力みのないタッチがよくわかる。影の中ほど輪郭ははっきりと描かれていて、影の外にいくほど、薄い。だから肌は浮き出るような白だ。服は青がいい。帽子も被せたかったけれど、顔に影が差しすぎるからやめた。
男の口元は薄く弧を描いている。ただ、笑っているわけではない。顔を作っている筋肉がほころんで、あるいは緩んでいるのだ。
肩は強張ることなく高く、二の腕は力むことなく浮き上がって、そこから指先が鍵盤に沈み込んでゆく。
彼は楽しんでいるのか?楽しませようとしているのか?
違う、彼は送り込んでいるのだ。
演奏に、己のなにを?
安っぽい、チープな、無機質な、青白い照明が壁に陰影をつけている。鍵盤も、彼の肌も、服も、髪も、瞳も、彩りというには味気ない色で描かれていて、まるで古いビデオテープのような色調だ。
けれど、それなのにこの男は、はっきりと縁どられているような気がする。
男はなにを弾いているのだろうか?答えは描いている私にもわからない。分かりたいとも思わない。決める気もない。
ただ彼が伝えようとしていることだけを伝えたかった。
そういう絵を描いた。
題名をどうしようかと思って、じゃあ、「どうしようか」にしよう、なんてことを思った。
そんなところも力を込めるべきではない。
そういうものだろう。
それで、提出した。
美術室の隣には美術準備室がある。
そこに先生はいた。美術部の顧問だからか、大抵の放課後はいた。
彼はそれをちらりと横目でみて、「いいと思うから、どこかの賞に出してくれ」と、こともなさげにいった。
「はあ。」
私がため息とも返事ともつかない声を出すと、先生は右手指の先からペンを離して、私の絵を指さした。
「それが、いいと思う、ってこと。」
「それは、わかります。」
「なにがわからない?」
「出す理由というか、出すところというか……」
「……」
私は先生をじっとみていたから、彼がそれを聞いてから、瞼が重くなったように瞬きを遅らせたのもわかった。
二拍ほど置いて、「そうか」と呟いて、彼は傍に置かれたキャビネット、その下の大きな引き出しからタブレット端末を取り出す。
「じゃあ、まあ、今回も写真だけ撮って、保管しておこうか。」
私は絵を、いつものように、画架の上に据えた。
いつも、先生は天井の明かりを消して、アームライトを引き出して、照らし具合を丹念に調整する。そして写真を何枚も撮ってから、私の絵を布で包んで、大きな木の棚に本を並べるようにして置く。
私は「それでは、失礼しました。」といって、部屋を出た。
今日は時刻も遅いから、廊下の端々が薄暗い。
隅、あるいは壁の下の方、床との境は闇のように黒い。
いつも埃と水垢で薄汚れているガラスが、夕陽を跳ね返している。
赤というよりも朱に近い、黄を含んだスペクトルが床に落ちている。
けれどやはり、薄暗い廊下だ。
夕陽の赤よりも、青黒い。
無論ここまですべて主観だから、客観的にみて美術室の戸はプラスチックと金属の白っぽい色だ。床のこの、つやつやしたゴムのようなリノリウムというらしいやつはグレーだ。美術室は木材ばかりだ。色なんてそんなものだ。
真っ白い室内照明が、漆が塗っているのかもわからない木材そのままの机を照らしている。
壁につるされた時計をみると、もう下校時刻がほど近い。
私は視線をずらした。
後輩がやはりまだ、いた。
彼女はなにやら力を込めているように見えた。
賞に出すらしい絵は、やはり筆先に力がこもっているらしく、なんというか……
線がみずみずしいというか、タッチが若々しいというか。
あるいは青々としている。
無論比喩だ。
どう口を開こうか、なんて思って。
「もう下校時刻だよ。」
と声を出した。
後輩は肩を僅かに動かして、「もう少し、書かせてください」なんてことをいう。
私は絵を改めてみた。
つまらないのに笑みを浮かべ続けているらしい女が座っている部屋に椅子が置かれていてそこにはその女の尻が乗っているから、つまりこの女はつまらないけれど笑みを浮かべていて、椅子に座ったままずっと過ごしているのかな、なんてことを思った。
私は後輩をみた。真剣に画材と絵筆と絵の具とだけに浸っているらしい。
女はこの部屋のどこにもいない。
少し間があいてから、ふと気になったことがあった。
聞こうか、どうしようか。
私は絵と後輩をみたまま、思った。
思うだけだ。
しばらくして、後輩は筆をおいた。
それから、私をちらりと横目でみた。
なにやら待っているらしい。
私の表情が、なにかいっていたのかもしれない。
「……」
「……ひとつ聞きたいんですが。」
「はい。」
声が跳ねている。
「なんでこの女はつまらなそうなんですか?」
「え?」
後輩の表情は、疑問だ。
「この女のまなじりと頬は、笑っていないでしょう。指先も伸ばすために力んでいる。けれど笑んだような顔で、じっと座っているから、なんだかつまらなそうにみえたんです。
照明も椅子も服も、彼女を描くために用意されたものなのに、なぜ彼女は笑わないのですか?」
「え、えと……」
後輩は硬直した。
私は瞬きをして、なるほど、と思った。
どうやら私は考えすぎたらしい。
私は少し考えて、なにも考えつかないから、とりあえず。
「感想なので、気にしなくても大丈夫です。」
といって、自分の荷物を手にとって、鍵を手渡した。
後輩はまだ、ぼんやりとしていた。
髪の隙間越しに、こめかみが濡れている。
私は美術室を出て、廊下を歩いた。
暗い廊下だ。
ふと、さきほどの絵が好きだな、なんてことを思った。
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