お願い、菊子。

奈保坂恵

第1話

「──ねぇ」

 魔法の言葉というものが存在する。

 文字にしてたった二文字。口にしてほとんど一音。彼女がそれを言えば、菊子きくこの仕事は始まってしまう。

 

「ねぇ、あのバックが欲しいの。探してくれる?」

 そう言って、テレビの街頭インタビューの端に見切れて映る小さなハンドバックを指差す。

「ねぇ、あそこに行きたいわ。連れていってくれる?」

 そう言って、水平線の向こうに浮かぶ島を指差す。

「ねぇ、あの時先生なんて言ってたかしら。思い出せてくれる?」

 そう言って、二十年も前の話をする。

 

 まなじりを細めてたおやかに微笑み、無理難題を言いつける。容貌だけでいえば天使だがそこに悪魔の所業が加わることにより、折半して妖精のようだと例えるのが最適だと菊子は思っている。

 

 折妃目おりひめ丹咲たんざくはそういう女だった。今日も優雅にクッションに身を預けてこちらを見上げる。

「ねぇ」

 菊子はその先に何を言われるのか分かって天を仰いだ。

「プリンが食べたいの。作ってくれる?」



 

 折妃目と出会う前の菊子の人生と言ったら、何とも凡庸で平坦なものだ。

 家庭環境や交友関係にトラブルは無く、学業においても平均をはみ出さず、心身ともに健康そのもの。一喜もなければ一憂もない。転ぶような失敗をしない代わりに天狗になれるほど成功もしない。安定だけが取り柄としか言いようが無いような人生だ。けれどその異常なまでの平凡さにさして不満があったわけではない。むしろ晩春の日陰にいるかの如き過ごしやすさを受け入れていた。


 そこに花と嵐をいっぺんに携えて現れたのが折妃目であった。高校一年生の秋頃のことだった。妙な時期に転校してきた彼女は端麗な容姿で瞬く間に注目を浴びた。

 

 彼女の魔法の言葉はこの頃からしてすでに健在だった。あれをしてこれをしてと周囲にねだった。初めこそ可愛らしいお願いにクラスメイトも安請け合いをしていたが、それが一ヶ月も続けば皆疲弊する。多くは煙たがり、また多くは奔放な振る舞いに魅了された。結果、折妃目を遠巻きにした。折妃目の周囲に人がいなくなった。ただ一人、緋星ひぼし菊子を除いて。

 

「……プリンかぁ」

 今年で二十五歳になる菊子は、彼女と同居生活を送るマンションの一室でこめかみを押さえた。日が落ちれば最上階から夜景が楽しめるこのタワーマンションは折妃目の所有物だ。

 菊子は彼女にお願いをされると、決まって走馬灯のように過去のお願いたちを思い出す。

 

 バッグの時は苦労した。何せ折妃目が指さしたのは街頭インタビューの端に映るウィンドウに飾られた小さな物体だったからだ。最初はバッグかどうかすら怪しかったが、最終的には街頭インタビューの場所を特定し、三日ほどで見つけることが出来た。

 

 離れ小島まで行くのにも骨が折れた。ただしこれは三十分で済んだ。後方からは無差別型の強盗が金切り声を上げながら追いかけてきているところで、命からがらボートを漕ぐはめになった。無事に逃げ仰せたため無傷である。

 

 先生の言葉を思い出させるのは至難の技だった。当時その場に菊子がいたのならあの時先生はこう言っていたよと教えてやれただろうが、折妃目が思い出したがっている先生というのは小学校の時の担任だった。菊子は無論、小学生の時には折妃目のことなど知らない。結局一ヶ月もの間、地道に折妃目の同窓に聞き回って嗅ぎ回って、折妃目がふっと思い出す形で幕を閉じた。

 

 折妃目のお願いは『テレビつけて』やら『コーヒー淹れて』やらを含めれば大小様々だが、大事になれば大抵一筋縄ではいかない。そして九年の付き合いになる勘が告げていた。この『プリンが食べたいの』は、大か小でいえば。

 

「大かな……」

「なぁに?おっきなプリン作ってくれるの?」

「いや、こっちの話。個人的にはバケツプリンより普通サイズをたくさん食べる方が良いと思うけど、どうかな」

「あたしもそう思うわ。カラメルだいすき」

 

 折妃目は楽しそうに言った。彼女の卓越した可憐さは容姿だけに留まらず、声や所作にも表れている。

「期限は?いつまでにプリン作ったら良いのかな」

「んー、じゃあ一週間。とびきりおいしく作ってね」

 

 折妃目のお願いにしてはかなりゆとりのある期限設定だ。問題は彼女の舌が唸るかどうか。彼女は大概何でも美味しく食べてくれるが、特別に気に入ることは少ない。折妃目丹咲の"とびきり"はハードルが高いのだ。世界大会優勝のパティシエにでも弟子入りするぐらいはしないと、菊子の平凡な料理の腕ではとても叶えられそうにもないが、一週間の期限設定ではそれも難しい。

 

「ねぇ、こっち来て」

 折妃目にそう言われ、菊子も隣に座って大きなクッションに寄りかかった。彼女は最新型の携帯の画面を見せてくる。

「……卵?」

 表示されていたのは金色の卵だった。恭しくベルベットの布に置かれて、まるで美術品のような扱いだ。 

「これは食べられるの?」

「食べようと思えば食べられるらしいわ」

 

 よく見ると、博物館のウェブサイトだった。金色の卵は美術品というよりも展示品らしい。概要欄によると、外側は塗装などではなく自然由来のもので、中身がどんな動物かは調査中のようだ。この展覧会では、金の卵が何の卵なのか紐解いていく展示をする予定だと書かれている。

 

 卵。つまり黄身と白身の詰まったお菓子の材料。

 横目に折妃目を見ると、にっこり微笑まれた。プリンを──この金色の卵でプリンを作ってほしい、ということか。

 

「教えてほしいんだけど、これはどこかで売られてるのかな」

「ううん。非売品よ。展示物だものね。これはあたしのお友達が持ってる卵なの」

「そっか。折妃目さんって友達いたんだね」

「失礼ね、たくさんいるわ。会う度あたしを拝んでくれるのよ」

 

 友達の定義は難しい。菊子は深く訊くことをやめた。傍若無人とも取れる折妃目の振る舞いを前にして、人間は大概二種類に分かれる。かたや煙たがりかたや厚く信仰する。どちらも畏れを抱いて行き着く感情だ。彼女のお友達は後者の人間らしい。

 

 折妃目はずいと身を乗り出して菊子にしなだれかかった。指通りの良い髪からは星いっぱいを詰め込んだような匂いがする。

 そうして彼女は口にする。「ねぇ」

「この金の卵が欲しいの。取ってきてくれる?」

 魔法の言葉だ。──そう言うと思ってたよ。 

 けれどひとつ引っかかるところがある。

 

「……折妃目さんがお望みなら、何とかするけど。その拝んでくれるお友達さんは卵をくれないの?」

「ちょっと前に卵を盗まれちゃったんですって。いつまにか博物館にまで渡って、方々探し回っていたらこの展示に気づいたみたい。だからお友達の手元には無いの」

「それはつまり……」

 

 博物館のものを取って来いという無理難題である。

 菊子は少しばかり瞑目した。したけれど、悩むことはいつも通りながら意味の無いことだ。最終的にどうなるかは決まっている。

「……いいよ。分かった」

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