虚星を撃つ ―後篇―
4
夢を見ていた。どうしようもなさで煮固めた、そんな夢を。
見慣れた廊下と、いやにベタついた空気――いや、違う。これは夢じゃない。正しく私の記憶だ。つい一昨日の情景を、私の脳が思い出そうとしているのだ。嫌なのに。
灰色の油絵具を塗り重ねたみたいな、のっぺりと広がる曇天。やがて校舎全体が押し潰されてしまいそうな不吉さを感じながら、出せるだけの全力で廊下を走っていた。擦れ違う先生やシスターの小言を無視して、一秒でも早く彼女に会わないといけないと。とにかくそんな気がしたから――そうしないと、間に合わないと思ったから。重荷にしかならない品性なんて片っ端から放り捨てて、ただただ星の元まで急いでいた。
――
眩しいモノを前に人は目を瞑るしかなくなる。直視し続けて網膜を焼かれてしまうより、閉じた瞼の裏に焼き付いた残光を眺めている方が、よっぽど良いと気付くから。
私もそうだ――私も、そうだった。だからそこまで、考えが至らなかった。
でも、私立
陰湿で陰惨で、悪魔よりよっぽど賢くて狡い、薄汚いエデンの住人達は気付く。
鬱陶しいくらい眩しいモノなら、いっそ輝けないくらいに穢してしまえばいい。
その日、コールタールのように黒く粘つく悪意が、束になって輝に襲いかかったことを知ったのは偶然だった。たまたま出会ったクラスメイトの
礼拝堂の掃除を終えて、教室で待っているはずの輝を迎えに行こうとした時。
倉橋さんは気まずそうにしながら声を潜め、半ば耳打ちに近い形で私に告げた。
――相星さん、大丈夫なの。怖い人達に囲まれてたけど。
怖い人達――心底からゾッとして、思わず走り出したことを覚えている。
どうして止めてくれなかったのかと、なぜ見ているだけだったのかと、倉橋さんを責めることはできなかった。そんなことはきっと誰にもできない。できるわけがない――この学園に長く在籍している者ほど、彼女達の怖さを痛感しているから。
どこまでも純粋無垢であるが故に。笑顔で会話しながら蟻を踏み潰すような、紅茶を飲みながら蝶の羽を毟るような。気に食わない者を徹底的に排斥するため発揮される、名前を付けようがない悪感情――この学園を彩っている、陰鬱なグラデーション。それがいよいよ輝に牙を剥いたのだと察した時、あろうことか私は。
言わんこっちゃない――なんて、思ってしまったのだから。
教室に飛び込んだ私の目に映ったのは、膝をついて項垂れる輝の姿だった。
ふわふわの髪の毛はボサボサになり、制服がはだけて白い肩が覗いていた。いつも彼女に感じていた明るさはすっかり息を潜め、代わりにどうしようもない悲愴が漂っていた。
眩い尖った星は、そこにはいなかった。
ぼんやり床を眺めているのは、灰色の石塊だった。
彼女の視線の先には見覚えのある髪飾り。いつも彼女の頭にいた、子供っぽいピンクのウサギ。三つと細かい破片に分割された亡骸をずっと見ていた輝は、やがて入り口に突っ立ったままの私を見ると、まるでタイプライターが呟いたようにポツリと零した。
『壊されちゃった』
5
『
――それが、つい一昨日の出来事。輝が、星じゃなくなった日の出来事。
彼女が『
『って言っても、何を以てホントっていうのかはわかんないけどさ。戸籍の話しちゃえばどっちもホントだし。でも、少なくとも私は相星輝になる前に、三月輝ってもう一つの名前を持っていて――決して少なくない時間、そっちが私の本当だった』
輝には両親がいなかった。父親は輝が生まれる前に何処へと姿を消して、それでも母親は折り合いの悪い実家に頼らず、ずっと一人で輝を育てていた。どんな仕事をしていたのかは教えてくれなかった。だけど毎日夜の遅くに家を出て、輝が学校に向かう直前に帰ってくるような――そんな仕事だったことを、ペタペタ歩きながら輝は語ってくれた。
『小学生くらいにもなればさ、さすがに解っちゃうんだよね。自分の家が所謂“まとも”な家庭じゃないってことくらい、わざわざ確認しなくたって気付いちゃうんだよ――でも私はそれでもよかったんだ。どれだけ恵まれてなくても、どれだけ人に哀れに思われても、お母さんと二人で生きていくんだって疑ってなかったもんだからさ』
まぁ、そう思ってたのは私だけだったんだけど――夕陽が、いやに眩しかった。
輝が近くにいるのに、景色が気になったことなんて今まで一回もなくて。
強烈な光に瞼を閉じれば、なんだか涙が零れそうで、ただ無言で隣を歩いていた。
『中学生の時に、お母さんはいなくなった。次第に話す時間が減って、顔合わせる時間が減って――気が付いたら、いなくなってた。通帳とか服とか全部持ってって。娘に何か一言残すことなく、知らない男と一緒に。どこに行ったとか知らないよ。でも北海道行きたいって言ってた気がするな。いつか二人でカニとか食べたいねって、温泉入ってゆっくりしたいねって――うわ、バカみたい。なんでこんなこと今でも覚えてんだろ。カニとか温泉とか、ホントはどうでもよくてさ。そんなのより、みんな持ってるゲーム機とか、スマホとかが欲しかったのに』
だけど輝の母親は、中学生になった娘にゲーム機もスマホも。
ましてやカニも温泉も与えることなく、何も言わずにいなくなった。
テーブルの上に置かれた半額のスティックパンと、隙間風が寒い空っぽのワンルームと、今にも掻き消されそうな香水の匂いと――小学生が付けていたって子供っぽいウサギの髪飾りと、僅かばかりの思い出だけが、その時の輝の手元に残った全てだった。
『もうちょっとで施設に引き取られそうだったんだけど、お母さんの実家が結構すごいとこだったらしくてさ。運よく拾われて、中学卒業までに色々詰め込まれて、体裁だけはってこの学校に入学させられた。娘はどうでもよかったけど、孫はなんだかんだ可愛かったのかもね――うん、そうそう。お母さん、ここの卒業生だったんだ。程度が知れるというか、らしいよね。娘より男を選ぶような人間が、母親より女であることを選べる人間が、卒業証書持って出ていけるようなとこなんだって』
『――それ、は』
そこは笑ってよ、と輝は言った。でも笑えなかった。何も言えなかった。
何か言わなくちゃと思って口を開く度、そのどれもが嘘みたいに思えて口を閉じた。慰めるべきなのか、怒るべきなのか、悲しむべきなのか、わからなかった。
やっぱり無意味に「そうなんだ」と相槌を打つのが精一杯で――そんな私に、輝は「私が滑ったみたいじゃん」と唇を尖らせると、砕けた髪飾りをポケットから取り出した。数人がかりで取り押さえられた輝の髪から毟り取られ、床に叩きつけられた挙句、執拗に踏みつけられたらしい髪飾り。元々プラスチックが劣化していたのかもしれない。破片は一応全て拾ったものの、パーツ単位で歪み切っていて、とても修復なんてできそうもないことは――もう元には戻せないことは、誰の目から見ても明らかだった。
『でもさ、でもね、嫌いになれなかったんだ。御祖父ちゃんも御祖母ちゃんも、あいつはクズだって言うのに。私だって心の底からそう思うのに、たったこれだけの髪飾りが、そうさせてくれなくてさ。おかしいよね。こんなダサくて幼稚なのに。なんか安いお菓子のおまけで、今時こんなもん小学生だってつけてないよ――なのに、ダメなんだよ。髪型整えてくれた時のこととか、可愛いって言ってくれた時のこととか思い出しちゃって。私とお母さんを繋ぐもの、もうこれしか残ってなかったんだって思ったら――私がお母さんに愛されてたって証拠、壊されちゃったなって思ったら、なんかどうしようもないくらい悔しくてさ――ねぇ、
グッと髪飾りを握り締める、輝の声は震えていた。泣いているのかと思った。
だけど泣かなかった。本当は泣きたいだろうことは、私にもわかった。
燃えるような夕焼けと、遠くで聴こえるラッパの音色と、地面に転がるセミの死骸が、輝の涙を代行しているような気さえした。世界ですら彼女の悲しみに寄り添えるのに、一番近くにいる私が相変わらず何も言わないまま、何も言えないまま隣を歩いているだけなのがひどく情けなくて、どうするべきか必死に考えていた。
でも、どうしようもないじゃないか。私にできることなんて、何もないじゃないか。
友達だったら、何か言えたのだろうか。私が輝の、本当の友達だったら。
あるいは、友達じゃなくたって。もっと直接、伝えられる私たちだったら。
あなたのことが大切です、って――まっすぐ見つめて、言える私だったなら。
『私が、輝と一緒にいる』
瞬間、その言葉はあまりにも容易く口から零れ出た。
自分でも驚くくらいに。自分でも信じられないくらいに。
簡単に言葉にできた感情は、なのに止めるのは難しくて、次々と溢れ出していく。
『ずっと一緒にいる。いなくなったりなんかしない。裏切ったりしない。私がこの先も、何があっても、私だけはずっと輝の傍にいる。愛されてるって証明し続ける。輝が欲しいモノ、欲しかったモノ全部、輝にあげる』
『なに、急に……同情でもしてる?』
『違う――輝のことが、好きだから』
言葉にして初めて、ハッキリ自覚した――私は、輝のことが好きだ。
友愛の意であるか、恋愛の意であるかなんて、わざわざ言う必要もない。
始めは憧れだった。私にないものを持っていて、ひたすらに眩しい彼女に抱く、この感情は――いや、違う。今も憧れている。だけどそれは、輝のことをわかろうともしなかった、バカで夢見がちな私が押し付けた、理解から最も遠い感情だ。
『好きだから、一緒にいたいの』
私がただ、そう思ったから――砕け散った思い出を握ったまま。
泣くことすらできない彼女に、寄り添える私になりたかったから。
『――――』
だけど――あぁ、だけど。その気持ちは、本当だったはずなのに。
主に誓って本当だったのに、しばらくの静寂の後、ふとかち合った輝の眼が。
何も言わずにいた彼女の代わり、雄弁に困惑と怯えを語る瞳が――その目を向けられていることが怖くなって。なけなしの想いすら、たちまち萎んでいって。
――あっけなく世界の崩れ去る音が、耳元で聴こえたような気がして。
気が付けば私は、その場に輝を置いて逃げ出していた。裏切らないって言ったばかりなのに。ずっと一緒にいるって言ったばかりなのに。そんなもの彼女は望んでなかったんじゃないかって思ってしまった瞬間、それを告げられるのが怖くて逃げ出した。
一度も後ろを振り向かず。振り返ることなんて、できるはずもなく。
赤黒い絵の中で、輝がどんな顔をしていたかなんて――想像したくもなかった。
6
「……本当に、最低だ」
そして愚者は目覚め、意識は寒いくらいエアコンの効いた部屋に戻ってくる。
嫌なことを忘れたくて夢の世界へ飛び込んだはずなのに、思い出すのは嫌なことばかり。忘却なんて都合の良い終わり方は、どうやら私の中の私が許さないらしい――当たり前だ。どうしたって忘れられるわけがないのだ。
一晩寝たって、百晩寝たって、それが本当に大切なことだったなら。
そうじゃなければ輝だって、理由のない悪意を、あの髪飾りの残骸を――お母さんとの思い出の死骸を、とうに捨てられていたはずなのだ。
「……?」
その時ふと、枕元に転がしたままのスマホがポコンと鳴った。
なんだろうと視線をやって、瞬間、跳ねるように飛び起きる。
出てこい――それが最新のメッセージ。頭上に膨大な数字の冠を被った、見覚えのあるアイコンと。見覚えのある名前と、ひどく素っ気ない文章に添えられた写真。全てを拒絶するようにカーテンを閉め切った部屋を、外から撮影した写真。
それが誰の家の、誰の部屋かなんて、最早考えるまでもなくて。
引き千切らんばかりにカーテンを引っ張り、勢いよく開け放った窓の外。
一気に流れ込んできた蒸し暑い空気を、たっぷり顔に浴びながら覗き込んだ直下。
はたして彼女は、そこにいた。そこに立って、つまらなさそうに私を見ていた。
クラスでも五本の指に入る小柄な体躯。こちらを睨みつけるアーモンド形の瞳。子供っぽいウサギの髪飾りが消えて、解かれたままになっているふわふわの髪の毛。
「輝……」
「よかった、まだ生きてた」
今一番会いたくて、今一番会いたくない彼女。
相星輝は、ピクリとも笑わずにそう言った。
7
「……怒ってる、よね」
恐る恐る訊ねた声に、しかし答えはなかなか返ってこなくて。
転がるように家を出て、双方無言で辿り着いた近所の公園――そのベンチに座ったまま、私はただただ縮こまるしかできなくて。そんな私の眼前を、動物園の熊みたいにうろうろしている可愛い小さな影が、今はこれまで感じたことのないくらい恐ろしく思えた。
「……ピアス、外さずに寝てたの?」
「えっ? あ、うん……忘れてて……」
「ダメだよ、ちゃんと外さないと。炎症になる」
「そう、だね……ごめん……」
わざわざそんなことを言いに来たのだろうか、とはさすがに思わない。
きっと彼女も取り戻そうとしている。今までどうやって話していたのか、その感覚を。私が壊してしまった架け橋を――なんとか復元しようと、歩み寄ろうとしてくれている。
「あの……」
「怒ってるよ、すごく。勝手に告白してきてさ。返事も待たずに逃げちゃうんだもん。挙句学校はサボるし、メッセージに返信はしないし――だから、すごく怒ってる」
返信できなかったのは寝てたからだよ、などとはとても言い出せそうにない雰囲気に、私はただただ小さくなっていく――だって輝が怒っている。私がした、あの告白に。その事実だけであらゆる気力は削がれ、さながら執行の日を待つ死刑囚のような心地で、私はただ輝の言葉の続きを待っていた。
「……あの告白、どこまで本気だったの?」
問いかけに、思わず顔を上げて輝を見た。彼女はいかにも怒っているという面持ちでありながら、その下に確かな怯えを抱えていた――怖いのは、輝も同じなのだ。なら、今なら許してもらえるのかもしれない。あんなの冗談だよって言えば、本気にしないでって言えば、私はまた、輝の隣にいる日々を享受できるのかもしれない。もっと怒られるかもしれないけれど。しばらく口もきいてもらえなくなるかもしれないけれど。彼女を苛む世界の一部に成り果ててしまうより、それはよっぽど魅力的に思えて。
「全部、本気だよ」
だけど、私の口から出たのは否定ではなく。
あんなに抹殺したかった自分を、肯定する言葉。
「全部私の本当の気持ち。ずっと輝と一緒にいたいっていうのも、絶対に裏切らないっていうのも、心の底からそう思ったから。そう思っちゃったから、言った」
「全部、か……ねぇ、詩。簡単じゃないよ。永遠とか、ずっととか。口で言うほど簡単なことじゃない。私はお母さんと一緒の生活がこれからも、それこそ永遠に続くって思ってた。一週間後の予定も、一か月後の予定も、来年の誕生日だって――私たちはずっと一緒よ、なんてお母さんの言葉さえ、信じて疑ってなかった」
「それは……」
「でもダメだったんだよ。どれだけ信じてたって、いつか全部嘘になっちゃう。それでもまだ言える? 絶対に裏切らないとか、そんなこと。血の繋がった親子ですらダメになっちゃうのに、赤の他人が何を保証してくれるっていうの?」
まして詩は、いつも視てただけじゃん――見据える瞳に二の句は引っ込む。
輝の言っていることは正しい。正しすぎるくらいに正しい。言葉は所詮、言葉でしかないから。保証になるはずもないし、保証になんてできるはずもない。本来なら私の言葉は、私の想いは、気が遠くなるほどの時間をかけて証明しなければいけないものだ――かつて言葉に裏切られた輝が相手であるのなら尚更、そうすることでしか証明できないものだ。
ただ彼女を見上げ続けていただけの存在が、いったい何を明かせるというのか。
出会ってから先日まで、彼女がくれる甘美にただただ酔い痴れるだけで。
手を伸ばせば触れられる距離にいたことすら、気付こうともしなかった人間が。
違う人間だと思い込んで勝手に線引きしているだけの、相手を理解しようともしないまま信仰しているだけの、盲目的で独善的な恥ずかしくて哀れな娘が――あぁ、最悪だ。今ならとてもよく解る。お母さんの言い分がどこまでも正しかったことも、それだけお母さんがちゃんと私を見ていたことも。
よりにもよって、砕けた髪飾りを見たから理解できてしまったなんて。
本当に最悪だ――最悪、だけど。だけど、それなら。それでも。
「……ごめん」
「ふぅん、謝るんだ」
謝っちゃうんだ、と輝は目を逸らした。瞳の残光に、微かな失望が見えた。
――でも違う。そういう意味で、そういう意味だけで謝ったんじゃない。
これは私の今までを振り返って出た言葉。私がこれからすることを、予め謝っておきたいから出た言葉。いわば懺悔の先取り。右頬を殴られたから、今からお前の右頬を殴るという――宣戦布告ということに、はたして輝は気付いていただろうか。
「じゃあなに? 言えばよかったじゃない、最初から」
「……は?」
「言ってくれたらよかったじゃない。私はこういう人間で、こういうやつなんだって。言ってくれなきゃわかんないよ。ただ視てただけとかさ――それしかできないよ、当たり前でしょ。だって輝は、いつも何も言ってくれなかったんだから」
「は? なに? 逆ギレ?」
「ううん、順当ギレ――勝手だよ、そんなの。私に言わせれば本当に勝手。散々カッコつけて、取り繕って、大切なものなんて何一つ見せてくれなかったくせに。察してくれとか理解してくれとか、バカじゃないの?」
再び私を見た輝は、酷く呆気に取られた表情をしていた。
こんなことを言われるなんて、まるで想像もしていなかったような顔だった――実際私も、こんなこと言いたくなかったけれど。言わずに済むなら、それでよかったけれど。
「寝たら忘れるなんて嘘だよ。なにも忘れられないから、忘れられなかったから、あんなダサい髪飾りさえ後生大事にしてたんでしょ? それさえ木っ端微塵にされて、なのに泣きもしないで強がって――そういうの、ただの虚勢っていうんだよ!」
だけど、それじゃダメなんだ。私も輝も、ただの人間だから。
傷つけずに、傷つかずに、触れ合うことなんてできないから。
「……ほら。私は、ちゃんと言ったよ。思ってること、願ってること……言いたかったこと、全部。だから輝も言ってよ、教えてよ、本当のこと……じゃないと、いつまで経っても私たち……手を繋ぐことさえ、できないんだよ……」
天上の星でも、眩く輝く存在でも、かっこよくさえなくたっていい。
今日、私は自分の意志で――君という虚星を、撃ち墜としたいんだ。
「――羨ましかった、ずっと。詩のこと」
慣れない大声を出して、荒れた息を整えている間。
ずっと沈黙を保っていた輝が、やがてポツリと零した言葉は。
光なんてこれっぽっちも籠っていない――だけど今までで一番、近くにあって。
「お母さんがうるさいとか、お父さんが頼りないとか、事ある毎に愚痴ってきてさ。そのくせ私が勧めたもの、全部次の日にはゲットしてるくらい裕福で、買い食いしたこともゲーセン行ったこともなくて。あぁ、愛されてるんだなぁって、大切にされてきたんだなぁって――バカみたいだよね。そんなの、私が知ってるわけがないっていうのに。詩を見てたら、こういうことかってすぐ理解できちゃった」
私が何気なく口走っていた日常は、終ぞ輝が手に入れられなかった非日常。
欲しいモノを自由に手に入れられる環境も、それに小言を挟む母親の存在も。
輝はずっと求めていて――だけど叶わないことを、とうの昔に思い知っていて。
「なんでこんな綺麗なんだ、なんで私は詩みたいになれなかったんだって考える度にさ、結論なんかすぐに出ちゃうんだよ。あぁ、この娘と私は、生きてきた世界からして違うんだって――怖かったなぁ、いつか全部バレちゃうかもしれないって思ったら。たまたま仲良くなれたけどさ。私が本当は大したことなくて、詩が持ってるモノさえ何一つ持ってなくて。すごいって言ってもらえる価値もない人間だってバレた時、詩はどんな目で私を見るんだろうって想像したら――怖いよ、そりゃ。ようやく見つけた本当に綺麗なものさえ、掌から零れ落ちていく気がして、めちゃくちゃ嫌だった」
ま、全部バレちゃったけど――まっすぐに私を見つめる、暗い瞳。
星の輝きのない夜空のような、宇宙の最深のような、真っ黒な瞳。
「だから正直、嬉しかったわけよ。私の弱いとこ、見せたくなかったとこ、全部詩にバレて。それでも傍にいるって言ってくれたこと、本当に嬉しかった――けど、同じくらい怖くなった。私だって信じたかったよ。詩の言葉は本当だって、心の底から思いたかった。でも、また裏切られて、詩まで私の傍からいなくなって。あっさり壊れちゃうような、ちっぽけな思い出しか手元に遺らなかったら――ずっと望んでた言葉にすら、真っ先にそんなこと考えちゃう自分が、あまりに醜い存在に思えて仕方なくてさ」
電灯に照らされた輝の影は、ひどく小さく頼りなく見えた。
昼間の蒸し暑さを引きずる夜闇の中、彼女の周りだけが温度を持っていないみたいで、今すぐ抱きしめたい衝動に駆られたけれど――そうしたら、完全に砕けてしまいそうな矮躯が、どこまでも切なくて。
代わりに自分の拳をギュッと握り締めながら、紡がれる言葉の続きを待つ。
「冗談で済ましてくれるなら、きっとそれでもよかったんだろうけど……でも、願ってみたくなったんだろうなぁ。裏切られることに疲れて、信じることに疲れて、もういいやって思ってたのに。もしかしたら何かが変わるかもしれないって、変えられるかもしれないって期待したから、わざわざ答えを訊きに来ちゃったんだろうね――はい、終わり。これが私の、相星輝の本当。失望した? ガッカリした? だったらもう、何も言わずに帰っていいよ。私きっと、詩に好きになってもらえるような人間じゃ」
今度は、我慢できなかった。そうするべきだと思った。
抱きしめた輝の身体は驚くくらい細くて、悲しくなるほど冷たくて。
だけど、確かにここに存在していると、誰より彼女に知ってほしかったから。
「……痛いって、詩」
「終わりじゃないでしょ」
「えぇー? そうかな? もう全部言ったんじゃない?」
「まだ聞いてない。告白の返事も、輝がどうしたいのかも――私は言ったよ。輝が欲しいモノ、欲しかったモノ、全部あげるって。だから聞かせて。どんな願いだっていい。綺麗じゃなくたって、すごくなくたって――それが輝の、本当に望むものなら」
微かに強張っていた輝の体から、やがてふっと力が抜けていって。
恐る恐る、ゆっくりと。小さく震えながら、背中に触れた手。
何かを掴もうとする指先に応えるように、彼女を包む力は増していく。
「……信じさせてよ」
「うん」
「一週間後も、一緒にいて」
「うん」
「一か月後も、一年後も、十年先だって」
「うん」
「ずっとそこにいて、思い出にならないで」
「うん」
「もう二度と、私を置いていかないで……!」
「――言われなくたって、二度と放してあげない」
この胸の内にある、体も温度も感情も。
全部私が見つけた、たった一つの輝なら。
8
「さすがにそろそろ恥ずかしいんだけど」
隣に座る輝の、ジトっとした眼が見据える先に二つの手。
私の手と、輝の手。一つに繋がれた、私たちの手。
「二度と放してあげないって言ったし」
「えぇ……? そんな物理的な話だっけ……?」
もちろん比喩だ。あくまでそのくらい、というだけの話だ。
私だって正直恥ずかしい。高校生にもなって、ずっと手を繋ぎっぱなしというのは、なかなかどうして素面だと勇気がいる――でも、恥ずかしいだけでは、ないはずだから。
私は私の意志でこうしているのだと、今は胸を張って言える――気がする。
苦々しい顔の輝に「それにほら」と。繋いだままの手を顔の高さまで持ち上げて。
「こうしてると、昨日までよりずっと輝が好きだって、思える気がする」
「――…………じゃ、お好きになさってくださいな」
短く、だけど長い息遣いの中、若干の葛藤のようなものが見て取れて。
思わず笑ってしまった私に、輝はわかりやすく唇を尖らせてみせると。
やがてフッと息を吐いて、ポケットから取り出した――砕けたウサギの髪飾り。
「これ、普通ゴミでいいと思う?」
「別に捨てなくていいのに」
「いいよ、もう。こんなの所詮、思い出でしかないからさ」
指先で弄ぶプラスチックの破片が、電灯の光を反射して鈍く輝く。言葉通りの価値しかないとは到底思えなくて、思わず握る手の力を強めると、輝は「実はさ」と。
「わかりやすいかもしれないって思ってたんだよ。いつかお母さんが戻ってきた時、すぐに私を見つけられるかもしれないって。笑っちゃうでしょ。あの人がこんなもの覚えてるわけないし――戻ってくるわけないって、とっくの昔に気付いてたのにね」
それにほら、と。今度は輝が手を持ち上げて、ニコリと笑ってみせた。
「これから先は、詩がずっと一緒にいてくれるらしいし?」
久しぶりに見た気がする、輝の笑顔。くりくり動くアーモンド形の瞳。綿菓子を丁寧に解したようなふわふわの髪の毛に、もう子供っぽいウサギの髪飾りは乗っていない。隙間から覗く耳朶に、こっそり輝くピアスと同じものが、私の耳朶にも輝いている。
「……そうかもね?」
明日の私たちはどうなるだろう。明後日の私たちは、一週間後の私たちは、一ヶ月後の私たちは――見上げた空に、導きの星はもう輝かない。でも、それでいい。
西の空に輝いたベツレヘムの星が、本当に星だったかどうかなんて。
彼の救世主が本当に神の子だったかなんて、実はどうでもいいのだ。
そこに救われる者がいたのなら。そこに意味を見出せたのなら。
手を繋いだまま、望む未来に歩いていけるはずだから。
「ねぇ、詩」
「なに?」
「放さないでね」
「放さないよ」
耳朶のちっぽけな輝きと、固く握りしめた左手の温もりが。
今は――いや、今だけじゃなくこの先も、きっと私の理由になる。
【了】
虚星を撃つ 無患子茘枝 @Common-rare
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