旅立ったあなたへ

柚木 潤

 旅立ったあなたへ

 私の大切な人が、別の世界に旅立った。

 まるで自分の手足がもぎ取られ、身体をえぐられるような苦しみが私に訪れたのだ。

 それは今まで経験したことのない痛みだった。

 そして、大切な人が旅立ったその世界は、今までに無くとても身近に感じ、いつでも行けるような場所に思えたのだ。


 その時の私は、自分の周りに硬い殻を作り、周りからの声が聞こえないように耳を塞いで閉じこもっていた。


 誰も私の気持ちはわからない。

 どうしてみんな幸せそうに笑っているの?

 どうして私だけこんなに辛いの?

 どうして私を腫れもののように扱うの?

 どうして誰も助けてくれないの?

 ・・・私は孤独と疎外感で押しつぶされそうだった。


 そんな中、私の厚い殻を少しだけ壊して入ってくる人達がいた。


 何人かは私の心には全く響かない言葉をかけてくれた。

 きっと彼らにはかける言葉が見つからなかったのだろう。

 無理もない。

 そんな経験をした事がないのだから。

 でも、私を腫れもののように見て離れて行った人達より、何倍も優しい人達なのだ。


 ある人は、一言だけ私に言ってくれた。

 時間しかない・・・

 その人は、同じ思いを経験した事がある人だった。


 ある人は、子供のように泣きじゃくる私の言葉を静かに聞いてくれた。

 少しだけ心が楽になった事を感謝すると、自分への感謝はいらないと言い、今度誰かが同じような立場になった時に、自分と同じように話を聞いてあげれば良いと言ってくれた。

 この人はすでに何人もの大切な人達とお別れをした経験があったのだ。


 ある人は、実は大病を患っていて、いつこの世界から旅立つかもわからないと伝えてくれた。

 だから、私の大切な人がどんな思いで旅立って行ったかが、少しだけわかると言ってくれた。


 何も話さなければ、辛い事など何一つない幸せに見えた人達・・・

 ああ・・・みんなすごい。

 どうしてそんな風に笑っていられるのだろう。

 私は誤解していたのだ。

 みんなの笑顔の奥では、それぞれに苦しんでいる事があるのだ。

 当たり前かもしれないが、自分の事で精一杯な私は全く気付くことが出来なかった。

 きっとこんな状況の私で無ければ、彼等は自分の弱い部分を曝け出してはくれなかっただろう。

 私はそんな彼等の声が深く、深く、心に響いたのだ。

 パリンと音を立てて、私の周りを囲っている殻が全て壊れたのだ。

 すると、灰色にしか見えなかった世界に、少しだけ色が戻って来たのだ。

 やっと周りが少しずつ見えてきたのだ。

 ふと見下ろすと、小さな二つの手が私の手をしっかりと握ってくれていた。

 なんで気付かなかったのだろう・・・

 小さな手の持ち主は何も言わないが、私に大切な事を忘れないようにしてくれていた。


 どんなに彼の行ってしまった世界が近くに感じても、この二人の手が私をこの世界に繋ぎ止めてくれている。

 まだ行ってはいけないのだ。

 そうだ、私は大切な彼から頼まれた事があった。

 私達二人にとって一番大事な二人を見守らなければいけない。

 まだ、彼の元には行ってはいけないのだ。

 きっと、今この世界から旅立っても、私の大切な彼には会う事が出来ないだろう。

 生きる事に執着して、少しでも私達と一緒の世界にいようと努力した彼は、きっと今の私では迎えに来てくれないだろう。

 だから、約束を守らなくちゃ。

 私は小さな二人の手をしっかりと握りしめたのだ。


 そして、彼が行ってしまった世界は、少しずつ私のいる世界と離れて行ったのだ。

 私は大切な彼との大事な約束を全うする事を考えて生きてきた。

 もちろん悲しみは年々姿を変えながらも、私の中で静かに脈打っていたけれど。


 そしてあれから三十年たった今、大切な彼の旅だった世界が少しずつ私の世界に近づいてきている。

 私を繋ぎ止めていた小さな二人の手はいつの間にか離れ、二人にとって別の大切な人へと変わっていったのだ。


 今なら、きっと私の大切な彼のいる世界に行けるだろうか?

 ちゃんと迎えに来てくれるだろうか?

 こんなシワシワでシミだらけの私を見て、わかってくれるだろうか?

 そうだ、彼から貰った沢山の物を全て身に付けて行こう。

 きっとそうすれば気付いてくれるはず。

 多分、真っ赤な沢山のバラを抱えて私を待っていてくれるはず。

 それはプロポーズの時とは違い、数えきれないほどの数のバラになるだろう。


 私はまた彼に会う事が出来る日を、少女のようにとても楽しみにしているのだ。

 

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