第2話:目覚め

 暗闇の中から光が差す。その光は少しずつ大きくなっていき、それに従ってあたしの視界は景色をしっかりと認識し始めた。

 真上に広がっていたのは見知らぬ、という言い方には少し語弊のある景色だった。実際初めて見る景色ではあったものの、今はいわゆる保健室に居るのだと周囲の匂いなどから直感的に理解した。昔中学生だった頃の保健室もこんな部屋だったような気がする。

 そんなどこか懐かしさも覚える景色の中で次に目に入ったのは、大切な幼馴染であり今回も危機から救ってくれた瑚登子だった。

 瑚登子は不安そうな表情をしていたが、あたしが目を覚ましたことに気がつくとすぐにパァっと明るい顔になり、気を失っている間も握りしめていたであろうあたしの手を更に強く握った。


「陸ちゃん! 陸ちゃん分かる!?」

「瑚登子……。あぁ、うん……分かるっちゃ分かるけど、分からないっちゃ分からないかも……」


 上体を起こして見てみると自分はベッドの上に寝かされており、周囲はカーテンによって仕切られていた。瑚登子以外には特に人が見当たらず、さっき出会ったあの先輩らしき人物の姿はどこにもない。


「瑚登子、えっと……まず助けてくれてありがと」

「う、うん。あれしかなかったからさ……」


 一体あの時に何をしたのかと聞こうとした瞬間、保健室の扉が開く音が聞こえてくる。更には足早に近づいてくる足音まで聞こえてきたかと思うと、ジャラッとカーテンが開かれる。

 そこに立っていたのは間違いなくタコを運搬していた上級生だった。あの時は必死だったせいで細かく見れていなかったが、その上級生はパサッとした髪の毛を適当に後ろで結んでおり、今は困ったような笑顔を見せていた。その様子はどこか大人しめで純朴な印象を受けるものだった。


「あ、起きたんじゃね」

「えっと……今朝の人、ですよね?」

「ほうよ。ごめんなぁ、まさかぶつかるとか思うとらんかったんよ」


 そう言うと先輩は申し訳なさそうな表情のままこちらに近寄ると、こちらに何かを差し出してきた。

 彼女が持っていたのは貝殻を使っている髪留めだった。そこまで複雑な物ではなく、ただ小さな貝殻とゴムを引っ付けているだけだったが、そのシンプルな見た目が

可愛らしさに繋がっている。どうやら彼女はそれをお詫びとして渡したいようだ。


「ちゅうわけで……お詫びになるか分からんけど、これで許してくれん?」

「あ、ああ、別にあたしは全然……」


 瑚登子から手を放して受け取ると先輩はホッとした表情を見せ、あたしが困惑していることを察したのか、何故彼女がタコなんてものを運搬していたのかを説明してくれた。

 どうやら入学式があるということで各部の勧誘の時間が設けられており、それぞれが各々好きに出し物をすることが許可されていたらしい。吹奏楽部であれば演奏を行い、サッカー部であれば軽くボールなどを使ったパフォーマンスを行うというものだ。そこで彼女はあのタコを出すつもりだったのだという。


「ウチなぁ、海洋研究会のモンなんじゃけど、そこでちぃとばかし使おう思うて」

「……海洋研究会」


 瑚登子があたしにだけ聞こえるかのような小さな声で呟く。

 どうやら今話しているこの人はあたしが入ろうかと迷っていた海洋研究会のメンバーらしい。一体どんな勧誘をするつもりだったのか、まさかタコをけしかけて無理矢理、などと良くない噂のせいで勝手な憶測をしてしまう。

 しかしあれこれと憶測で悪く考えるのは失礼なので、少し怖いものの何をするつもりだったのか尋ねてみることにした。


「使うって、何するつもりだったんです?」

「墨の違いよ」

「はい?」

「タコとイカの墨の違いを見せよう思うてな? ほら、そういうのおもろぅない?」


 先輩の話によると彼女はタコとイカの墨の違いとやらを見せるつもりだったらしい。しかし正直な話、そんなことを言われても自分には全く興味が湧かない。どっちも足が沢山あってヌメヌメしていて墨を吐く、そこに何の違いがあるというのか。

 しかしそれのどこに面白味があるのか今一ピンと来ていない自分とは対照的に、瑚登子はあたしにぴったりと引っ付きながら、うんうんと頷いていた。瑚登子は小さい頃から飲食店である実家の手伝いをしているので、魚類などのそういった特徴などについても詳しい。恐らくこの二人にとっては当然の知識なのだろう。


「面白いかどうかは分からないですけど……すみません。ぶつかっちゃって」

「ああ全然気にせんでええよ! もう過ぎた事じゃしね」

「でも多分、体育館の檀上とかでやるんですよね? もう始まるんじゃ……」


 そう尋ねた途端、先輩はキョトンとした表情をした。見てみると瑚登子も少し面食らった顔をしており、まるで自分がおかしな事でも言ったかのような空気になってしまった。

 何故二人してそんな顔をしているのか続けて聞こうとした瞬間、瑚登子はこちらに顔を近づけて耳打ちをしてきた。その内容は、それまで中学では皆勤賞で保健室も数える程しか使ってこなかった自分にとって、とても信じがたいものだった。


「あ、あのさ……もう、今日の授業とか終わった……」


 一瞬、頭の中が真っ白になった。今まで授業を一度だって休んだことなど無かった自分が、いつだって内申点も高かった自分が、まさか入学初日から一日保健室で寝ていただなんて信じられなかった。

 慌てて飛び起き、カーテンを開けて出てみると、保健室の窓からは夕日が差していた。部屋に居るのは自分達三人だけであり、他の生徒はおろか保険医の先生まで見当たらなかった。


「うそ……」

「ほ、ほんと。陸ちゃん気絶して、さっきまでずっと寝てた」

「正直、ウチこんまま殺人とかで捕まるんかと内心ヒヤッとしとったよ……」


 詳しく聞いてみると、あの後気を失った自分はここへと運び込まれ、瑚登子が言う通りさっきまでずっと目を覚まさなかったのだという。今は初日ということもあり教師陣は職員室に集まって何やら会議などをしているらしい。

 瑚登子はあたしがどれほどのショックを受けているのか察したらしく、すぐに傍に寄ってきた。


「陸ちゃん……」

「どうしよ瑚登子……あたしの、あたしのお姉ちゃん像が……」


 まさか登校初日に一日寝ていましたなど波梛に言えるわけがない。あの子にとって自分はいつだってかっこよくて賢い理想の姉なのだ。こんな事が知れてしまったら、夢を叶える云々以前の問題で、下手をすれば嫌われてしまうかもしれない。

 室内に設置されている時計を見てみると、とっくに下校時刻を数十分は過ぎている。本来であれば部活の見学をして、そろそろ家に帰宅の電話を入れる時間帯だ。それを連絡も無しに帰って来ないという状況に波梛からすればなっている。心配を掛けてしまっているのも心苦しいが、何よりあの子に何て嘘をつけばいいのかが思い浮かばない。


「わ、私んとこで、ご飯食べてたって事にすればさ……」

「あたしと瑚登子ん、知り合いじゃんバレるって!」


 波梛は変に勘が鋭いところがある。瑚登子の家で食事をしていたなんて嘘はすぐにバレてしまうだろう。お母さん達は事情を話せば理解はしてくれるとは思うが、波梛にだけはこの事を知られたくない。

 ああでもないこうでもないと瑚登子と意見を出し合っていると、申し訳なさそうに先輩が口を開いた。


「あ、あんさ。よう分からんけども、ほいじゃったらウチん部活に来とったっちゅう事にするんはどう?」

「先輩の所に……?」

「うん。ウチんとこのはみーんな口が堅いけぇ、少なくともウチらだけなら口裏合わせられるよ?」


 今のところこの人からは胡散臭い雰囲気などは感じられない。瑚登子が言っていた海洋研究会はかなり厳しく怖がられているという噂と比べると、本当に彼女がそこの部員なのだろうかと疑ってしまうほどだ。

 この事は少なくとも家族の方にも今日中には連絡が行くはずだ。それならば妹には伝わらないことを信じて、彼女の部活を見学していたという事にした方がいいかもしれない。いずれにせよ海洋研究会にはあの子にためにも入らなければならないし、元々今日中に見学に行くつもりだったのだから嘘だとしてももっともらしさはあるだろう。

 あたしは自分の誇りと妹の理想を守るために彼女の意見に賛同することにした。幸いなことに彼女から貰った髪留めがあるため、これを実際に部活見学をしていたという証拠にも使える。自分でも嫌な事を考えている自覚はあるが、あの子のためなら仕方がない。


「あ、あの! 先輩! ならその、かっ、海洋研究会に行っていた、ということでお願いします!」

「お、おおう。なんかえらい気合じゃなぁ」

「それと入部もっ……お願いします!」


 もしかすると声が裏返ったりしてしまっていたかもしれないが、それだけ自分にとって海にまつわるものというのは恐ろしいものなのだ。そしてここで入部も言っておかなければ、きっと自分は恐怖に負けて言えなくなっていた。怪我の功名と言えばいいのだろうか、やや痛手が大きかった気もするが。


「え、えぇっと……ホンマにええん? うち、海洋研究会よ?」

「だ、だからこそですっ!」

「ほ、ホンマのホンマに言うとる? 噂とか聞いとらんのん?」

「その上でです!」


 最早がむしゃらだった。最初からここに入ること自体は決めていたが、やはりいざ宣言するとなればこうなってしまった。しかしもう後に引くことは出来ない。波梛のためにはこうでもしなければ知識を得ることなど自分には出来ない。ここで引けば、きっと一生後悔する。

 先輩は困惑した表情をしていたが、こちらの熱意が伝わったのか目を閉じて静かに頷いた。その小さな動きには謙虚で大人しそうな印象とは真逆の、強い意志のようなものを感じた。


「分かったわ。気持ち、ホンマなんじゃね」

「はい!」

「ほいじゃったら、明日入部届持ってきて。そっちん子が君の分までプリントやら貰っとるみたいじゃけぇね」


 どうやら眠ってしまっている間、瑚登子が今日配られたプリントなどを全部あたし分必要してくれていたようだ。やはり持つべきものは友、いや持つべきものは瑚登子だ。いつでもこの子はそうだった。


「分かりました。それでえっと……どなたに提出すれば……」

「ウチでええよ。ウチが部長じゃし」

「え、そうだったんですか?」

「うん。ちゅうか、部員はウチともう一人しかおらんし」


 こんな大人しそうな人が部長というのは少し予想外だった。かなり厳しいという話だったため、もっと我の強い怖い人を想定していた。

 しかし心のどこかで彼女が部長であるという事実に納得している自分も居た。この人はさっき急に強い意志を見せた。あれは根が大人しい人が出せるものではない。一見静かで謙虚な人に見えるだけで、実際はもっと違った一面があるのかもしれない。


「あ、自己紹介が遅れてしもうたね。ウチは深海みうみ 志伊良しいらっちゅうんじゃ。志伊良でええよ」

「分かりました志伊良部長。あたしは此岸このぎし 陸梛りくなです」

「此岸ちゃんじゃね。明日はよろしくな」


 そうしてお互いに簡単な自己紹介を終えると、志伊良部長は「まだやる事があるから」と言い残し、保健室から出て行った。残されたあたしと瑚登子は時間が時間であるため、家に電話をしてから帰路につくことにした。

 家で待っていたお母さんに電話をし終え簡単な事情説明をすると、昔からそうだったということもあってすぐに信じてくれた。自分が海関連で気を失うのは今回が初めてではないため、すぐに理解してくれたのだろう。内心、気絶癖がついていないだろうかと不安ではあるが。


「うん。うん、今から帰る。あ、波梛には絶っ対言わないでよ……!? はい。うん、じゃあ切るね」

「……おばさん何て?」

「気をつけて帰りなさいって。もう慣れたもんって感じだった」

「いひひ……私もだぞ陸ちゃん?」

「でしょうね」


 こうして自分の高校生活初日は波乱の幕開けとなってしまった。志伊良部長とすぐ出会えたのは幸運だったのかもしれないが、今日の授業を受けられなかったせいで成績に響きはしないかと不安になる。

 明日からは巻き返さなければと心を改めていると、暗くなりつつある帰り道の途中で突然瑚登子が尋ねてきた。


「そいやさ、陸ちゃん大丈夫そ? 足」

「ああ、うん。なんか包帯巻かれてるけど、まあ歩けないほどの痛みじゃないよ」

「そ、そっか」

「なに? そりゃタコに驚きはしたけど、別に噛みつかれたわけじゃないんだよ?」

「陸ちゃん、声、震えてるぞ」


 自分でも今のは強がりにしても無茶だったと思う。驚くどころか失神したのだから説得力の欠片もない。


「ごめん。痛くはないけどほんとはちょっとつらい……」

「痛みは無いんだね?」

「え? うん。そうだけど、何?」

「いやさ……陸ちゃんの足についたタコ取る時ね? ちょーっと荒っぽいやり方したからさ……」

「荒っぽい……?」


 詳しく聞いてみると、瑚登子はあの時鞄から割り箸を取り出していたらしい。本来はお昼を食べる時用に持ってきていた物らしいのだが、彼女曰くあの状況を打開するにはあれしかなかったという。


「えっと……ごめん全然さっぱりなんだけど」

「ほら、あのタコちゃんさ、吸盤でがっちり掴んじゃって取れなかったっしょ?」

「あ、あんまり詳しく思い出させないで……」

「ごめんごめん。だからさ、思ったわけなのよ。もうやっちゃうしかなくなっちゃったって」


 瑚登子によると、タコの眉間の奥辺りに丁度タコの脳が入っているらしく、タコを捌く時はそこにアイスピックなどを刺すことで締めるそうだ。彼女の実家ではハサミを使ってやるようだが、それ以外でも割り箸でも代用が利くらしい。

 つまり瑚登子は他にやる方法が無いと考えた結果、咄嗟に割り箸を取り出してあたしの足に引っ付いているタコの眉間を貫いたのだ。

 思い返してみれば、あの時薄っすらと志伊良部長が慌てている様子だった。てっきり瑚登子が何か危ない物でも出したのかと思っていたが、タコが締められることを悟ったから慌てていたということか。勧誘の見世物として使う予定だったのだからそれも当然だろう。


「こう、ドスッとね?」

「うそでしょ……」

「いや可哀想だとは思ったよタコにはさ? でも感謝してくれても良くない? あのままだったら陸ちゃん気絶じゃ済まなかったかんね?」

「あたしにも思ってよ可哀想って!?」

「だって四の五の言ってられる状況じゃなかったしー……」


 瑚登子がここまで思い切りのいい事をするとは思ってもみなかった。これまでは対処するにしても穏便な事が多かったため、十年以上の付き合いながら彼女の新たな一面を知ることになった。それにしたってもうちょっとあたしに気遣いがあってもいい気がするが。


「ま、助けてくれたのは嬉しかったよ」

「っしょ? 感謝しなよ瑚登子ちゃんにさ~」


 そんな風に軽く冗談を飛ばしながら歩みを進め、あたし達は家へと帰っていった。

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さざ波を越えて 枕木 幕良 @makuragi-makura

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