さざ波を越えて
枕木 幕良
第1話:浮かぶ、浮かぶ
ざざぁんと不愉快な音があたしの脳内に響く。
いつになっても慣れないその音は、この町に住む自分にとっては悩みの種と言ってもいい。ほとんどの人にとってはなんてことはない音なのかもしれないが、自分からすれば騒音の中に含めてしまいたいくらいだ。
しかし、どれだけそんなことを心の中で毒づいても、その音が鳴り止むことはない。まるであたしを馬鹿にするかのようにそれは鳴り続ける。視界外で発生源が大きく揺らめいているのが見ずとも分かる。
「はぁ……」
どうしてこんな事になってしまったのだろうと言いたくなるところだが、自分でもその原因があたし自身にあるということは分かっている。きっと誰でも「自業自得」と言うだろう。
事は1年前に遡る。
当時の自分はまだ中学生であり、高校生になる頃には地元を出て都会の高校に行くのだと考えていた。自分には、医者になりたいというどうしても叶えたい夢があったからだ。
だがその夢は、その夢を抱かせた本人によって遠のくことになった。
「お姉ちゃん……」
「あ、
あたし、
此岸 波梛。あたしよりも小さくて、5つも歳が離れている子。他の皆みたいに生きることが出来ず、家の中からほとんど出られない子。
波梛は生まれつき体が悪かった。何がどうというわけでもなく、生まれた時からそもそも体が弱いらしく、問題無く生まれてきたこと自体が奇跡だと病院の先生は語っていた。
そんな波梛はもしもの時のために家から出ることをせず、安静に過ごすように言われており、その日もまたベッドの上で儚げな視線をこちらに向け、今日を迎えることが出来た証拠である挨拶をした。
「おはよ、お姉ちゃん……」
「ん。おはよう波梛」
その日もいつものように母が用意した食事を食べさせ、休日だったためお喋りでもしながら過ごそうかと話していると、波梛はか細い声で問いかけてきた。
「お姉ちゃん。高校……よそ、行っちゃうの……?」
「うん。お姉ちゃんね、波梛が良くなるように勉強しようと思うんだ」
波梛の体の弱さは先天性のものであり、一生向き合っていかなければいけないとどの先生も語っていた。しかし、家族として、姉として、そんな言葉を信じることなど出来なかった。
幸いにも自分は勉強は問題なく出来る方で、自分で言うのもなんだが医大に行くのは簡単だという自負がある。ならばそれを活かすしかない。
まだ子供なあたしには、波梛を救う方法はそれくらいしか思いつかなかった。計画性が無いと笑われるかもしれないが、あの時はとにかくがむしゃらにそれしか方法が考えられなかった。
しかしそんなあたしの浅はかな考えは、波梛の言葉によってますます
「お姉ちゃん、わたし……体、良くならなくていい……」
「……何言ってるの。めっでしょ? 弱音言わないって約束」
「夢……夢があるから……」
「夢……?」
波梛がこれまで夢といったものを語った事など一度も無かった。自分が夢など持っても意味など無いと考えていたのか、それとも単に言いたくなかっただけなのか……。
波梛はベッド脇で屈んでいたこちらの手を優しく掴むと、にっこりと笑顔を見せた。
「海……船で、世界中を周ってみたい」
「……そっか。でもね波梛、そのためにはまず体を良くしないと——」
「いつまで……?」
「え?」
「いつまで、待てばいいの……? 夢叶えるまで、わたし、お姉ちゃんといられるの……?」
その言葉にあたしの心はズタズタにされた。
自分はただ妹を助けるためにと、それだけしか考えていなかった。どれだけ時間が掛かっても必ず助けると、それだけを考えていた。
だが思い返せば、それはあまりにも途方が無く、一体いつになれば達成出来る事なのか勉強が得意な自分ですら計算出来ない問題だったのだ。
妹とただ時間を共にする。たったそれだけの事が、あの時のあたしの頭からは抜け落ちていた。
「で、でも波梛、体、良くなりたいでしょ……?」
「うん。でも、それよりもお姉ちゃんと一緒にいたいよ……」
小さな、きっと同年代の子と比べても更に小さいであろうその手は、あたしの手を掴んだまま微かに震えていた。どれだけ病院で検査されようとも怖がったりしなかった最愛の妹の手は、この時初めて、あたしの手を包み震えていた。
妹の夢を叶えてあげたい。こんな狭い世界ではなく、もっと広い世界をたくさん見せてあげたい。あたしの胸の中は、そんな想いでいっぱいになった。考えを改めるのには、十分過ぎるほどの出来事だった。
しかしそんな彼女の夢を叶えるためには、個人的な大きな問題が立ちはだかっていた。
「船……船、だよね。じゃあお姉ちゃん、そういうツアーとか探してみる」
「ううん……そういうのじゃなくて、お姉ちゃんとお父さんとお母さん……うちだけで行きたいな……」
「じっ、自家用かぁ……」
船舶免許を取ること自体は正直、そこまで苦戦しないだろうとすぐに考えついた。船も最悪借りてしまえばいい。しかし自分にとって最大の問題はそこではない。もっともっと根深い、自分の根幹に関わるような問題があった。
「海……」
自分はいわゆる
先天性のものではなく、きちんとした過去の出来事から来るもので、自分でもその原因が何なのかははっきりしている。父も母も知っており、知らないのは波梛だけだろう。
その昔、まだあたしが幼稚園生くらいの頃、父に連れられて釣りに行ったことがある。その時に足を滑らせて防波堤から転落してしまい、あたしは波に揉まれて海中を彷徨うことになった。すぐに父が飛び込んで助けてくれたが、流されている最中に岩場にぶつかったということもあり、何針も縫うような大怪我を負った事があるのだ。
あたしの不注意から起こった事なのは言うまでもなく、今になって思えばなんと馬鹿なことをしたのだろうと思うが、それでも幼いあたしにとってはそれが最大の恐怖になってしまった。
そんな古いトラウマはいくつになっても回復することがなく、ずるずると今の今まで引き摺ることになってしまった。それこそ海の映像を見るだけで全身に鳥肌が立ち、海の中の映像を見れば具合が悪くなるレベルである。
「う、海か……」
「お姉ちゃん……?」
しかし、自分の姉がそんな情けない姉であるなど、最愛の妹に知らせることは出来なかった。そこで海洋恐怖症だと告げてしまえば、その瞬間に波梛の夢は
熟考するよりも先に、あたしの口は独りでに開いていた。
「分かった。お姉ちゃんに任せて。絶対、波梛の夢叶える」
「いいの……?」
「うん。波梛が初めて教えてくれた夢だからね。お姉ちゃん、叶えるから待っててね」
「うん……!」
妹の顔が
それから少し経ち、今のあたしへと辿り着く。
正直な話、少しだけ後悔はあった。妹の夢を叶えたいという想いは本物だが、果たしてそのために地元の学校を選ぶ必要はあったのだろうかと、他にも方法はあったのではないだろうかと次から次へと頭に浮かんできてしまう。
そもそも地元にある
単に波梛が寂しがる姿を見たくないため、なるべく遠くの学校には行けないという理由もあったのだが、あたしが鞆江高校を選んだのにはもう一つ理由があった。
「陸ちゃぁ~~ん!」
これまでに何度も聞いたことがある、理由の一つでもある少女の声が後ろから響く。
振り返ってみると幼馴染である
瑚登子は中学生の頃から変わらなかった小さな体で跳ねるように走っており、髪型もまた昔から変わらず長い黒髪を一本の大きな三つ編みにしている。知らない人が彼女を見て小学生だと思っても自分には責められない。
「おはよう、瑚登子」
「陸ちゃん、ちィィィ~~イっす!」
瑚登子は何の種類か分からない焼き魚の切り身をコッペパンに挟んだものを持っており、既に噛んだ後がついている。いや、口が僅かに動いている様子から考えるに、食べながらここまで来たのだろう。
朝から魚を食べるというのは魚料理屋をしている彼女の実家では当たり前の事らしく、実際に瑚登子が小学生だった頃からこんな光景を何度も見てきた。
「いひひ! や~、まさか同じとこ選んでくれるなんてマジで思ってなかったよ~!」
「思ってなかったって……瑚登子が勧めたんじゃん」
「おっと、そうでした」
あたしが鞆江高校を選ぶもう一つの理由になったのは瑚登子の存在だった。彼女は幼い頃から家の手伝いをしているということもあり、魚に関してはそこそこ詳しい方であり、自分とは違って海に対する恐怖症は持っていない。
正直な話、あたしには一人で海について勉強する勇気などとても無い。考えるだけでも血の気が引くというのに、それを一人でやろうものなら高校生活が長く持たないのは火を見るより明らかだった。
「てかさ、陸ちゃんホントに大丈夫なわけ?」
「大丈夫……って言いたいけど、瑚登子しか居ないし言わせて。正直つらい……」
「
いつもなら、また瑚登子の冗談が始まったと言えるのだが、こればかりは自分でも本当に青ざめているのが分かる。冗談ではなく、それほどまでに心の中に海への恐怖心が彫り込まれているのだ。
もしかすると鞆江高校を知らない人からすれば、海洋学を教えているわけでもないのに、そんなところに通って意味なんてあるのかと考えるかもしれない。それは正しい反応だと自分も思うし、最初は自分だってそう思っていた。だが、どうやら瑚登子から聞いた情報によると、あの高校でも学ぼうと思えば学べるはずなのだという。
「ねぇ瑚登子、あの噂って本当なの……?」
「んぅ? 海洋研究会のこと?」
「そう、それ。あくまで部活なんでしょ? こんな言い方悪いけど、部活で勉強するにしてもそんなに専門的な事はやらないんじゃ……」
「と、
にわかには信じられない事だったが、瑚登子によると鞆江高校の海洋研究会はかなり本格的な活動をしていることで有名らしい。あまりにも本格的過ぎて何人も離脱者が出たほどの厳しさであり、その噂を聞いた瑚登子は「これならば!」と考えてあたしに勧めてきたようだった。
部活が厳しくて離脱者が出るというのは中学生の頃にも見たり聞いたりしたことがあるが、体育会系の部活でもなさそうなそんな部活で離脱者が出るというのは、確かにかなり厳しく本格的なのがうかがえる。
「や、ね? 私も詳しくは知んないんだけどさ、センパイとか在校生の間じゃマジ有名らしいよ?」
「確かにそれが本当なんだとしたら、必要な分は学べるかも……」
「っしょ? 陸ちゃんなら多少厳しくても平気だろうし、良さげでしょ?」
「あたしのこと過大評価してる気もするけど……まあ、厳しいくらいの方が勉強は捗りそうかな」
瑚登子とはもうずいぶんと長い付き合いになる。まだ幼稚園生だった頃に知り合った仲であり、それからほぼ毎日のように遊んだ。瑚登子は波梛のことも知っており、まるで自分の妹のように大事に思ってくれている。だからこそ、この事を相談することが出来た。波梛を大切に想ってくれている瑚登子なら、いい案を出してくれるだろうと思えたから。瑚登子ならどんな時でも信頼出来るから。
そんな信頼出来る親友と共に見知った町を歩いていた自分は、ついに地元に昔からある鞆江高校へと辿り着いた。周囲には自分達と同じようなリボンを付けた新入生達の姿がいくつもあり、今から新たな学校生活が始まるのだということを実感させる。
気持ちを新たに教室へと向かおうと校門を潜った瞬間、瑚登子はサッとあたしの後ろに隠れてしまい、ぴったりと引っ付くようにして歩き出した。
「ちょっと瑚登子……!」
「ぅ……な、なに……?」
「何じゃないでしょ。歩きにくいしいい加減直しなよそれぇ……!」
「は、へへ……言うじゃん? いいの? 泣くよ? 泣くよ私ぃ……?」
実は瑚登子は幼い頃から極度の人見知りであり、知らない人が多い場所だったり知らない人と同じ部屋に入れられると、急に大人しくなってしまうのだ。声も極端に小さくなり、ぷるぷると体を震わせて不安げな表情をしながらまるで別人のようになる。なんならさっきまであたしに見せていたあの姿を知っている人の方が少ないかもしれない。
まるでぬいぐるみか何かのように体にしがみついてくる瑚登子を引き摺りながら前へと進む。こうなってしまった瑚登子は一人では動けなくなってしまうので、こうするしかない。経験則というやつだ。
「何でこんなんなっちゃうかなぁ……」
「だ、だって、だってさ。み、皆こっち見るもん……」
「こういう事するから見られるんだってば……!」
正直、彼女のこの悪癖には何度も困らされてきたが、それでも友人をやめようと思ったことは一度だってない。臆病なくせに超が付くほどの内弁慶な瑚登子だが、友情や仁義には
どうにかして玄関から靴箱へと移動出来たあたしは、瑚登子と共に靴を履き替えると自分達の教室へと再び歩き出した。またも瑚登子が引っ付いてくるせいで注目の的になってしまったが、昔からこうなのでもう好奇の目には慣れてしまった。
「ほんと良かったね瑚登子」
「な、何が?」
「同じクラスになれて。瑚登子一人だったら絶対マズかったでしょ」
「あ、それね……? いひひ……か行の人も陸ちゃんだけみたいでさ……席もすぐそこっぽいよね……」
もちろん席がすぐ近くというのは偶然だ。元々名前順的に近くなりがちではあるのだが、今回は珍しく『え』や『お』で始まる苗字の人も、他の『か』行の人も居ないという状態だったため、自分と瑚登子がすぐ近くという形になった。
正直な話、これまでの瑚登子を見てきたので、彼女が一人になればどれだけ可哀想な事になるかを知っているためホッとした。人見知りを発動して怯えている瑚登子を見ていると、何もしていないのに悪い事をしている気分になってしまうのだ。
そんな席順についての話を瑚登子と進めていると、突然曲がり角から姿を現した生徒とぶつかってしまった。その生徒は水槽を持っていたようで、自分と瑚登子が尻もちをつくと同時に床の上に水が散らばり、相手もまた同じように尻もちをついた上に水まで被ってしまったようだった。
しかし、自分の目には、そんな謝らなければならない相手よりも、床の上を這いずっているそれに目が釘付けになってしまった。
「あいたた……ごめんごめん。ウチ、水槽の方に気ィ張っとって……」
「あばばばば……り、りり、陸ちゃんこの人、上級生じゃないぃ……?」
「あ、新入生の子じゃったんか。ごめんな初日からこうな目に遭わせてしもうて……」
「り、陸ちゃん……! ……陸ちゃん?」
床のそれは、ぬめり、ぬめりと這いずり、やがてそれはあたしの足に——。
「ッーーーー!?」
最早声すら上げられなかった。喉の奥から絞り出された空気が喉の狭い隙間を通り、口から笛のような甲高い音を響かせた。
全身から血の気が引いていくのが分かる。拍動が速くなり、呼吸が整わない。
「うわ、いけん! ちょちょちょ、いけんいけん!」
「た、タコ……?」
何故かその上級生は水槽に入れてタコを運搬していたらしく、そこに偶然出くわしてぶつかってしまったようだ。別にそれは大した問題ではない。ぶつかるくらい、誰だってふとした拍子に起こる事だ。だが、自分にとってはそれ以上の問題が、今まさに、自分の身に、起こっている。
上級生があたしの足にしがみついているそれを引き剥がそうと指を掛け、思い切り踏ん張っているが全くそれは反応を示さない。詳しくはないがその程度であの吸盤をどうこう出来るわけではないというのは自分でも分かる。
「あーちょっと……動かんでね? 今から取るけぇ」
「っ! っ!」
今はとにかく頷くことしか出来ない。何故この人がタコを運んでいたのかは疑問が残るが、そんな事よりも一秒でも早く取り除いてもらわなければ気を失ってしまうのは間違いなかった。だって気が遠くなってきているのだから……。
チラと瑚登子へと視線を向ける。瑚登子は見知らぬ人が多い環境な上にあたしが激しく動揺しているということもあってか、自身もまた冷静さを欠いている様子で挙動不審にキョロキョロと周囲を見回していた。更には何故か急に鞄を開け始め、そこから何かを取り出した。眩暈がするせいでそれが何なのかは不明だが、上級生がそれを見て何やら慌てている様子から危険物なのだろうか。
「ごめんッ!!」
そんな大きな瑚登子の声と共に足にしがみついているそれに、何かが振り下ろされる。
足に加わっている力がスゥっと緩んでいくと同時に、限界が来ていた自分の意識もまた暗闇の中へと沈み落ちていった。
ほら、やっぱり——。
「こ、とこ……ありがっ――」
音が、世界が、何もかもが遮断され、そこで自分は完全に意識を失うことになった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます