episode 2-3 子供の世界と先生

「それにしても……」

 僕は視線を落とし、自分が乗り越えたばかりの机の残骸ざんがいたちを見つめる。どうしてこんなにぼろぼろなのだろう。一部分燃えたように黒くこげて捨てられた古い机と椅子、小さいころに教育棟で使った板と金属のちゃちな勉強用に似ているが、足を最短に調整しても当時の記憶と比べて大きすぎる。逆に生活棟の机や椅子は以前から大きいもののもっと立派だったし――、先生たちが昔どこかで使っていたのだろうか。

 僕は一歩二歩と机と椅子の山を離れて「きいしゅっ、ぎしゅっ」と鳴くグリン虫にちらと視線を向け、ため息一つで前を向き直した。

「――佳月、なんだ」

 吐き出した独り言が佳月のことを考えなさいと自分に命じる。まだあきらめるなというのか。確かに恋は、特に女の子の気持ちは単純ではないけれど、しつこい男が報われるなんて聞いたことがない。

 二つ目の角にさしかかり、教育棟の陰から生活棟の玄関が見えた。けん先生と赤紫のワンピースで女の子にすら見える「五年前の佳月が良かった」の直幸が、一冊の本を挟んで肩を寄せ合っている。僕は足を止め、ふと先生から教わった「ちわげんか」という言葉を思い出した。あれは何の話が発端だったっけ、

 ――大人のけんかは投げたお皿の枚数を数えるんだぞ。

 そうだ直幸、変わった発言の多いあいつが突然言いだしたんだよ。あのときは皆で首をかしげてしまったが、この「お皿」発言が男女間のたわいないけんかという健先生の「ちわげんか」へと発展したのだった。

 現在の二人は僕に気づかず生活棟に消え、その背中を見送った僕はパーぷルと会えば行かされる異世界と大人のことを考える。大人の世界、謎の異世界は本当に大人になってからも暮らしていける場所なのだろうか。そして全員がこの世界から大人になる前に姿を消すと信じていいのか。このまま二十歳を過ぎても、もしかしたらまだ誰かはこの茶色い建物に住んでいるかもしれない。

「けっこうもう、人数減ってるけど」

 僕はそうつぶやいて歩きだし、自分が告白前の弘美に告げた台詞を頭に浮かべる。

 ――先生たち、絶対知ってて隠してるよ。

 先生の話をすれば、僕を含む箱庭の仲間たちは、この狭く憂鬱ゆううつな〝子供〟の世界に大人である先生が存在することに疑問を感じているけれど、その先生たちも口にする「パーぷルに会い、異世界に行って幸せになる」というある種の〝スローガン〟はほぼ信じられている。そういえば、先生が消えたことはこれまで一度もないようだ。

 ところで、理由はともかく人同士が密接していてはいけないとされていることから、恋人同士で一緒には異世界に行けないはずだし、実際その例はない。よってパーぷルを積極的に探しているのは失恋したか、好きな人が先にいなくなった人が多かった。

 つまり僕は失恋したのだから――、

 いよいよ探すべき? パーぷルを?

 しかし僕は、自分が佳月をあきらめたかどうか今もはっきりさせられず、やはりパーぷルには会いたくなかった。

 ほら、その佳月がまずパーぷルというか異世界を疑っているし、弘美に至ってはこの箱庭で一番にパーぷルを恐れている。向こうから告白してきた弘美に影響される必要はないだろうが、自分が恋する佳月となれば話は違う。想いが切れていないなら彼女を尊重すべきなのだ。

 ――異世界なんて、いいところじゃないに決まってる。

 彼女のりんとした美声がよみがえる、僕は彼女を信じなければならなかった。ただ記憶に残るこの台詞にこだわりすぎにも思えるわけで、僕は脳裏に別の言葉を探してみる。

 ――怒ってないよ。ただその、ごめん。だめなの、私。

 そうだ告白したときのこと。気づいたのはそれよりあとながら、佳月の反応を少し変に感じたんだよな。これにもこだわりすぎ? まさか。

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