第一章-5「世界は鬱くしい」
私の意識は、ほんの少しだけ朦朧としている。そんな中、エイプリルフールの日に冗談じゃない事が自分の身に起きていた。
名前も、住所も、症状も、個人情報を伝えるのも、通常ならスラスラと電話越しで伝えられそうなものだが、この向精神薬は私の思考回路を阻害し、また、頭を動かすだけで吐きそうなほど、視界が揺れていた。この日、私は初めて救急車を呼んだ。わざとオーバードーズをしたのでは無く、自分の意思でも無く、自分の中のもう一人が私の体を乗っ取り、それらを次々に飲み干した。飲み終えた次の瞬間、私はどうしてこれらの薬を捨てるのでは無く飲み干したのかと困惑した。
救急車が到着するまでの間、何を持っていけばいいのかと、意識が朦朧とする中、それでも冷静になっては、保険証などを引き出しから全て取り出し、財布やスマホなどの所持品も全て握って、きっと、部屋は分かりづらいだろうからと、フラフラとしながら玄関の外で待っていた。そして、エレベーターから三人くらいの救急隊員が担架を運びながら、私かどうかを尋ねた。それに頷くと、ベッドに乗るかどうかを訊いてきて、私はそれにも頷いた。そういえば、取り出すだけ取り出しておいて、保険証などを持ってくるの忘れたと思い、救急隊員の一人を家の中に入れて持ってくるようお願いした。色んな病院やクリニックの診察券、お薬手帳などが入っている小さなファイルごと持ってきてくれた。
救急車が止まっている間も、動いている間も、何度も何度も同じような質問を繰り返して、結局、治療が出来そうな病院は一つしか無く、私は心の中で「最初から日赤で良かったんじゃないか。」と思うほど、電話対応が長かかったのである。
救命救急センターに到着すると、看護師は、あのインフルなどを調べる細長い綿棒を、私の両方の鼻の穴に突っ込んだ。確か、少し長めに鼻の奥の方でぐりぐりとさせられたような気がする。生理現象で、私の片目から涙がぼたぼたと垂れた。大抵は片方だけでいいはずなのだが、やはり、最初からそういう対応が普通の病院とは違った。コロナやインフルだった場合、それはそれで隔離されていた可能性もある。幸い、私は陰性だった。だが、それでも経過を見る為、普通の病棟では無く、HCU(高度治療室)に入院することとなった。落ち着くまでにかなりの時間を要した。胃の洗浄ですら二時間以上はかかっていたはずだ。
少し薬の知識や疾患の知識はあったが、何も知らなかった素振りで、担当医から「この薬は過剰摂取すると命に関わる危険な精神薬です。特にこのバルプロ酸は、本当に危ないんです。けど、今回の摂取量だとギリギリでしたね。もう少しいっていれば、死んでいた可能性も有り得ると思います。それで、このまま入院してもらいたいのですが、よろしいですかね?」と、入院に承諾したのと同時に、あのクリニックを恨んでしまった。また、知ってはいたのに、本当は処分しようと思っていたのに誤飲した自分を恨み、後悔し、病院内で自責もしていた。
副作用で、点滴で落ち着くまでは足が暴走を繰り返していたと思う。暴走と言っても、バタバタさせるとかではなく、単純にむずむずしてしまって、普通ならずっと足を伸ばして楽な姿勢をとるはずだが、秒単位で足を伸ばしたり曲げたりを繰り返さないと落ち着かなかったのである。
治療として、胃の中に炭を仕込んだ。それは下剤の一種であり、胃の洗浄として大事な役割を果たしている。担当医が、「もしかしたら尿などが黒く排泄される可能性があります。」と説明したが、入院中は一切黒くならずに済んだ。お手洗いは看護師と一緒に行って、私は車椅子を余儀なくされたので、車椅子で移動し、排泄した後は看護師を呼び出し、看護師は状態を確認した後、患者さんを病棟にまた送る。何せ、私は看護師さんを呼ぶあのボタンを押すのも緊張した。あんな堂々と押して、看護師さんにお願いするなんて、なんだか申し訳ないと思ってしまった。けど、呼ばないことには始まらないので、大体、お手洗いかお水が欲しいかのどちらかだった。辛かったのはそれだけでは無い。一日半、私は食事を摂らずに点滴で栄養補給していた。院内食が気になる中、私は、看護師さんが持ってきてくれた少女漫画をひたすら読んでいた。何度も点滴が無くなったら交換し、どれくらい交換したかわからないが、熱中症の時やクリニックでした点滴、胃カメラの時とは、時間も成分も全然違う。
隣のベッドで横になっている老人のところに、私のところには無い特別な医療機器が置いてあり、それが、ずっと赤かったり青かったり、就寝する時も点滅がうるさくて、人生で初めて違う意味で寝付けなかった。私も、心臓の状態を見る物を指に挟んでいたので、それが外れてしまうと警告音が鳴るのだが、老人達は自分から取ってしまったり、または、自然と取れてしまったりと、それらの理由で警告音が何度か続いた。
また、イヤホンをしたいくらい怖い出来事もあった。
少し奥の方にいるお婆さんが、痛くて辛くて堪らないのか、一時間か三十分置きくらいに唸り始めたり、「あ゛ぁ゛・・・・・・あー・・・・・・」と言うのである。それがずっと聞こえるものだから、私は過敏に反応してしまう。看護師も二人くらいでそのお婆さんの元に足を運んでは対応を繰り返していた様子だ。
もっと怖かったのは、隣の爺さんが、突然興奮し出して、看護師さんと会話中、暴言や暴力をしそうになった事だった。何がそんなに気に障ったのかはさておいて、こういう時、精神病棟のように身体拘束をする決まりが設けられている。けど、その爺さんはそこまでは行かず気づけば眠っていた。お陰でこっちは安心して眠れないと言うのに。
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