第3話

1938年 10月29日、ロサンゼルス郊外


 エヴァンスから依頼を受けた翌日、俺とローザはエヴァンスの車に乗り込み、ホワイトリバー天文台へと向かっていた。夕方の柔らかな薄明かりが車の窓から差し込み、静かな道を寡黙に照らしている。

 運転席のエヴァンスは何度もハンドルを握り直し、時折深い息をつく。助手席のローザは、いつも通りの静かな面持ちで窓の外を見つめている。夕陽が彼女の横顔を金色に染め、凛とした美しさが浮かび上がっているのが妙に胸に響いた。

「エヴァンスさん、天文台にはどれくらいの頻度で通っていたんですか?」

と、ローザがふと尋ねた。

「いや……もう何年も行っていないんです」

と、エヴァンスが声を震わせながら応じる。

「ケンジントン氏が亡くなってから、あの場所はまるで別のものになってしまいました。かつては夜ごと星の観測が行われ、天文を愛する者たちの熱気で溢れていたんですが……。今じゃ、噂のせいで誰も近づこうとはしません」

俺は目を細めて彼の言葉を受け止めながら、問いかけた。

「噂ってのは……その、いわゆる『声』ってやつか?」

エヴァンスはぎこちなく頷き、顔を伏せる。

「ええ、そうです。数年前のある晩、あの声を聞いてしまったんです。誰もいるはずがないのに、天文台の奥から囁き声が聞こえてきました……。それ以来、足を踏み入れる気にはなれなくなりました」

助手席のローザは、俺の目には冷静に見えたが、その瞳にはどこか興味と不信の入り交じった光が浮かんでいた。

「ということは、噂は誰かが作り出したもので、ただの錯覚や妄想というわけでもなさそうね」

エヴァンスが再び重い声で話し出した。

「実は、その噂の出所が地元の不良グループだって話もあります」

俺は少し眉を上げ、疑問を投げかけた。

「ほう、それはどういう事だ?」

「最近、夜な夜な若者たちが天文台に忍び込み、建物のあちこちを荒らしてるらしいんです」

と、エヴァンスは緊張気味に答えた。

「もしかすると、あの噂も彼らが作り出したものかもしれません。住民が近づかないようにするために……」

「なるほど。彼らが流した話だとすると、噂の『声』もそうなのか?」

と俺は問いかける。エヴァンスは微かに首を振り、

「でも私の聞いた『声』は違うんです。ただの騒ぎ声なら、単なる悪戯と片付けてしまえるかもしれません。しかし、私が聞いたあの声は……普通の声とは違っていました。低く、ひそひそと囁くようで、どこからともなく聞こえてくるんです。まるで建物そのものが語りかけているような…」

ローザはその話を聞き終えると、小さく笑った。

「若者の悪戯か、それとも別の何かか。いずれにせよ、見てみる価値はありそうですね」

 日はほとんど沈み、暗闇が空を包み込み始めている。雲間から微かに差し込む夕陽の残光が、遠くに見える鉄塔を不気味に照らし出していた。

「まもなく到着します」

とエヴァンスが緊張を隠せない声で告げた。俺はエヴァンスに向かい、確認するように訊ねた。

「鍵は持ってるんだな?」

エヴァンスはうなずき、ポケットから錆びついた鍵の束を取り出した。

「ええ、これが天文台の全ての鍵です」

 その古びた鍵束は、ただの鍵に過ぎないはずなのに、奇妙な重みを感じさせた。遠くに見える天文台の白いドームは、夕陽の光を浴びて赤みを帯び、地平線に浮かび上がっていた。空には重々しい暗雲が垂れ込め、あたかもその場所へ足を踏み入れる者を拒むかのような、不吉な静寂があたりを包んでいる。天文台は、かつて夜空の秘密を解き明かそうとした建物とは思えないほど、陰気で、時の流れに飲み込まれようとしているようだった。

 天文台の周囲にはアカマツが一本、城兵のように立っていた。たった一人の城兵に守られるように屹立するその建物は、年月を経てずいぶん傷んでいる。屋根には重そうなドームが載っていて、かつて星々を追って動いていたであろう鉄のフレームが今は深い錆に覆われ、冷たい空気に溶け込んでいた。


 ドームの端には薄くひび割れたところがあり、登り始めた月の明かりがそこを照らしている。錆びついた鉄の色は、赤茶けていて、長年放置されたことを物語っている。壁には苔が這い、湿った空気を吸い込むたびに鼻に腐食した鉄の匂いが刺さる。入口のドアも見るからに古ぼけ、錠もかけられていないらしい。

 ローザは、天文台を見上げたまま、一歩踏み出す。足元の瓦礫を軽く避けて、時折こちらをちらりと見る。風が少し強くなり、髪が顔にかかる。

「見てよ、この場所……。昔は誰かが夢見てた場所だったんでしょうね」

ローザの声は、少し寂しげだった。

 俺は目を細めて、天文台の歪んだドームを眺めた。

「夢か。そんなものはほとんど幻だ。ここに残ってるのは、ただの廃墟さ」

 荒れ果てた天文台の内部は、かつての栄光の残り香すらも忘れ去られたような光景だった。薄暗い懐中電灯の光がその中をなぞるたび、剥がれ落ちた壁の塗料が無残に散らばり、無骨なコンクリートがむき出しになっているのが見て取れた。壁際には年代物の機械が埃をかぶって放置され、まるで長い眠りから目覚めることなく静かに朽ちていく墓石のようだ。

 天文台には電気が来ていないので、俺は持ってきた懐中電灯のスイッチをつけた。天井には蜘蛛の巣があちこちに垂れ下がり、夜露がしみ込んだのか、まるで何かが腐りかけているような湿っぽい匂いが漂っている。足元に目をやると、そこには泥のついた靴の足跡がいくつも無造作に散らばっていた。どこか荒っぽく、若者たちが無遠慮に踏みつけた跡だ。泥の跡は複数重なり合い、奥へ奥へと続いている。通路のあちこちに捨てられた紙くずや、誰かが持ち込んだ飲みかけの空き缶が転がり、かすかな金属音がこだました。

 さらに奥へと歩を進めると、かつて星を追い求めたであろう大型の望遠鏡が、ひしゃげた脚で床に倒れ込んでいた。レンズはひび割れ、フレームには赤茶色の錆が染みついている。脚の一本は完全に折れていた。

「これはひどいな。以前訪れた時より、だいぶ荒れている」

エヴァンスが肩をすくめて、気味悪そうに周りを見渡していた。

「若者の遊び場にはうってつけってことさ」

俺は足跡のかたちをじっくり眺めながら答えた。何足かの靴跡が互いに重なっているように見えた。

後ろにいたローザがそっと俺のそばに寄ってきた。暗がりの中でも彼女の緊張が伝わってくる。彼女は周囲に視線を走らせ、ぼそりと呟いた。

「マービン、何か分かった?」 


ローザの声が静寂に溶け込んで、薄闇の中でさざ波のように揺れた。

「さあな。ただ、不良たちが妙な声を聞いたって話……案外、嘘じゃないかもしれない」


「どういうこと?」

「見ろよ、あの足跡だ」 
 

俺は懐中電灯の光を足元の跡に向けた。荒々しく刻まれた靴の跡が、天文台の奥から入口に向かって続いている。深くえぐられた足跡の向こうで、ある一点から急に広がるように大股になっているのがわかる。逃げるように、まるで背後から恐怖に追い立てられたかのように。

「走って逃げたんだ。『声』を聞いたのかもしれない」 


ローザが小さく息を呑むのが聞こえた。彼女の手が俺の袖を掴んでいた。俺たちは足跡を逆に辿り、不良どもが逃げ出した原因を探ろうと奥へ進んでいった。

 足跡が途切れた先、そこにあったのは無骨なスチール製の本棚だった。冷たい金属の重々しい質感が夜の闇の中で一層存在感を放っていた。

「ここだ!」


不意にエヴァンスが叫んだ。 


「私が……声を聞いたのも、この場所でした!」 
 

彼の震える指が本棚を指し、その声は恐怖にのどを締め付けられたようにかすかに震えていた。頼りない月明かりの中で彼の顔は青ざめていた。

「なんだって?本当だろうな。今は……何も聞こえないが」 
 

俺は懐疑の念を押し殺し、周囲を懐中電灯で丹念に照らし始めた。埃まみれの本が乱雑に棚からはみ出し、足元に無造作に散らばっている。

「本当です」

エヴァンスの声がかすれて聞こえる。

「夜、この天文台に来て……そう、確かこの辺りに立っていた時でした。人の声が……そう、女の声が、突然聞こえたんです。あの時、心臓が止まるかと思いました」

彼の恐怖は、嘘をついているとは思えないほどに真に迫っていた。俺は懐中電灯の光を一つずつ棚の隅に向け、埃をかき分けながらさらに奥へと目を凝らした。棚の陰には、過去の残骸がひっそりと隠れていた。無造作に積み上げられた本、誰かが置き去りにした古い手紙、そして、散らばった埃が沈黙の中に漂うように静かに横たわっている。

 エヴァンスは、まるで幽霊そのものを見るかのように息を詰めてこちらを見ていたが、夜の闇の中、俺たちの耳には結局、何の声も届くことはなかった。窓の向こうから、秋風がアカマツを揺らす音だけが聞こえた。



 

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