第2話
「マービン・カーディナルさんですか?」
低く震えるような声が俺に向けられた。俺は煙草をくわえたまま頷いた。
「……俺だ」
男は少し戸惑ったような顔をしながら、名刺を差し出してきた。俺は無造作にそれを受け取り、ざっと目を通したが、特に興味を引くものはなかった。名前はバート・エヴァンス。実にありふれた名前だが、そんなことを口にするほど俺は無粋じゃない。
「私は、エヴァンスという者です」
エヴァンスは、ためらいがちに続けた。
「あなたに、頼みたいことがあるんです」
俺は机に肘をつき、コーヒーを軽くすすった。エヴァンスをカウチへと促す。
「……どうぞ」
リチャード・エヴァンスは、見たところ四十代半ば。痩せて長身、スーツは体に合いすぎているほどぴったりしている。顔つきは繊細で、表情は硬く、緊張を帯びている。髪は薄茶色で整髪料で滑らかに抑えられ、灰色の瞳には常に疲れの色が浮かんでいる。口元に浮かぶ笑顔はいつも引きつっているようで、どこか安心しきれない様子だ。客相手の商売人だなと思った。エヴァンスは言葉を詰まらせた後、声を絞り出すように言った。
「私は、銀行員をしています。単刀直入に言います。私の所有しているホワイトリバー天文台を売りたいんです」
少し興味が湧いた。ホワイトリバー天文台はこの街の外れにあり、昔は大勢の天文学者や好事家たちが星空を眺めに集まった場所だった。だが今は廃れていて、忘れ去られたように立っているだけだ。
その歴史は、物語のように壮大で悲劇的なものだった。20世紀初頭、ホワイトリバー天文台は孤高の天文学者であるドクター・エドワード・ケンジントンが設計した。当時、彼は星々への情熱に取り憑かれたように働き、その場所で無数の天文の観測をしていた。しかし、ある冬の夜、彼は忽然と姿を消したと言われている。噂によれば、彼は天文台の中で星を見上げながら命を絶ったとか、あるいは謎の光に誘われてどこかへ連れ去られたという話もある。以後、天文台は不吉な場所として囁かれ、訪れる者は次第に減っていった。天文台は次第に荒廃し、彼の名も忘れ去られつつあった。
「……で、それを売りたいって?」
俺は眉をひそめた。
「俺は星を見るのは嫌いじゃないが、天文台を買うほどの天文馬鹿じゃないぜ」
男は苦々しい笑みを浮かべ、頭を横に振った。
「そうじゃないんです。売れないんです」
言葉の端に焦りがにじんでいる。
「あの天文台は叔父の遺産で譲り受けることになったのですが、先の市場崩壊を受けて、私も所有している財産を整理をする事にしたのです。つまり、持て余している財産を売ろうと。そこで使われていない天文台も売ることにしたんです。しかし、なかなか買い手がつかなくて……」
「原因はなんだ?」
「……噂です。あそこには幽霊が出るという噂があるんです」
俺は一瞬、呆れたように目を細めた。オカルト話なんて、この国では珍しくない。特に今みたいな、暗い世相の時は尚更だ。
「…………幽霊ね」
煙草をくわえ直し、わざと冷ややかに言った。俺は宇宙人はいるかもしれないと思っているが、幽霊は信じていない。
その時、事務所の奥から軽やかな足音が響き、ローザが現れた。ローザは手にコーヒーマグを持っていた。
「どうぞ、コーヒーよ」 エヴァンスはローザの登場に一瞬目を丸くしたが、すぐに顔を引き締め、さらに深刻な表情を浮かべた。ローザは、そんな男の反応を楽しむように小さく笑ってみせる。
「お嬢さんが助手か?」
とエヴァンスは疑い深そうに問いかけた。
「その通り。彼女はただの飾りじゃない。俺の頭脳とこの事務所の心臓みたいなもんだ」
俺は煙草の灰を軽く落としながら応じた。ローザは片眉を上げ、
「ありがとう、マービン」
と皮肉っぽく言ったが、その目は輝いていた。彼女は机に手をついて俺の隣に腰を下ろすと、腕を組んでエヴァンスを見つめた。
「幽霊の話をもっと詳しく聞かせてください。どんな噂があるの?」
彼女はこううい類の話が大好きで、古い伝説や民間伝承を聞くと瞳が輝く。俺はローザの興味に苦笑いしながらも、エヴァンスの話に耳を傾け続けた。
「夜になると天文台から奇妙な声が聞こえるんです。若い男の声や、どこか古めかしい老人の囁き。私も最初は信じなかった。しかし、ある大嵐の翌日に見に行ったんです。どこか壊れてないか心配だったからです。その時、それを聞いた。誰もいないはずの天文台から……、女の歌う声が囁くように響いてたんです」
ローザは興味をそそられたように身を乗り出した。
「興味深いわね。何か合理的な説明はあるの?」
「合理的ですって?」
エヴァンスはローザを見つめた。
「そう言ってくれればどんなに楽か……だが、そんな話が広まるたびに、天文台はますます忌避されていく。誰も近づきたがらない。売ろうとするたびに、買い手はこの噂を聞きつけて逃げていくんです」
俺は机に置いた冷めたコーヒーカップを指で軽く弾いた。
「つまり、俺にその幽霊話を片付けろと?」
エヴァンスは力なく頷いた。
「あなたは、信頼できる探偵だと聞いています。ぜひ、あの天文台の調査を頼みたい。何が起こっているのか解き明かし、噂を払拭してくれませんか?」
「幽霊だの何だの、俺の仕事じゃない」
ローザはそんな俺を見て、不満げに口を尖らせた。 「マービン、幽霊話もたまには面白いじゃない!」
彼女は笑って俺をたしなめるように言ったが、俺には信じられない。幽霊だろうがオカルトだろうが、現実とは無縁だと思っている。だが、金にはなる。
金があれば、俺の世界は少しは楽になる。苦々しい笑みを浮かべ、俺はこの依頼に乗るべきか、天秤にかけ始めた。煙草に火をつけ、煙を吐き出した。そして、ローザに視線を送る。彼女の碧眼が眩しく光っている。断れそうになさそうだな。
「幽霊なんて非科学的なものは存在しない。だが、もし噂が本当だとしたら、それは何か理由があってのことだ。その謎を解き明かすのが俺の仕事だ」
エヴァンスは俺をじっと見つめた。その瞳には期待と不安が入り混じっていた。
「では、受けていただけるんですか?」
とエヴァンスは少し声を上ずらせた。
「……まあな」
と俺は軽く頷いた。
「では、早速明日、現場を見に行こうじゃないか」
そう言いながら、俺はエヴァンスの顔を見据えた。彼は一瞬、目を逸らし、ハンカチで額の汗を拭う。どこか落ち着きのない様子だった。依頼人が怯えているのは今に始まったことじゃないが、ここまで露骨に不安を隠せないとなると、少しばかり話が変わってくる。依頼というのは、時に依頼人の心の奥底まで引きずり出すものだ。今回も例外ではなさそうだった。エヴァンスが、声を絞り出すようにして言った。
「その……実を言いますと、私はその手の話がどうにも苦手でしてね。幽霊なんて馬鹿げてるとは分かっているんですが、あの場所に足を踏み入れるのはどうにも……」
彼の声が途切れた瞬間、俺は軽く首を振った。
「幽霊なんてものがいようがいまいが、それは俺にはどうでもいい。ただ、あんたが何かを聞いたと証言してる以上、あんた自身が現場にいなきゃ話にならん。それとも、自分で聞いた声について、俺に説明できる自信があるのか?」
エヴァンスは唇を噛んだまま、しばし黙り込んでいたが、やがて観念したように頷いた。
「わかりました……。あなたの言う通り、一緒に行きましょう」
「決まりだな。明日の夜明けとともに天文台を見に行く。準備を整えておくんだ」
エヴァンスは深く息をつき、肩の力を抜いたが、彼の目には依然として拭えない怯えが宿っていた。
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