世界の終わりとハードボイルド探偵

魚市場

第1話



1938年 10月28日、ニューヨーク


午前10時、部屋の中には鋭い緊張感が漂っていた。中央には大柄な男が立っている。その存在感は、まるで空気を押しつぶすかのようで、そこにいる誰もが言葉を飲み込んだ。照明の下で影を落とすそのシルエットが不思議なほど劇的で、何かが始まる予感だけがあった。

 男は深呼吸し、手にした紙束に目を落とした。赤インクの修正跡が幾重にも残るその原稿には、彼自身の苦心がにじんでいる。

「みんな、準備はいいか?これは練習だから緊張しなくていい」

 男が声を張り上げると、その顔には鋭い笑みが浮かんだ。しかし、その瞳の奥にはわずかに不安が残っていた。彼は手元の時計をちらりと見て、思考を振り払うように語り始めた。その声は重厚で、抑揚をつけて聞く者を引き込んでいく。

男は思っていた。これが成功すれば、アメリカ国民の心を鷲掴みにし、現実と虚構の境界を曖昧にすることができるはずだ、と。期待と不安が入り混じる中、彼は自分を信じるしかなかった。



1938年同日、ロサンゼルス

 

 空は重たく鈍い灰色に覆われ、街は湿り気を帯びた匂いを放っていた。大恐慌から抜け出したと言われても、こいつはまったく別の話だ。街角に足を踏み入れると、凍りついたような空気が張りつめていて、誰もがその冷たさに耐えている。

 アメリカは未だに大恐慌の傷跡を引きずっている。高層ビルの影の中、浮浪者たちが暖を取るための焚き火を囲み、うつむきながら過去に思いを馳せているようだ。ラジオから流れるのは、明日の天気と戦争を予感させるようなニュースだ。あのナチスの野郎どもがヨーロッパで暴れまわって、次は何をしでかすのか、それを心配する余裕もない。そんな状況でも、街を歩く奴らは目を合わせることなく、足早に過ぎ去る。

 時折、子どもたちの奇妙な笑い声がどこかから響くが、それすらも冷たい空気に飲み込まれて消えていった。明後日は、ハロウィンだと言うのに、この街に色を添えるものなんてなかった。

 先の事なんてどうでもいい。そう思っている奴らがほとんどだ。自分のことすら満足にできない奴らが、世界の行く末なんか心配してるわけがない。俺だって同じだ。俺の仕事は変わらず、依頼を受けることだ。

 俺の名前はマービン・カーディナル。探偵業を営む俺の事務所はロサンゼルスの片隅にある、埃と煙草の煙にまみれた小さな空間だ。窓は薄汚れ、昼間でも光を遮るほどの埃がこびりついている。机の上には使い古した地図や、調査に使った資料が乱雑に広がっていて、真新しいものなんて何一つない。金を稼ぐ方法は決まっている。浮気調査や、逃げ出したペットを見つける手間仕事で、何とか生き延びているだけだ。  

 10月29日、金曜日。その日も、俺はいつものように煙草を燻らせながら、冷たくなったコーヒーを啜っていた。事務所の薄暗い午後、秋の風が窓を叩きつける音が響いていた。助手のローザは古びたデスクに腰掛け、退屈そうにペンをくるくると回しながら、新聞に目を通していた。俺は煙草に火をつけ、デスクの上に積み重なった未処理の書類を眺めていたが、どれも今すぐ手をつけたいものではなかった。

「ねえ、マービン」

ローザが、まるで何か悪巧みを思いついたような口調で言った。

 ローザ・ハーパー。彼女は俺の助手で、金髪のカールに鮮やかな青い瞳を持つ。小柄な体にエネルギーがみなぎり、いつも快活な笑顔を浮かべている。彼女がいるだけで、この薄暗い事務所が少しは明るくなる気がする。どうしてこんなところで働いているのかは、俺にもわからない。

「また謎解きか?」

俺は足を組み直し、煙を細く吐き出した。ほかにやることはないから、まあ、いい。

「頭の体操には、ちょうどいいじゃない」

そう言うとローザは新聞を目の前にひらりと差し出してきた。

「これ。今度やる舞台のキャスト求人の広告よ。『この度、マーキュリー劇場はArs Magna(ラテン語:大いなる芸術)の為に追加キャストを募集します!』。でも肝心の演目の名前が書かれてない。代わりに変な文章が書かれてるの」

俺は手を組みながら、再び煙を吸い込んだ。

「で、その変な文ってのは?」

と、少し冷ややかな目で彼女を見た。。彼女の指先が文字をなぞる。

「『Mechanic For The Event(イベントの為の整備士)』よ」

ローザは指を新聞に滑らせ言った。俺は呆れて肩をすくめた。

「ただの舞台装置係の募集だろ?」

「違うわよ。マーキュリー劇場は古典戯曲で有名なニューヨクの劇団よ」

俺は煙草を灰皿に押しつけた。

「脚本家が古いものに飽きちまったんだろ」

彼女は不服そうに答えた。

「そうかしら。でも、キャストの募集って書いてあるし……。なんでも、主宰のウェルズって人はシェイクスピアを大胆にアレンジするんですって」

「……なるほど。シェイクスピアか」

俺は、煙を吐きながら少し考えた。

「うーん、『ロミオとジュリエット』……『終わりよければ全てよし』……それと……」

ローザは指を折りながら、シェイクスピアの戯曲を誦じた。

「……アナグラムだな」

俺の言葉にローザは、軽く首をかしげた。

「あなぐらむ? どういう意味?」

「『Ars Magna』ってのがヒントだ。文字を入れ替えると『Anagrams』になる。アナグラムってのは、文字を入れ替えて別のものにするくだらない言葉遊びさ。さらに『Mechanic For The Event』を入れ替えると、『The Merchant of Venice』。シェイクスピアの戯曲『ヴェニスの商人』だ」

ローザが微かに口元を引き締めた。しばらく黙っていた後、軽く拍手をした。

「さすが、マービン! でも、なんでこんなまどろっこしい事を?」

「……さあな、まったく、手の込んだ野郎だ」

 その瞬間、事務所の扉が急に開き、スーツ姿の男が現れた。髪は薄く、額に汗をにじませ、目元には深い疲労の影がある。男の表情には焦りが浮かんでいて、まるで何かに追われているかのようだった。 俺は目を細めて男を見た。

「依頼人のお出ましのようだな。さて、本番といこうか」

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