48:ネコなら和解できた

 八月になり、日に日に暑くなっている気がするようなある日の事。

 空は縁側でヤナと並んでスイカを食べながら、珍しくちょっと不機嫌だった。

 外はからりと晴れ渡り、遠くには夏雲がもくもくと立ち上がっている。こんな日に川遊びをしたらきっと涼しくて楽しいと思うのだが、それが叶わなかったのだ。

「……かわ、いきたかったなぁ」

「仕方なかろう。川の水が増えていて危険なのだから」

「でも、せっかくじゅんばんだったのに」

 ちょっと唇を尖らせて、空は面白くなさそうに夏雲を睨んだ。

 夏の間の川遊びは、この村の子供なら誰でもとても楽しみにしている。

 ただ、小学校の低学年以下の子供たちは大人の監督が必要なため、一人一人に目を行き届かせる為に川に行って良い日が地区ごとに決められていた。

 今日は本当なら空の住む地区に順番が回ってくる日だった。空のような小さな子は必ず誰か保護者が付き添うことになっているので、雪乃が予定を合わせて付き添ってくれる事になっていたのだ。

 ところが昨日の午後から川の上流の山奥で多めの雨が降ったらしく、今日は川の水が増えているので川遊びは禁止、と連絡が朝早く届いたのだ。

 前世からの憧れの一つ、初めての川遊びを楽しみにしていた空にはとてもショックだった。


「すぐに遊べるようになるし順番もちゃんと回ってくる。その時は雪乃も付いていくと言っていたから、もう少しの我慢だぞ」

「うん……」

 五切れ目のスイカの皮をガジガジと噛みながら、空は不服そうに頷いた。

「空、まだご機嫌斜めかしら? 元気出して。はい、かき氷もどうぞ」

「かきごおり!?」

 後ろからかけられた声に空がばっと振り向くと、お盆を持って微笑む雪乃の姿があった。お盆の上にはどんぶりサイズのガラスの器が載っている。

「わぁ、おいしそう!」

 ガラスに盛られたかき氷の上にはたっぷりと練乳がかけられ、つややかな餡子や色鮮やかな蜜漬けの杏が脇に添えられている。もちろんどれも大盛りだ。

「ばぁば、ありがとう! いただきます!」

 空はガラスの器を膝に乗せてしっかりと抱え、渡されたスプーンを早速突っ込んで、大きな口を開けてしゃくりとかき込む。氷はふわりと柔らかく、スッと口の中で溶けて練乳の甘さが広がった。冷たくて甘くて、その美味しさに空はたちまち笑顔になった。

「おいしい!」

「良かったわ。うちの井戸のお水は美味しいから、それで作る氷も美味しいのよ」

「こおりも、みるくも、ほかのもみーんなおいしいよ!」

 しゃくしゃくと氷をかき込み、つめたい、と呟いて空は舌を出した。冷たいけれど一気に食べても頭も痛くならないし、いくらスイカを食べてもお腹を壊さない。前はあんなにすぐ熱を出したのに、最近の空は何だかとても健康だ。これも田舎の不思議な力のおかげなのかもしれない。

 そんな不思議な田舎に感謝しつつ、とりあえずかき氷はお代わりしたいと空は思った。


 空が二杯目のかき氷を貰ってすっかり機嫌を直した頃、隣で外を眺めていたヤナがふと顔を上げた。

「雪乃」

「あら。何か来るのかしら?」

「うむ、多分虫だ。蚊かな? すっかり暑くなったから、山から下りてくる奴が最近増えたのだぞ」

「夏だものねぇ。多いのかしら?」

「さほどでもないな」

 ヤナと雪乃の会話を聞いて空は首を傾げた。蚊と言えば、空も当然知っているアレのことだと思う。でも二人の会話から察するに、空の知るものとはどうやらまた何か少し違うんじゃないかという気もする。

 空はちょっとドキドキしながらヤナの見ている方を見上げたが、まだ何も見えなかった。

「ヤナちゃん、なにがくるの?」

「蚊という虫だな。空は蚊は知ってるか?」

 空はその問いに素直に頷いた。前世でも良く知っているし、今世でも東京にいた時に、出かける兄弟達に紗雪が虫除けスプレーをかけていたのを見たことがある。

「まえにね、おにいちゃんが、かにさされてかゆいっていってたよ」

 空がそう言うとヤナは目を見開いた。

「蚊に刺されたのにかゆいだけで済んだのか? 空の兄はかなり強いのだな……」

「え……ううん、きっとぜんぜんつよくないとおもう」

 自分とヤナの間に何か大きな誤解が生まれた気がして、空は急いで首を横に振った。

「ヤナ、都会の虫は弱いっていうから、きっと蚊も弱いのよ」

「ああ、そうか。ふむ……なかなか不思議なところだな、都会というのは」

(えええ……田舎の方がずっと不思議だと思う……)


 そんな空の困惑も知らず、ヤナは着物の袂に手を入れると、そこから細長い棒を取り出した。どう見ても袂の長さより長い棒がずるずると引き出されてくる。棒は草の茎のような緑色で、その先には細い葉を編み込んで小さな箒にしたような物が付いていた。

「それなあに?」

「これか? これは虫うちだな。小さな虫を退治するのに使うのだ」

(……ハエタタキみたいな物かな?)

 箒のような部分で虫を叩くのだろうと空にも想像できたが、しかし蚊を叩くには少し大きい気がする。空がそれを不思議に思っていると、どこからか何か低く唸るような、機械のモーター音のような音が聞こえてきた。

「お、来たな」

 ヤナの視線につられて空もそちらを見る。そしてすぐに見たことを後悔した。

「びゃっ!?」

 空はおかしな声で叫んで、常にない素早さで横に座っていた雪乃の後ろに駆け込んだ。その姿を見た雪乃が、可愛くて仕方ないという顔で微笑む。しかし空はそれどころではなかった。

「ばっ、ばぁば! なにあれ!」

「蚊よ。この季節によく出る虫ね。そうねぇ、都会のよりちょっと大きいかしら?」

「ちょ、ちょっとじゃないよ! すごく、すごーくおおきい……ほんとに、か?」

 空は恐る恐る雪乃の背から顔を出し、音の主を見た。

 それは遠目から見れば確かに蚊に見える。しかし大きさが圧倒的に違っていた。姿自体は空が知るヤブ蚊とよく似ているが、どう見ても頭から足の先まで入れたら四十センチくらいあるのだ。その大きさになると細い針も十センチくらいの長さがありそうだ。

(でっかい……気持ち悪いし、怖い!)

 ブルブルと小刻みに震える空を宥めるように、雪乃は手を伸ばして小さな体を引き寄せて抱き込むとその背を優しく撫でてくれた。その優しい仕草につられて雪乃にしっかりとしがみ付くと、空の心も徐々に落ち着いてくる。

 少し落ち着けば、側にいる二人が守ってくれると信じられて再び顔を上げて蚊を観察する余裕も出てきた。


 よく見れば、忙しなく羽を動かし塀の少し上をフラフラと飛んでいる蚊は、しかし何故かそれ以上家に近づいては来ない。一匹、二匹と数を増やし、いつの間にか五匹ほどになったが、どれも皆塀の上の空中を左右に行ったり来たりしている。

「かべがあるみたい?」

 空が首を傾げるとヤナが誇らしげに胸を張って頷いた。

「そうだぞ。ヤナが張っている結界のおかげだ。ああいう大きな虫は入って来れないようにしておるのだぞ」

「けっかい……ヤナちゃん、すごい!」

 ヤナがこの家を守ってくれている事は聞いていたが、具体的に目にしたのは初めてのことのような気がする。これなら確かにこの家にいれば安全そうだと実感でき、空はホッと息を吐く。

「こやつらは普段は山の奥で暮らしているのだがな。夏になるとこうして獲物を求めて彷徨い、人里に迷い込むのがおるのだ。だがまぁ見ての通り結界を超えるほどの力も持たぬし、飛ぶ速度もさほど速くない。的も大きいから見つけやすいし退治しやすい。刺されなければどうということもない虫だ」

 刺されなければということは刺されたら大変なことになるんじゃないかと思うが、どうなるのか怖くて知りたくない。空くらい小さければ、あんなのに血を吸われたらあっという間にカラカラになってしまうんじゃないかという気がする。

「もし空が外で会っても、草鞋を履いていれば大丈夫よ。羽音で来たのがすぐ分かるから、そうしたらばぁばやヤナを呼んでね」

「わらじ……わらじも、すごい」

 何があっても善三作の草鞋があれば大丈夫といつも空は言われる。もう常に草鞋を枕元に置いて寝たいくらいの頼もしさだ。拝んでも良い。

「どれ、うるさいから片付けてしまおう。空、見ておるとよいぞ」

 空が心の中で草鞋を拝んでいると、ヤナはそう言ってひょいと庭に下りて池の縁を回り、塀の際までスタスタと歩いて行った。

 そして結界の向こうからこちらを窺う蚊を見上げ、ぴょんと跳んだ。

「よっ!」

 軽い掛け声と共に手にした棒がヒュンと振られる。およそ四十センチの蚊に対して、虫うちの頭の部分は大人の手のひらくらいの大きさしかない。少し頼りない武器だと空は思っていたのだが、次の瞬間その印象はあっけなく覆された。

 ヤナの振った虫うちは張られているはずの結界を素通りし、その向こうにいた一匹に箒部分がスパンと当たった……と思った刹那、蚊がパンとはじけ飛んだ。

「え……」

 空は何が起こったのか分からず口をぽかんと開けた。一度着地したヤナはまたぴょんと跳びはね、次の蚊を叩く。パン、と軽い音を立てて蚊はまた一瞬でバラバラになり、羽根や足が塀の外にひらひらと落ちて行く。

「ほら、どうだ空。怖くないだろう?」

 鼻歌でも歌うような調子で、ヤナはにこやかに虫うちを振るう。

 一振りする度に蚊はバラバラにはじけ飛び、五匹の蚊はあっという間に退治されてしまった。

「すごい、ヤナちゃんつよい!」

「うむ! こんなのはヤナにかかれば朝飯前だ!」

 空に褒められてヤナは嬉しそうに笑う。

「空もあのくらい、すぐ自分で退治できるようになるぞ」

「ぼくも? ほんとになるかなぁ」

 そう言いつつも今のはちょっと楽しそうだったなと空も思う。あの虫うちくらいなら空でも振り回せそうだし、一つ作って貰っても良いかなと。

 しかし続くヤナの言葉を聞いた途端、空はすっくと立ち上がった。

「大丈夫だとも。蚊は脆くて簡単だ。これが蝉とかになるともう少し頑丈だし動きも早く不規則になって、重さもあるしちと難し――」

「あー! ぼ、ぼくおといれ!」

 空は大きな声を上げてヤナの言葉を遮り、大急ぎでトイレに向かって走り出した。

 この間家の外を散歩していた時に見た、何かに当たって地面に落ちてひっくり返っていた蝉のことを思い出したくなかったのだ。

 茶色い猫だろうかと思っていそいそと近づいたら、バカみたいに大きな蝉だったというあの衝撃から空は未だに立ち直っていない。

 ジタバタしていた足と丸見えだったあの腹をうっかり思い出すと今でも夜に悪夢を見そうだ。

 あの時はそれ以上近づかず急いで逃げ帰ってきたが、もし気付かずに運悪くセミファイナルに遭遇したら多分気絶するんじゃないかという気がする。空はそれを考えると今から夏の終わりに怯えている。

 田舎の虫とはまだ仲良くなれそうにない、と空はトイレの戸を閉めてこっそりため息を吐いた。

 食べられないものと和解できる日はまだしばらく来そうにない。

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