2:ちょっとした転機


 そんな空に転機が訪れたのは、三歳になる直前の頃のことだった。

「えん? りくの? ぼくもいけるの?」

「そう、保育園よ。空ももう三歳だからね。お医者さんで見て貰って、先生が良いって言ったらね」

 そう言いつつ、紗雪は心配そうに空を見下ろした。空の体はその虚弱さからか大分小さい。双子のはずの陸と比べて背が低く痩せていて、まだ二歳くらいだと言っても誰も疑わないだろう。

「今度は紹介状貰ったから、ちゃんと大きい病院で見て貰えるからね……何もないといいけど……虐待してるとか疑われたらどうしよう」

 後半は空に聞こえないように小さく呟かれたが、あいにく聞こえていたし意味もわかっていた。

(確かに……疑われたら僕が母さんを擁護しなきゃ)

「いつおいしゃさん?」

「明日よ。だから今日は早く寝ようね」

「あい!」

 前世の記憶のせいで精神年齢が若干高めの空としては、特に今更保育園に興味は無かった。けれど母を心配させるのも本意ではないため元気よく頷いておいた。

 何より、紗雪が空を預けてパートに出たがっている事を知っていた。

 空がそれとなく観察したところ、父は公務員かそれに近い職業で、稼ぎはそれほど悪くはないらしい。しかしここは都会で物価が高い。空と陸が双子だったせいで子供が予定外の四人に増えたこともあり、将来の事を考えるともっと貯金したいというのが夫婦の希望のようなのだ。

(病院では健康そうに振る舞いたいところだけど……健康そうって、どういうのをいうんだろう)

 生まれてこの方不健康だった記憶しかないからわからない。とりあえず受け答えは明るく元気にしよう、と決めて空はその日も良い子に布団に入ったのだが。



「お子さんは……おそらく魔素欠乏症です」

「えっ」

 紗雪は目の前の医者の言葉を飲み込むのにしばらくの時間を要した。

 色々な検査を終えて疲れたらしい空は、紗雪の腕の中でうとうとしている。その空を見下ろし、しばし見つめたあと、紗雪はもう一度医者の顔を見た。

「すみません、魔素欠乏症って……なんですか?」

 医者は一つ頷くと、手元のメモ用紙を一枚とってそこに簡単な人の形をさらりと描いた。

「魔素欠乏症というのはですね……簡単に言うと、体と魔力の器の大きさが、合っていないという病気……というより体質の人に出る症状です」

 そう言って医者はその人型のお腹の辺りにくるりと小さな丸を描いた。

「これはまぁいい加減ですが、この体の中の丸が、人の持つ魔力の器だと思って下さい。魔力の器は一部例外はありますが、大体どの人も持っているもので、それは生まれた時は小さく、成長すると共に徐々に大きくなる性質があります」

「はい、それは知ってます」

 答えた紗雪に頷き、医者はその横にもう一つ人型を描き、今度はお腹の丸を随分と大きく描いた。


「ところが稀に、この魔力の器が生まれつき大きい人がいるのです。小さな体に見合わぬ器を持っている、という事ですね」

「空が、それだと?」

「ええ。簡単な検査しかしていませんが、空くんの器は大分大きいようです。それ自体は本当は悪いことじゃないんです。ここが、東京でさえなければ」

「東京じゃなければ……?」

 紗雪が首を傾げる。

 その腕の中で、寝たふりをしていた空もまた内心で首を傾げていた。

(待って、何、魔力って!? え、ここ日本じゃなかったの? いやでも東京って言った! まそけつぼうしょうって何!?)

 うとうとしていたはずだったが、聞こえた言葉の謎に一気に目が覚めてしまった。

 自分の知っている世界じゃなかったのここ!? と空は目をつぶったまま大混乱していた。


「ええ。ご存じでしょうが、私たちは普段の食事や呼吸で魔素を吸収し、それを自分の中の魔力に変えて生きています。体に見合った普通の器の人なら、それで十分足りるんですが……」

 そこで言葉を句切って、医者は窓の外を見た。寝たふりをしている空からは見えなかったが、そこには都会らしいビルが並ぶ景色が見える。

「長年東京で暮らしていると忘れがちですが、都会はやはり魔素が薄いんです。自然魔素も少ないですし、魔力機関が多すぎて発生よりも消費の方が多いですからね。それでも、その環境に私たちは慣れていますし、魔素の濃い田舎で育てられた野菜などが運ばれてくるからそれを食べることで必要な魔素を得ています。けれど、空くんのような体質の人の場合、それでは全然足りないんです」

(魔力機関て何!? なんか格好いい! っていうか、ホントにここ日本なの!?)

 空は目を瞑ったまま思わず紗雪の服をぎゅっと握った。それをどうとったのか、紗雪の手が優しく空の背中を撫でる。


「……足りないと、どうなるんですか?」

「体内に入った魔素は、魔力の器に流れて溜まり、そこで個人の魔力に変換され、体に回ります。器が魔力を十分に生産する為には、最低でも器の五から六割を満たす魔素を必要とするのです。その魔素が足りず器を満たせないと言うことは、体の中に十分な魔力が回らず、生命力を削ってそちらに回していると言うことです。私たちはそのどちらが欠けても生きていけないので体が勝手に調整してしまうんですね。空くんの場合おそらく、日々得ている栄養の多くがそちらに回っているのではないかと……つまり、空くんは慢性的な栄養失調状態だということです」

「栄養失調、ですか。でも空はよく食べますけど……」

「その割に身長も体重も、この年の平均からはほど遠いですね。普段の食事が足りてないんでしょう。食事だけで魔素を得ようとすると、多分同じ年の子供の三倍から五倍くらいの食事を必要とするはずです」

「五倍!?」

(五倍……道理で、いつもお腹が空いていると思った。それでだったのかぁ)

 紗雪が驚く一方で、空は非常に納得していた。生まれてこの方満腹を感じた記憶が無かった理由がやっとわかったのだ。記憶にない乳児の頃のことはわからないが、多分同じだったはずだ。

(でも、陸の五倍もご飯食べさせてなんて言えないよなぁ)

「五倍はあくまでも予想ですが……問題はそれだけじゃないんです。おそらく空くんの体が弱いのも、体と魔力の器が見合ってないせいだと思います」

 そう言うと医者は机の上にあった小さな水晶玉を手に取り、紗雪に渡した。

「それを空くんの手に握らせてあげて下さい」

「はい……」

 紗雪は頷き、自分の服を握り込んでいた空の手を離して、その中に水晶玉をそっと入れた。すると水晶玉の色がみるみるうちに変わっていく。

「あ……なんか、黒くなってきました」

「その水晶が、体に残った魔素の濁りを吸っているんです」

(何それ見たい! 寝たふり止めたい!)

 空がそわそわしているのを知らず、大人二人は空の手の中を覗き込んでため息を吐いた。

「やはり結構濁ってますね……東京に漂う自然魔素はどうしても澱みがちなんですよ。何せ人口が多いので負の念も多く、その人々の思念を受けてしまうんです。普通ならその魔素を魔力に変換する時に、体に備わった自浄作用で問題ない程度に浄化することが出来るんですが……」

「空はそれができないんですね……」

「ええ、器が大きすぎて、自浄作用が追いつかないんでしょう。呼吸などで取り入れた魔素の濁りが体に溜まり、免疫を弱め、咳や熱の原因になったりするのだと思われます。今の空くんは、魔素が足りないので成長に使う栄養が不足し、成長が遅いので魔素の浄化に滞りがある、そのせいで体調を崩して体力を消費するのでまた成長が遅れる、という悪循環にはまってしまった状態なのだと思います」


 医者の言葉に何か思うところがあったのか、紗雪は空の小さな体をぎゅっと抱きしめた。少し苦しくて身じろぎしたが、ぽたりと滴が頭に垂れ、空は息を呑んだ。

「空は……このままだとどうなるんですか?」

 ぐす、と鼻をすすりながら紗雪は小さく問いかける。

 医者は言いづらそうにしばらく黙ったあと、首を横に振った。

「五倍食べさせても、こういった魔具で浄化を助けても、対症療法なんです。このままで東京で過ごしたら、多分五歳を迎える事ができるかどうか……」

「そんな……」

「外部から魔力を補う治療器具や薬も多少あるのですが、非常に高価で、空くんが成長して魔力の器と体の調和がとれるまで使い続けるのはかなり厳しいかと」

(そんなぁ……三歳にして人生終了のお知らせとか……厳しい)

 我が家の経済事情を考えれば、さすがにそんな治療をして欲しいとは言えない。空に前世の記憶があるからこそ、両親にそんな大きな負担を掛けたくなかった。うっすらと目を開けて見上げれば、紗雪は本格的に泣きそうになっている。空はもそもそと動いて手を伸ばし、母の目元をそっと拭った。

「空……?」

「まま、ないてる? いたいの? だいじょうぶ?」

「うう、空……大丈夫、大丈夫よ……ママは大丈夫……」

 そう言って笑顔を浮かべようとする紗雪の頬を空は何度も優しく撫でた。それにまた紗雪の涙腺がじわりと潤む。そんな親子をじっと見ていた医者は、静かに紗雪に声を掛けた。

「杉山さん、改善の可能性がないわけじゃないんです……ただ、それが東京では無理だ、というだけなんです」

「え……」

 医者の言葉に紗雪が顔を上げる。つられて空も医者の顔を見た。

「杉山さんには、田舎の方にお住まいの親戚とか、そういう伝はありませんか? もしあるなら、そちらに空くんを大きくなるまで預かって貰うことが出来ればそれが一番良いと思います。自然魔素が多く、魔素の濁りも少ない田舎で過ごせれば、それだけで空くんの症状は大分改善する可能性が高いんです」

「田舎で……それだけで?」

「ええ、田舎なら食べ物に含まれる魔素もこちらよりずっと豊富なはずです。日常的に十分な魔素が摂取出来れば栄養を取られる事もなくなり、体の成長も正常になるはずです。ただ伝が無い場合は、お子さんを預かってくれる療養所を探さなければならないのですが」

(田舎に移住するだけでいいの!? それならなんとか出来そうな気もするけど……)

 希望が見える話に喜び、空は母の顔を見上げた。しかしその顔は曇ったままだった。

 紗雪は困ったように眉を寄せ、俯いた。

「まま?」

 空が声を掛けて覗き込むと、紗雪はぶるぶると震え出し、それから空を強く抱きしめた。

「わ、私の両親は田舎にいるので、頼めば多分、空を預かってくれると思うんですが……先生、私、い、田舎でやっていけなくて、都会に出て来たんです」

「それは……ひょっとして、かなりの危険地帯のご出身ですか?」

「はい……実家は一級危険指定区域なんです。私、魔力がなかなか増えなくて、挫折して東京に逃げてきたんです……それなのに、あそこで生まれ育ったのに全然駄目で、一人娘だったのに、両親を捨てるみたいに田舎落ちしたのに……空をあそこにやるなんて!」

 今度こそ紗雪の涙腺は決壊した。わぁっと声を上げて泣き出した母を見上げ、空は大変困惑していた。

(田舎落ちって……何?)

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