1:生まれ変わりも楽じゃない

 杉山空にとって、この世界は生まれた時からずっと息苦しい場所だった。

 それは精神的に、と言う意味ではなく単純に肉体的に、だ。

 空は生まれた時から身体の弱い子供だった。それはもう頻繁に熱を出した。

 小さな体はいつも重だるく、動きも鈍い。何もしていなくても息をすればその度に肺がひんやりと冷える気がして、時折咳き込む。咳き込めば苦しくて顔も体も熱くなり、度重なればそれはやがて慢性的な発熱に変わる。それが空の日常だった。


 余りに頻繁に熱を出すので病院にも当然何度も掛かったが、町医者の見立てはいつもただの風邪で、子供にはよくあること、体が弱い子なのだろうという結論だった。

 熱を出せばいつも母である紗雪が看病してくれたが、それも生まれてこの方月に二回はそうだとなれば、徐々にその対応も雑になる。

 何せ他に兄弟が三人もいて、そのうち一人は空と双子なのだ。当然母は大忙しだ。けれど双子に手を取られて他の兄弟を放っておけば、上の子供達からも不満が出る。

 必然的に、空は熱を出せば薬を飲まされ、熱冷ましシートを額に貼って後は寝ていてねと言われ一人で放っておかれる時間が増えた。


(まぁ、仕方ない。暇だけど……母さんがいても暇なのは変わりないし)

 もうすぐ三歳になる子供にしては大人びた思考を、熱に耐えながら巡らせる。幸いなのは、熱を出しても食欲が落ちない性質だということか。食事だけはどんなに熱があっても普通に食べられるので、回復もそう遅くはない。二、三日すればまた起きられるようになるのはわかっている。けれど、普通に食べられるのも結構辛いということを空はこの身体になってから知った。


(お腹空いた……どうしてこの身体は、こんなに燃費が悪いんだ)

 朝ご飯を食べ終えてから、まだ一時間しか経っていない。なのに空の腹はもうきゅうきゅうと自己主張している。寝ているだけなのだからこの食欲が落ちてくれれば良いのにと思うのに、実現したことがない。

 今日の空の朝食はおにぎりが二個に野菜が入った味噌汁。それに卵焼きとソーセージとプチトマトが二つずつついていた。多分、普通の三歳前の子供には十分すぎる量のはずだ。なのにどうしてか、空にはちっとも足りないのだ。

 双子の弟の陸も一緒に同じだけ食べ、プチトマトは食べたくない、味噌汁はもう入らないといって残していた。それは空がありがたく貰ったが、腹の足しにもならなかった。

 空は生まれてから三年近く、いつも具合が悪くて、空腹だった。

 幸いかどうかはわからないが、親は体は弱いが普通の子だと思っている。空腹はいつも我慢して言わないからだ。


(僕が……僕だから、悪いのかなぁ)

 熱を出したとき、一人の部屋で考えるのはいつもそんなことだ。

 双子の兄弟の陸は至って普通の幼児で、空と違って健康そのものだからなおさらそんなことを考えてしまう。双子のはずの自分と陸で違うところが何かと言えば、それは中身の問題にあるような気がしてしまうのだ。


 空には前世の記憶がうっすらとある。どこそこの誰だったというはっきりしたものではないけれど、幼児の自分に違和感を感じる位には、大人だったという記憶や、思考能力が残っている。それが特別なものなのかどうかは知らないが、それ故に空は空腹を我慢するくらいの分別を持ってしまったのだ。




 空が前世の記憶に目覚めたのは二歳の頃。いつもの通り熱を出して家で一人寝ていた日の事だった。

 空が浅い眠りから目を覚ました時、家には誰もいなかった。父は仕事、母は多分買い物か何かだったのだろう。兄は小学校で、姉と双子の弟の陸は保育園に行っている。空だけは体が極端に弱いということで保育園には通っていなかった。

「みず……」

 喉が渇いた、と体を起こせば、母が置いてくれた水差しはもうほとんど空っぽだった。何度か飲んだから仕方ない。空はふらふらと立ち上がり、台所へと向かった。

 流しへと歩み寄ったものの、当然それは見上げるほど高い。

(とどかない……のど、かわいた)

 熱でぼんやりとした思考を巡らせる。どうあっても水が飲みたい。けれど届かない。

 しばらく考え、空は一つ解決策を思いついた。

(お風呂なら、届くはず)

 部屋に戻ってコップを手に取り、それから浴室を目指す。

 開きっぱなしのドアから廊下に出る。あちこちのドアが開いていて楽に移動できた。母が掃除をした後だったのが幸いしたようだ。

 ふらふらと浴室まで歩き、その押戸をどうにか開けば低いところに蛇口があるのが確認できた。

(良かった。あとは……お湯はやだから、水にして)

 温度調節の為のハンドルを水の方に動かし、シャワーから蛇口に切り替える。

 そしてレバーを押すと、無事に水が出た。ほっとしながらコップを出し、たっぷりと入れて口に運ぶ。冷たい水がするすると喉を通るとやっと息が楽になったような気がした。そのまま立て続けに二杯水を飲み、少し腹も膨れたので水を止め、空はまたゆっくりと部屋に戻った。

 そして布団に戻って横になってから、ふと壁に掛かった時計に目をやった。

(二時半……母さんは買い物かな。寝てたから大丈夫だと思ったんだろうな)

 空はそこまで考え、それからはたと違和感に気づいた。

(何か変……何で、ぼくはそんなことがわかるんだ? 何で母さんの行動を予測してる? どうして時計が読める?)

 昨日までは意味を成さなかった壁掛け時計の数字が、自分にその時刻を教えてくる。部屋を見回せば、今まではただの読めない模様だったものが、文字や数字だとちゃんとわかる。

(……何でわかる? っていうか、僕は……俺は……僕は)

 空は混乱したまま天井を仰いだ。世界の全てが急に明晰になったようで、小さな頭がパンクしそうだ。ぐるぐると目眩がするのを目を瞑って堪え、静かに浅い息を繰り返した。

 しばらくそうして静かにしていると、少しずつパズルのピースがはまるように、空の頭の中が整理されていった。そうすると、自分という存在に関する事が少しばかり理解できた。

(そうか……俺は、生まれ変わったのか。この状態は、前世の記憶があるって言う奴なんだな、きっと)

 けれど考えてみても、前世の名前やどんな人生だったのかというのはよく思い出せなかった。ただ、二歳にはそぐわない思考能力や身の回りの事に関する多少の知識がある、というだけらしい。

(多分どこにでもいるような普通の男だった……ような気がするけど、わかんないや。でも、死んだ時の事とか覚えてても嫌だから、これはこれでいいか)

 前世の知識によれば、幼児の頃は前世の記憶があるという子供は、時々話題になるくらいにはいるものらしい。空はきっと自分もそれなのだろうと結論づけた。

(大きくなるとそういうのも大体の子供が忘れてしまうって聞いた気がするから……とりあえず、今水を飲むのに役に立ったならそれでいいや)

 どうしても水を飲みたかったから思い出したのかも知れないと思うと、少し笑える気がした。

(物語では、前世の知識を使ってなんだか色々活躍する話があった気がするけど……この虚弱体質じゃ、無理だろうなぁ)

 それ以前に空が生まれたのは前世生きていた頃と大差がないように見える日本だ。

 使える知識の持ち合わせなどあるはずもない。

(神童とか呼ばれて人生のハードルをわざわざ上げる必要もないし……このままにしとこう)

 そのうちこの意識も、幼児の空と混じってちゃんとそれなりに子供らしくなるだろう。そう考えて空はもう気にせず眠ることにした。頭の中はまだちょっと混乱しているし、なんだかとても疲れていた。

(どうせ思い出すなら、体を丈夫にする方法とか知ってたら良かったのに……)

 眠りに落ちる直前、空はそれだけを少し残念に思った。





 そんな訳で、空が前世の記憶をうっすらと思い出してから数ヶ月。

 記憶が甦ったからといって特に生活に変化はなく、空は相変わらすしょっちゅう寝込む虚弱幼児生活を送っている。

 双子の陸は元気よく毎日走り回り、空を除いた兄弟げんかも良くしている。最近では空と陸は体の成長も随分と違ってしまい、もう双子には思われなくなってしまった。ほぼ確実に空が弟だと間違われる。

(僕の方が、本当は兄なんだけどな)

 空より頭一つ分近く背が伸びた陸は、最近空を何かと弟扱いしてくる。それが少し不満だ。よみがえった前世の記憶も今のところ特に役に立っていない。

(いや、水を飲めるのと、トイレに行けるようになったのと、絵本を自分で読めるようになったのはあるか……)

 これらはちょっと嬉しかった。でもトイレは具合が悪くて寝てる時は間に合わないかもしれないから結局まだおむつなのだが。記憶がある身としては少々恥ずかしいが、幼児なのだから仕方ないと割り切れるくらいに前世と空の意識は融合している。

(早く少しでもいいから丈夫になりたい……あとご飯もっと食べたい)

 寝込んでいて動いていないのに、何故かすぐに空腹になってしまう体も相変わらずだ。

(陸と同じか、もっと食べてる時だってあるのに、寝てるだけなのにご飯ちょうだいって言えないよなぁ……)

 前世の記憶が無かったら、お腹空いたと駄々をこねて暴れ出せたのにと思う事もあった。たまにもっと強請ってみようかと考える日もあるのだが、自制心が働いてつい諦めてしまうのだ。仕方なく、時折母の目を盗んで水をがぶ飲みして空腹をごまかす日々を送っている。空は相変わらずいつも具合が悪く、腹ぺこだった。

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