第9話 由紀の新しい旅立ち・詩の朗読会

M市は内陸の街。絢美がビニールシートハウスで暮らしている海沿いの街、I市の北側にあって、由紀はこのM市で暮らしている。由紀は、自宅の近くにNPO法人「集いの家」を発見した。この「集いの家」は社会福祉的な役割があって、定期的な非営利イベントに、格安で部屋を提供する建物だった。健康麻雀、ミニコンサート、植物の展示、歴史講座、かっぽれ教室、大正琴の集い……などの団体で、朝から夜遅くまで部屋は予約が埋まっていた。


由紀はブックカフェ「本の森」の倒産で借金を抱えていた。なんとか借金を返さなくてはならないので、以前と同じように経理会社に勤めを始めていた。しかし、「もう一度、ブックカフェのようなものを」――そういう思いは捨てきれなかった。そんな時に発見したのが、自宅からわずか700mほど離れたところにある「集いの家」だった。


どうしても自宅に帰りたくはない。だけど、絢美のビニールシートハウスへ行くのもためらわれる。あの「鮫に市役所の職員を喰わせた狂気の夜」が思い出されて仕方がない。あの戦慄の夜の体験。今度絢美に会いに行く時には、よほど覚悟を持って行かなくてはならない、由紀はそう思っていた。


雀荘「コラール」はどうか。コラールでは麻雀で負けた金を借りている。十万ほどの金だが、由紀にはそれが返せない。また行けば借金の返済を迫られて麻雀を打たせてくれないのは目に見えている。どうせコラールの従業員が家まで押しかけてくるようなことはない。たまに店主の松本が電話をかけてくるが、そんなものは出なければいい。

「踏み倒すことになるか」

由紀はそんなことを思うと自嘲気味な笑みが自然とこぼれてくることがあった。


自宅では、義父の義雄が認知症気味で、どこかにフラフラ出かけては帰ってこなくなることがある。警察に連絡しなくてはならなくなることもあって、それもつらかった。先日など、一人で歩いている若い女性に抱きついたことがあったとのことで警察から連絡が入った。

「記憶していない。そんなことはやっていない」

義雄はその一点張りで、相手の女性や警察に謝ったのは由紀の方だった。


夫の紘一との関係も、由紀が「本の森」を開業したあたりからぎくしゃくしている。長男と長女も家を出て独立した生活を営んでいる。あまり帰宅したくもない家になっていた。そんな日々を繰り返すうち、「集いの家」が気になった。

「ここで、お金をかけずに本の森のような癒しの場を提供することができたらどうだろう。お金がかからない。第一、ここなら営利主義に徹しなくてもすむ。でもここでは本を読んで過ごしてもらうということはできない。今はすべての本を売り払ってしまったし、たとえ用意できたとしても開催日にここに運んでくることは不可能だ」


由紀の脳裏に思い浮かんだのは、あの夜、I市で目撃した絢美の詩の朗読会だった。あの不思議で、だけど心を打つ朗読会。そこには、若い人も、年老いた人も、男も、女も、さまざまな仕事の人も、ホームレスも、そして野犬までも集まって、絢美の詩を聞き、絢美の神秘的な声に聞きほれ、妖しく美しい姿に見入っていた。もし、あたしにもあのような詩の朗読会ができたら……。


由紀は「集いの家」の一室を借りて、詩の朗読会を始めた。市の広報に載せてもらったおかげで、参加者は少しずつ増えてきた。月に2回の開催。時間は土曜の午後2時から3時30分まで。参加費は会場使用料として一人300円。イベント名は「詩の朗読会」。キャッチフレーズは、「あなたの詩を朗読して、多くの人に感動を届けよう」。


開催して半年。こうしたものが意外と需要があるものだ、と由紀は気づいた。ネット社会だから、詩などはネットで発表すればいい。いや、そうではないのだ。生きた人に向かってナマで読み上げる。聞いている人も、朗読するアマチュア詩人の表情や姿にナマで接することができる。どこにでもいるおじさんおばさん、少年少女たちが、どのような思いを詩に託して、どのような思いで詩を読んでいるのか、それがこうした朗読会でわかる。今や、由紀の「詩の朗読会」は毎回、会場いっぱいの40人もが集まるほど盛況になった。席は30人分しかないので、あとの10人は立ち見である。それでもそれほど多くの人数が「詩の朗読会」には参加するのだった。


参加するすべての人が自作の詩を用意してくる。ほとんどが稚拙な詩だ。ただ日常の出来事を文章にしたり、俳句のようなものもあったり、愚痴や泣き言を延々と書き連ねたものであったり。しかし、それがかえって聞いている人の心を打つ。それが一時間半の開催時間では全員に朗読してもらうわけにはいかない。一人10分の持ち時間として、7人。10分の中で朗読が終わったら、作者のトークタイムにする。一時間半だから70分が詩の朗読として、休憩を10分挟めば、あとの10分が残る。その10分は詩集の頒布会とした。これならその時、抽選に外れて詩が朗読できなかった人も、手作りの詩集をほかの人に渡すことができるのである。詩集は、たいていパソコンで印刷したものをホチキスで止めて、ページ数として10枚。そうしたものを思い思いで作って、これも100円から300円の安い値段で販売するものであった。


続く




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