第3話 ホームレスの女
その夜も、片桐はI駅で電車を降りた。
どうにも仕事がおもしろくない。家に帰ってマイホームパパの真似事をする気にもなれない。この街で途中下車をするのが、くだらない毎日の中でのたった一つの楽しみになっていた。
コラールのあるビルを見る。またコラールに入って大負けするのはこりごりだった。もう財布に今月の小遣いはほとんど残っていない。今度負けたらどこにも借金のあてはない。
コラールのビルの入り口だけは見てみた。七階に本の森があったはずだ。由紀のブックカフェ。その七階のポストは投函口をテープでふさがれていた。やはり閉店したのだ。
営業している時に一度行ってみたかったな。そう思っても後の祭りだ。
金がなければ、この街に来ても、ただの通行人だ。
海の方でも行ってみるか。
片桐は南の方角に向かって歩き出した。
途中、パッとしない町中華があったので、入ってみた。
客は、トラックの運転手が一人だけ入っていた。
片桐はラーメンを頼んだ。
出てきたラーメンは、ひどくまずかった。
全部食べる気にもなれなくて、半分だけやっとの思いで食べて店を出た。
街はずれに来た。
運河が海の方に流れている。
道路と運河の間の一段低くなったところに、人が通れるほどのスペースがあった。
橋の下にビニールシートハウスがあった。
ホームレスが住んでいるのか。
ビニールシートハウスの周囲に猫が何匹もいた。
ハウスに出入りしている猫もいた。
猫を見ていると、人影が出てきた。
若い女だった。
女と目が合った。
「猫が好きなのか?」
と、女は言った。
「ああ。猫はいいよね。自由でね」
「一杯飲んで行かないか」
と、女は言った。
ホームレスにしては、身なりのいい女だった。
卵型の顔をして、髪が長くて、色が白くて、だけど、まなざしだけはきつかった。
片桐は階段を下りた。
ビニールシートハウスの中に入った。
予想外に、温かみのある空間だった。
ビニールシートの内側は、毛布やカーテンで、壁や天井や床が作られ、一つの部屋になっていた。
女性の部屋、という感じがした。
灯りは、外から差し込む光と、もう一つ、床に置かれた携帯式の非常灯の灯りだけだった。
女は、グラスに、ウイスキーを注いだ。
「飲みなよ」
と、女は片桐に差し出した。
片桐はウイスキーを口に含んだ。
猫が片桐の膝に乗って、まるで古くからの親友のように、丸くなってしまった。
ほかにも猫は何匹もいる。
女のそばでくつろいでいる猫。
自由に外に出入りしている猫。
「ここはあたしだけの部屋。あたしと猫だけの世界なんだ」
女は言った。
「誰も来やしない。あたしはここで自由に暮らしている」
片桐は、部屋の片隅にある本棚が気になった。
何冊もの古めかしい本が並んでいる。
「読書家なんですね」
「読むだけじゃないよ。いろいろと書いてるんだ。ノートを見てみなよ」
本棚には何冊ものノートが並んでいた。
片桐は1冊を引き抜いて、開いた。
女の丁寧な文字が延々と連なっていた。
日記もあるし、詩や、小説、時にはペン画のようなものもあった。
鉛筆、サインペン、万年筆、色鉛筆、そのほかいろいろな筆記具で書かれていた。
日常のこと、考えたこと、空想の小説、猫のこと、街のこと、そして男のこと。
どのノートを見てもそうしたものが書かれていた。ノートには署名と日付があった。
署名は、Ayami Makioka。流麗な筆記体の英語で書かれていた。その下に小さく牧岡絢美と記されている。
最初のノートは3年前から、そして新しいノートは書きかけで今日の日付だった。
「あたしがこの家に住むようになってから書き始めたのさ」
と、その女、絢美は言った。
片桐は本の森の由紀のことを思った。
ひょっとしたら、由紀が心に描いていた癒しのブックカフェとは、このような場所であったのではないだろうか。
だが、儲けなくてはならないというビジネス上の問題から、違う方向へと進んで行ってしまった。それが結局は閉店をもたらしてしまった。
今度、由紀に会うことができたら、この女を紹介してみたらどうだろうか。本があって、猫がいて、自由で、自分のことをあれこれと書いている、そんな世界があることを由紀に教えてみたらどうだろうか……。
(続く)
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