第1話 椎名蕾

 揺れる車の中で、椎名蕾しいなつぼみは仏頂面で窓の外を眺めていた。どんよりと立ち込めた雲が、こちらの呼吸まで苦しくさせるようだ。対向を走っていく車の音が単調に響いていく。よりよって曇りだなんて。蕾は黙って天をにらんだ。


「お嬢様、もうすぐで到着ですよ」


 運転席の加賀美慎太郎かがみしんたろうが、ルームミラー越しに蕾と目を合わせた。返事をしない蕾に、加賀美は柔らかな苦笑を浮かべる。


「そんなお顔で晴臣はるおみ様にお会いしては、嫌われてしまいますよ」

「……嫌われたって別に構わないわ」


 視線は窓の外に向けたまま、蕾は大きくため息をついた。四十路に差しかかる加賀美は、蕾が幼いころからのお抱え運転手である。白い手袋のボタンをきっちりと留め、黒いスーツをしゃんと着こなした加賀美は、とうとうフロントガラスを叩き始めた雨に目をやった。


「雨ですね」


 素早くレバーを降ろすと、静かな音を立ててワイパーが動き始めた。蕾はきゅっと唇を引き結び、わざと乱暴なしぐさで背もたれに身体を預ける。わざとらしく大きなため息をついてみたが、加賀美は静かに運転を続けるばかりだ。


 段差を乗り越えたのか、車ががたんと大きく揺れる。衝撃で後部座席に放られていた薄い雑誌が蕾の方に滑ってくる。ちらりと表紙を見ると、そこにはにっこりと微笑みを浮かべた華奢な少女が映っていた。


(新人の分際で笑ってんじゃないわよ)


 胸の内で理不尽な暴言を吐き、蕾は怒りを抑えようとする。表紙に映る少女を見た瞬間、雑誌を粉々に引き裂いて、火をつけて灰にしてしまいたくなる。


 今すぐに車から飛び降りて交通事故を起こしてみようか。それとも目の前の加賀美を人質にして傷害事件を起こしてみようか。とにかく、目的地にたどり着けないようにするためならなんだってする。


 中高生向けのファッション雑誌「GLIRE」《グロワール》はフランス語で栄光を意味し、その名前の通りGLIREは蕾にとっての栄光であり自慢だった。


 蕾がGLIREの専属モデルは何千人という応募者の中で、蕾自身がオーディションを受けて勝ち取った地位だ。流行の最先端を走るGLIREはファッション雑誌の代表であり、それと同時に椎名蕾の知名度も高かった。


 ショートボブにした黒髪はつややかで、小さな顔と形の良い頭を際立たせている。アーモンド形の瞳はチャーミングなきらめきとともに印象付けられ、柔らかな白い肌と桃色の唇は椎名蕾の美貌をさらに輝かせる材料である。。


 しかし。絶世の美少女としてたたえられ、憧れと嫉妬のまなざしを受けて高校生モデルの前線を駆け抜けていた蕾は、もういない。突然降板を告げられ、蕾は会社をクビになった。原因は両親である。蕾の実家である椎名財閥は厳格な家柄であった。堅苦しさに耐えきれず、家出をしたことをきっかけに始めたモデルの仕事に、両親はずっと前から反対していた。蕾の言い分は全く通らず、代わりに採用された16歳の少女が表紙を飾っているというのはこの上ない屈辱であり、自尊心をへし折られる侮辱であった。


 表舞台から引きずりおろされ、名誉もなにもかも取り上げられた蕾は今、黒いリムジンに乗せられて、許嫁である甲斐晴臣かいはるおみのもとへと向かっているのである。


「なんでパパとママは来ないわけ?」


 蕾は雑誌を放り出し、大声で言った。


「お忙しいのですよ」


 加賀美はハンドルを切りながら短く言う。蕾はまたもや怒りを爆発させそうになる。どうしてことの発端である両親が来ないのか。娘を未知の場所にほったらかして、こんなときにまで仕事を優先するのだ。


 蕾のいきがいである仕事を取り上げて何をさせるつもりかと思いきや、いとこである甲斐家で暮らせという。どうしてこんなことになったのか、蕾にはわからない。この椎名蕾がこんな惨めな状況に置かれていることにも腹が立っていたが、大人たちが自分に何も説明してくれないことも怒りに拍車をかけていた。


 甲斐晴臣。


 自分がここまでされたことに釣り合わない男だったら。たとえ晴臣が絶世の美男子であっても、到底許せる所業ではないのだが。何としてでも逃げ出してやろう。そしてまたあの場所に返り咲くのだ。


 椎名蕾は心の中で固く誓うのであった。


❀❀❀


 田舎といった通り、走る道は次第に狭く凸凹になってくる。いつしか行き交う車は少なくなり、左右には青々と稲を茂らせた水田が広がり始めた。浅い水に雨水が落ちては波紋を描いている。


「車が汚れますね」


 ばしゃっと大きく跳ね上がった泥混じりの水たまりを横目につぶやく。蕾には信じられなかった。こんなにたくさんの水田も、狭い道も、長い農道の奥に広がる黒ぐろとした町並みも。その後ろにかぶさるようにしてそびえる山が。ごうごうと音を立てる用水路の横を通り過ぎ、場違いなリムジンは町の中に入っていく。


(火崩町……)


 古ぼけた看板にはそう書かれていた。なんと読むのかはわからない。それを悟ったように、加賀美が教えてくれた。


「ひくずし、と読むそうです」


 口の中でつぶやいて、蕾は不安げに目を伏せた。住宅街に車は差し掛かっていて、黒い瓦屋根とコンクリートの生け垣、歴史の教科書でしか見たことがないような古いポスト、玄関の前に繋がれた犬を眺める。道端で傘を差して立ち話をしていたおばさんが驚いた顔で、走り去るリムジンを目で追っているのが見えた。


 加賀美はナビを横目で確認し、急に左に折れる。短い雑木林を抜けるとそこは巨大な田んぼの風景が広がって、雨雲に覆われた山々がいくつも直線を描いていた。農業用ハウスやトラクターがちらほらと見え、蕾はため息を付いて窓から目を逸らす。


 ここまで来るのに、コンビニやゲームセンターは一度も見かけていない。もちろん、レストランのチェーン店やショッピングセンターも。蕾は叫びだしたくなり、慌てて唇を噛む。道は傾斜し始め、急に雨音が小さくなる。横目で窓の外を見やると、両側に森が広がっているのが見えた。今蕾たちは、山道を走っているのだ。一体どこへ向かっているのだろう。不安になって加賀美に声を掛けると、彼はルームミラー越しに笑いかけてくれた。


「甲斐家のお屋敷は山の上にございますので」

「何よそれ」


 なんだってこんな辺鄙な場所に住んでいるのだ。けれど山道はすぐに終わり、重なり合う木々の間から見え始めた建物に、蕾は息を呑んだ。巨大な敷地の中、背後の山に包まれるようにしてある豪邸。蕾の家もなかなかのものだったが、自分の家よりもさらに威圧感を感じさせられる。


 白砂をタイヤが擦る音が響いた。丁寧にブレーキを踏んだ加賀美は、傘を差して後部座席のドアを開けた。荷物を持とうとした蕾の手を加賀美が止める。


「私が運んでおきます。濡れてしまうでしょう」


 蕾は車から滑り降り、黒いスカートの裾を払う。こんな服は蕾の好みではない。喪服同然ではないか。白い襟といい、腰に巻かれたサッシュといい、ほんとうにイケてない。


 加賀美と並んで歩きながら、蕾は今ひとつ現実感のわかない気分で、傘を打つ雨音を聞いていた。

 

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薄氷の夏 七沢ななせ @hinako1223

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