第1話
悪夢を見る。何かに追いかけられる夢。いつも、途中で転んで見えない何かに苦しめられる。
「……っかは、………はぁ……夢、か」
息が止まっていたのか、止めていたのか分からないけれど息苦しさで目を覚ます。時計を見ると、アラームがなる2分前だった。最近、寝ても寝ても疲れが取れずに体が何となく重い。
「私だってそうよ、そんなの。あなたより酷い人だっているのよ。大体学生の分際で偉そうに__」
お母さんに言ってみたけれど、案の定言葉の針が返ってきただけだった。抜けばどうにかなった言葉の針達は、最近刺さったままちくちくと痛む。放っておくと身体に沈みこんで、血管を伝って心臓に刺さるんじゃないかと思って、怖くなる。けれどもう、刺さった針を抜く体力はない。
3年2組。私はその教室の廊下側の2番目の席に座る。朝のホームルーム前の教室は、まだ人がまばらだ。部活のない人たちが数人いるくらいで、教室の空気なんてきっと有り余ってるはずなのに、息苦しくなる。つけていたマスクを少しだけ浮かせて深呼吸をしてみるけど、呼吸が整わない。サッと周りを見る。誰一人として私のことなど注目していない。それは分かっているのに、どこからか声が聞こえてくるような気がして、私は席を立つ。
教室を出て、階段をおりる。1階まで降りて、職員室の前を通り保健室を通り過ぎる。その先に、『相談室』と書かれた教室が出てくる。私はそこの扉を静かに開ける。ほのかに畳の匂いがマスク越しに鼻をかすめる。
「あら、まおさん。おはよう」
くるりとこちらを振り向いて、女の人が挨拶をしてくれる。首から下げられた名札には『相談室担当医 たちばな ちはる』と書いてある。
たちばなさんは、相談室担当医__臨床心理士__としてこの学校に勤務している。『先生』とはなんか違うから『たちばなさん』と呼んでいる。
「たちばなさん、くるしい」
私を席に促しながら、たちばなさんはノートとペンを持って私の前に座る。
「うん。どこがくるしい?」
「たぶん、ここら辺」
私は自分の心臓ら辺を手のひらで示す。たちばなさんは、私と目を合わせてから言う。唇の左下にある小さなほくろが、特徴的だ。
「うん。そうかぁ。どんな時にくるしく感じる?」
「教室とか、あとは朝…」
「教室とか、朝か。朝は、起きた時?それとも学校に行く前とかかな?」
少し考えて、首を横に振る。
「わかんない…。けど、ずっと、くるしい。なんか、いたい」
「痛い?」
「言葉の、針が痛い」
「そうかぁ。それは痛いね。言葉の針を飛ばしてくる人が、いる?」
少しだけ声のトーンを落として、静かに聞いてくれる。たちばなさんの声は、なんだか安心する。
「……おかあさん」
「そうかぁ。お母さんか。どんな時に、針を飛ばしてくるかな?」
1度だけ深く呼吸をして、答える。
さっきより、呼吸が少しだけしやすくなった。
「わたしが、生意気なこと言った時とか、お母さんが機嫌悪い時とか…」
「生意気なこと?例えば、どういうことを言った時かな?答えられる範囲でいいよ」
私は、お母さんに今朝言ったことをそのまま答えた。たちばなさんは少しだけ黙り込んで、それからふっと、私を見た。
「まおさん。あのね、聞いてほしい。これは、まおさんが何歳だとか学生だとかそういうの関係なしに、人としてのお話」
私は、黙ってうなずく。たちばなさんはペンを置いて私の手を少しだけ強く握った。
「まおさんの心と身体は、今きっと悲鳴をあげているの。たすけて、くるしいよって。そういう時にしっかりと休まないと人は壊れてしまうことがあるんだ。若いから大丈夫。とか誰だってそうだ。とか思うと思うし、言われると思う。だけどね、それはあなたが休まなくていい理由にはならない。あなたのくるしみを、無視していい理由にはならない。笑う理由にも怒る理由にもならない」
たちばなさんは、私の手をしっかりと握ってしっかりと目を見て、そう言った。私は何も言えずに少しだけ目を泳がせる。
「まおさんのくるしみも、痛みもまおさん以外が決めていいものではないの。他人からは軽く見えても、まおさん自身がどう感じているかが重要なの。まおさんにしかわからない。だからそれを、これから少しずつ声にしていってほしいんだ」
なんだか泣いてしまいそうになって、顔に力を込める。たちばなさんの握ってくれている手が、あたたかい。
「私の声、お母さんにちゃんと届かない。お母さん、聞いてくれない」
「お母さんには、絶対に届くようにする。私がする。だから今はそれまでは、私にまおさんの声を聞かせてくれないかな」
頷くと同時に朝のホームルームを告げるチャイムが鳴り響いた。
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