第2話
痛い。いたい、痛い。
どこか分からない、心臓ら辺かもしれないし全く別のところなのかもしれない。ただ、ずっとチクチクと痛い。
お母さん、お父さん、弟の凪斗と会話すらしなくなったのはいつからだろう。ここ1週間はたぶん誰とも顔を合わしていない。
コンコン。
控えめなノックが2回。凪斗だ。
「姉ちゃん。ご飯どうするって母さんが」
凪斗は、小学3年生だ。まだ幼い弟にこんな気を使わせて、私は一体何をしているのだろう。どうしてしまったのだろう。
「ごめん、食べられない」
「わかった」
この状況を把握しきっている人間なんて、この家には居ないのかもしれないけれど、分からないなりに凪斗は寄り添おうとしてくれているのかもしれない。凪斗は、優しい子だから。私の知らないところで家の中の空気を少しでも良くしようと、しているのかもしれない。
凪斗と会話をしたのは3週間ぶりだ。最近はずっと、声をかけられても答える気力すらなかった。食べることも何かを飲むことも、出来ていない。
このまま死ぬのかもなぁ、なんてぼんやりと思う。家族に迷惑かけて、先生にも友達にもたちばなさんにも、合わせる顔がない。だったらもう、いっそのこと死んでしまえたら。
視界が歪んで、霞んで、私は眠った。
翌朝、お母さんの声で目が覚めた。
「まお、起きなさい。病院行くよ」
頭がぼんやりとしている。体も重だるい。しんどい。動きたくない。頭がそれだけで埋め尽くされる中、お母さんに着替えさせられて、車に乗せられる。
30分ほどで、車がどこかの駐車場に入った。病院と聞いていたのに、かかりつけの病院とは違った。お母さんに、手を引かれてほとんど引きづられるようにして歩く。お母さんが受付で何かを話している間、立っているのすらしんどくて、近くの椅子に座る。少ししてからお母さんが無言で【問診票】と書かれた紙を渡してきた。
名前や生年月日を記入してから、【問1】と書かれた文字から横に読む。
【問1】精神科を受診するきっかけとなった症状
精神科。
私は頭の中で繰り返す。
その言葉を聞くのと目にするのは2回目だった。学校へ行けなくなる直前、たちばなさんから勧められていた。私は、その時貰った資料をどうしたのだろう。
続いて、【問2】、【問3】と合わせて【問10】まである問診票を不安を募らせながら埋めていった。
1時間ほど待って、名前で呼ばれた。医師と話す前に看護師さんから説明と、軽い診察を受けた。お母さんは、待合室から動かなかった。
向かい合った看護師さんは、20代後半くらいで髪をひとつにして、優しそうな真面目そうな見た目をしていた。
「加賀美 真生さん」
私の名前を、読み上げる。私がさっき書いた問診票を読んでいるんだろう。膝の上に置いた手をぎゅっとする。マスクの中で、口もキュッと結ぶ。
「かがみさん。お話、聞いてもいいかな?」
看護師さんの問いかけに、私は頷く。看護師さんは、精神科がどんなところなのかを簡単に説明をしたあと、問診票を膝の上に置いてこちらを見た。
「かがみさん。体が重くて、食欲もないって、書いてくれてあるね。学校にも、3週間ほど前から行けていない。…問診票には書いていなかったけれど、希死念慮_死にたいとか消えちゃいたいとか、そういう感情はある?」
私が問診票の【問10】を書かなかったからだろうか。それとも、確かめるという規則でもあるのか。分からないけれど、私は頷いた。お母さんが今、ここにいなくて良かったと思った。
大事に育てた娘が死にたいなんて思っているなんて、そんなの、お母さんが死にたくなってしまう。
看護師さんは、問診票に書いたことを確かめるように補足するように私の話も、聞いてくれた。30分ほどして、次は医師の診察なので。と診察室に案内された。
診察室には60代半ばの男性が居た。おじさんというより、おじいちゃんという表現がしっくりきそうな見た目をしていた。
おじいちゃん先生は、診察室に入った私を見るなり、にっこりと笑った。目尻のシワがいっそう深くなった。少し、たれ目だ。
「かがみ まおさんだね。はじめまして。精神科医の、原田です。緊張してるかな」
ゆっくりと聞き取りやすい声量と速度で、話してくれる。おじいちゃん先生__原田先生__の問いかけに私は小さく頷く。それを見ておじいちゃん先生は、はっはっ、と笑った。
「そりゃぁ、そうだよねぇ。いきなりこんなところに連れてこられて、心も身体も頭も追いついていないんだろう。少し深く、呼吸を3回してみようか」
その言葉に促されて先生と一緒に、少しだけ深く、3回呼吸をした。すると不思議なことに、少しだけ緊張が解けたような気がした。膝の上に置いた拳を少し緩めた。
先生は、私と向かい合う。
「かがみさん。君は、家がきらい?」
唐突な質問だった。学校に行けていないことや、体が重いことを聞かれると思っていたから、拍子抜けした。
「………へっ?」
目を丸くしているであろう私と目を合わせて、先生は続ける。
「家がきらい?それとも、お母さん、お父さん、弟さん。家族の中できらいな人がいる?」
私は、考える間もなく首を横に振った。私は、お母さんもお父さんも凪斗も好きだ。
先生は、軽く頷いてまた口を開く。
「学校ではどうかな」
私は、同じように首を横に震る。友達も先生もたちばなさんも、好きだ。
「家の中で、誰といちばん会話をするかな。お母さん?」
少し考えてから、頷く。すると先生は、ふっと遠くを見るような目で私を見た。なんだか少し、怖かった。
「お母さん、かな。言葉の針を飛ばしてくるのは」
混乱した。
どうして知っているの。たちばなさんにしか言っていないのに。
「たちばなさん。かがみさんの学校で相談室担当医をしている彼女から、話を聞いたんだ。少し古い、付き合いでね。彼女と、僕しか知らないことだ。混乱させてしまってすまなかったね。けれどね、かがみさん」
遠くを見るような目だった先生が、今度はしっかりと私を見た。
「これは、大事なことだ。言葉を軽く見てはいけない。目には見えないから、実際相手がどのくらい傷ついてしまっているのか、それが分からないから「このくらい大丈夫」とそう思ってしまうんだ」
黙ったままの、動けないままの私に先生は続けて言う。目が、逸らせなかった。
「言葉は凶器だ。目には見えないナイフだ。言葉は、色々な場面で簡単に変化する。使う側、受け取る側によって変化する。そんなつもりがなくても、相手を傷つけてしまうことだってある。そしてそれは、大抵気づくことができない。どうしてだか分かるかい?」
私は黙って首を振る。
「目に見えないからだ。使う側が凶器として言葉を使った場合は、使う側だけが傷つけることを知っている。けれどね、使う側ですら凶器だと思わずに言葉を使った場合は、受け取る側も受け取るまで分からない。使った側は、相手が傷ついてしまったことすらも分からないことがほとんどなんだ」
拳に、力が籠ったのがわかった。
「そしてお母さんは、言葉で君を傷つけていることを知らない」
泣いてしまいそうになった。
私は多分、どこかで分かっていた。だから言葉の針が痛い。という感覚を覚えたんだろう。そしてお母さんにそのつもりがないことも、知っていた。だから私は、お母さんをきらいになれない。
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