海の街の古書店

ぬーん

海の街の古書店

海の香りがするこの町に、古書店を開いた。

脱サラをして念願叶ってこのお気に入りの町へやってきてからしばらく経つ。

ガラガラ───と店の入口の引き戸を開けて外に一歩踏み出して、太陽の眩しい光を体いっぱいに受けて息を吸い込んだら、思い切り伸びをする。

「ぐっ……ん〜…。おっ、おはよう。みぃちゃん」

足元にいた三毛猫に挨拶をすると、ちらりとこちらを見て毛繕いを始めた。

「ははっ、いつも通りだな。」

よしっ、と店主の男が回れ右をすると店が経つずっと前からある祠に向かって歩き出す。

毎朝この小さな祠に挨拶を行うのが、店主の日課だ。

「おはようございます。今日も一日宜しくお願いします。」

店主が手を合わせてから一礼すると、子供たちが学校に向かう足音が聞こえる。

「古本屋のおじちゃん、おはようございます!」

「お…おはようございます。」

「おー、おはよう。行ってらっしゃい。」

階段を我先にと駆け上って、行ってきますと明るく重なった声が潮風に運ばれていく。

店主は子供たちに手を振って、店の中に戻る。

新書コーナーを通り過ぎて、右手にあるレジカウンターに置いてある椅子に深く腰かける。

足を組んで読み掛けだった本を手に取り、栞を取ろうとした時にレジカウンターの下からひょこっと狐の耳が見える。

「みぃちゃんじゃなくて、ぽん子じゃと何度言わすのじゃ。」

「うわっ!驚いた…。キュウ様、いきなり出てくるのはよして下さい。」

「お主の驚く顔は何度見ても飽きないぞ。」

くふくふと楽しそうに笑うキュウという名前の小さな祠の神様。

店主は驚いた時にズレたメガネを直し、コホンと咳払いをすると組んでいた足をなおしキュウに向かい合う。

「キュウ様、今日はどんな本をお探しですか?」

「そうじゃのぅ…。今日はちと難しい江戸辺りの料理本が読みたい気分じゃ。」

「わかりました。奥の本棚から取ってきますね。」

そういうと膝に手を置いて立ち上がり、土地の傾斜をそのまま生かした中二階のようになっている店の奥に階段を四段登って向かうと、自分の背丈より上に置いてある本を手に取る。

「よいしょっと…。この辺りに置いてあったはずなんだけどな…。あ〜!あったあった。」

目を輝かせて目的の一冊を手に取ると、階段に腰掛けているキュウに声を掛ける。

「キュウ様、見つかりましたよ。」

「うむ。待ちすぎて祠に帰るとこじゃった。」

そんな冗談を言うキュウにすみませんと謝ると、店の入口から「おーい」と声が聞こえる。

「神谷、お前誰と喋ってたんだ?」

「古市…、別に独り言だよ。」

店主の事を神谷と呼んだこの古市という人物は、時たまやってきては本を何冊か買ってくれるサラリーマン時代の同期の男だ。

キュウに渡すはずだった本を後ろ手に持ち直し階段を下りると、片手をあげて挨拶をした古市を見る。

「何しに来たんだ?」

「神谷、毎回それを言うけど、この店の売上に貢献してるのは間違いなく俺だぞ?」

「はいはい、そりゃどうも。」

「あ、そうだ。この間勧めてくれたミステリー面白かったぞ。」

「本当か?」

「ああ、最後まで犯人が誰なのか分からなくてドキドキしながら読んだよ。」

ページをめくる手をなかなか止められなくて大変だったと笑う古市に、店主は思わず笑みをこぼす。

「夜明け前の薄暗い世界の中で湖畔にポチャンと一滴雫が落ちて、そこに光がスゥーっと差し込んで答えに導くようなそんな物語だったろ?」

うんうん、と一人熱く語る店主に古市は苦笑いをこぼす。

「…そうだ、また何冊か見繕ってくれよ。」

「ああ、勿論。ミステリーでいい物が手に入ったんだ。」

店主はウキウキしながら一階の中程にある本棚から三冊手に取り、それを古市に見せる。

「この三冊を読んでみてくれ。最高傑作なんだ。」

「それこの前も言ってたな…。ありがとう。読んでみるよ。」

古市は会計を済ませると本を通勤カバンに入れて、片手をあげて店を出る。

入口の横で寝転がっている三毛猫のお腹を優しく撫でてから、太陽が照らす道を歩き出した。

「お主は本当に本の事となると止まらなくなるのぉ。」

「お恥ずかしい話です。」

くふくふと笑いながら階段に腰かけいつの間にか手に取ったのか、キュウはペラペラと料理本を読み始めていた。

「いつの間に…。」

店主は感心しつつも自分も椅子に座り、改めて本を手に取った。

すぅっと店主が息を吸い込むと、目の前の文字が浮かび上がって揺れる。

自分の意識を指先からトプンと物語の中へ入り込ませていく。

全身で本を感じるこの感覚がとても好きだ。

店主がハッとした時に本は読み終わっていて、階段の方に視線を送るとキュウは階段に置かれた荷物の上に顔を乗せて、くうくうと寝息をかいていた。

ビキビキと首の後ろが固まって痛むが、その痛みさえ達成感の一つに感じている。

さて、次は何を読もうか。

次に出会える物語にわくわくと期待に胸を膨らませて店主が席を立つと、制服の袖から伸びた腕が海の町に良く似合う日焼けをした女子高生が入口からそおっと店の中を覗いている。

「いらっしゃいませ。」

そう声を掛けて、店主は新しい本を読み始めた。

店主が静かに小説の頁をめくる音と、女子高生が書店を歩く度に床が軋むギィ、ギィという音が書店の中に響く。

互いが出す音は耳障りな音ではなく、店主にとってはむしろ、手の中に広がる物語にアクセントを加える心地の良いものとなっていた。

後ろ手を組んで書店を見て回る彼女は、目を輝かせて本棚を行ったり来たりしている。

「あの、奥の本棚も見ていいですか?」

「……ん?」

「あ、奥の本棚も見てみたくて…。」

「…ああ、すまないね。ゆっくり見ていってくれ。」

「ありがとうございます。」

控えめな会釈をした彼女が履いているローファーが、トントンとリズミカルに階段を叩く音がする。

フンフンと鼻歌を歌いながら本棚を見上げる姿は、まるで御伽噺の世界へ入っていくヒロインのようだった。

何か一冊でも、彼女が手に取りたくなるような作品と出会えればいいのだけど、と店主がチラリと視線を送り眼鏡を指で押し上げる。

静かな古書店に、カチャリとメガネを動かした音が大きく響いた。

店主がすぅっと息を吸い込んで、また本の世界に浸る。

今度の物語はどんな世界だろうか。

店主が一度瞬きをしたタイミングで、目の前に彼女が古書を二冊抱えて立っている事に気がついた。

「うわっ!?」

「驚かせてしまってすみません。何度も声を掛けたんですけど…。」

「ああ、いや…こちらこそ申し訳ない。」

ガタガタと音を立てて席を立つと、彼女から本を受け取り店主がコホンと一つ咳払いをする。

古書を紙袋の中に入れてテープを貼ると、代金を受け取り品物を彼女に渡す。

嬉しそうに袋を受け取った後、おずおずと「また来てもいいですか?」と控えめに尋ねられる。

「もちろん。」

店主が僅かに笑顔を浮かべて答えると、ぱあっと向日葵が咲いたような笑顔を見せる。

「ありがとうございます!」

彼女が会釈をしてから店を出るまでの足跡に、花が咲いたように店主には見えた。

入口の所でくるりとこちらを振り返り、もう一度深くお辞儀をすると、日向ぼっこをしている三毛猫に気づいたのか「猫ちゃんばいばい」と彼女は声を掛けていた。

「素直で可愛い子じゃのぅ。」

「キュウ様」

「昔ワシが読んだ本を買って行った。懐かしいのぅ。」

「そうですね。読み始めてすぐに寝息を立ててらした印象です。」

「はて、そうだったか。」

くふくふと笑いながら、店内を踊るように見て回るキュウ。

「ワシはこの店もお主も大好きじゃ。」

「…ありがとうございます。」

しばらくキュウを見ていると、店の外から三毛猫がじっとこちらを見ていることに気がついた。

「みぃちゃんにもキュウ様が見えているのかな?」

店主の独り言を「ぽん子じゃて。」と頬を膨らませて反応するキュウ。

「ふふっ、すみません。」

「どれ、ぽん子。ワシと一緒に遊ぶとしよう。」

三毛猫はふいっとそっぽを向くと、ぽてぽてと前足を出して思い切り伸びをした。

「猫はいつの時代も気ままじゃのぅ。」

「そこも魅力の一つですね。」

「うむ、そうかもしれんな。」

そう言うとキュウは店の外に出て行き、「ぽん子や」と声を掛け三毛猫を優しく撫でていた。

店主はそれを見届けてから椅子に座り足を組むと、読み掛けの本を手に取る。

一度目を瞑り深呼吸をする。

再び瞼を開いた時には、途中まで読んでいた世界を思い出しながら物語の中に入っていく。

心地の良いさざ波が押しては返すように、頭の中に物語がどんどん広がっていく。

パチリ、と電気のスイッチを押す音が聞こえてきてハッとする。

店主は途端に足の痺れを自覚し、プルプルと震える。

「ぐっ…足が痺れて動けない…。」

「そろそろ暗くなるぞぅ。」

「キュウ様、ありがとうございます。」

店の蛍光灯全てに明かりを灯したキュウは、ふふんと得意げに笑う。

「ワシが能力を使えば、電気なんぞちょちょいのちょいじゃ。」

「すごい能力ですね。」

「そうじゃろう、もっと褒めるがよい。」

キュウと楽しく会話しながらとんとんと足を軽く叩きつつ、もうそろそろ動けそうだと店主が格闘していると、何人もの子供が楽しそうに笑顔を見せて店の前の階段を駆け下りていくのが見えた。

もうそんな時間か。あと数時間で店を閉めなければ。

店内を見渡して、すぅっと本の香りを胸いっぱいに吸い込んで思い切り伸びをする。

パキパキと凝り固まった首や肩周りを解すように、右腕をぐるぐると回しながら左手でマッサージをする。

「ちと、ジジくさいのぉ。」

「ははっ、そんなに若くはないですから。」

「ワシからすれば、お主は赤子も同然なんじゃがのぅ。」

「またまたご冗談を…。」

沈黙の後、二人で顔を合わせて笑いあった。

「…冗談ですよね?」

「さて、どうじゃろうな。」

くふくふと笑い、中々つかみどころのないキュウに店主はふっと笑みを浮かべた。

店主はゆっくり歩きながら出入口の方に向かい、白い大きなカーテンを締めながらキュウに声を掛ける。

「キュウ様、そろそろ祠に向かいましょう。」

「む?もう夕餉の時間か?」

「はい。二階から油揚げを取ってきますね。」

「では、先に祠に帰るとしよう。」

嬉しそうにぴょこぴょこと跳ねながら祠に向かうキュウを見送ってから、店主は階段を上り、自室へと繋がるガラス戸を開ける。

少し急な階段を上り自室に着くと、本が日に焼けないようにカーテンを常に閉めて生活しているからか、夕方になると部屋が暗くなっている為スイッチを手探りで探す。

パチリと電気が着く前に動き出したからか、店に置けない分の本を部屋に置いている為、山積みになっている本の一角に足をぶつけた。

親指を押えながら痛みに耐えていると、三冊程本がバラバラと落ちてきたが、表紙や頁が折れていない事を確認してホッとしていると電気が着いた。

店主は眩しさに何度も瞬きを繰り返す。

目が慣れた頃に、右手にある小さな冷蔵庫から油揚げを二枚取り出し小皿に入れる。

さて、と膝に手をつき立ち上がると部屋の明かりはそのままに、少し急な階段を右手をつきながら下りてくる。

店主が革靴を履いてガラス戸を閉めると、待ちきれなかったのかキュウが階段のところに座っていた。

「キュウ様、お待たせしました。」

「おっ!お揚げじゃ〜!」

「ふふっ、さあ祠に向かいましょう。」

ぴょこぴょこと跳ねる様に階段を下りるキュウの可愛らしい姿に、自然と笑みがこぼれる。

キュウの後を追いかけるようにして歩きながら階段を下りて、出入口の扉を開けるとキュウが元気良く外に飛び出した。

キュウ曰くお揚げの舞を踊りながら祠に戻って行く。

祠に着いたのを見届けてから小皿を置くと、ハグハグと小さな咀嚼音が聞こえてきた。

「本日も、ありがとうございました。」

店主は一礼をしてから店の戸締りをして、自室に戻った店主は夕食の準備を始める。

と言っても、ひやむぎを二束茹でてそれを器に盛りつけるだけだ。

氷水で薄めた汁に浸してずるずると啜る。

美味さに目を瞑りながら食べると、今日読んだ物語が頭の中を駆け巡る。

次は食についての本を読もうか。それとも、まだ読んだことのないジャンルを探すべきか。

楽しみが増えた店主は、ウキウキしながら冷酒を一口呑んだ。

店主が次にハッとした時には布団の中にいた。

朝日が昇っており、雀が窓の外で鳴いている。

またやってしまった。ウキウキと届いたばかりの本を開封したところまでは覚えているが、その後の記憶が無い。

ふぅ…と息を吐き、テーブルを見ると食べっぱなしの食器が放置されていた。

昨夜の自分に呆れながらも、急いで片付けをしてYシャツに袖を通しネクタイを締める。

パンツを履き、お気に入りのオレンジのベストを着てジャケットを羽織り、いつも通りの服装になった所で髪型を整える。

店の白いカーテンを開けて、出入口の前には既にキュウが腰に手を当てて待っていた。

「随分遅かったのぅ。」

「すみません。…あ、みぃちゃんおはよう。」

「にゃあ」

返事をくれた三毛猫にデレデレしそうになるが、グッと堪えてキュウに向き直る。

「キュウ様、おはようございます。本日もよろしくお願いします。」

えへんと胸を張ったキュウに笑顔を見せて、海の町の古書店の一日が今日も始まった。



海の町古書店



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