第2話 ほろ苦過ぎて気づけない
急に目の前に現れた、俺の『初恋』に、一気に昔の事を思い出す。
言いたいことも聞きたいこともたくさんあるのに、何を言えば良いのか分からなくてなかなか次の言葉が出せない。
「キョーヘーっ!」
そんな俺とは対照的に、さくらが顔を輝かせて俺の胸に抱きついてくる!
さくらの髪の匂いや、柔らかい感触。
おおっ…、初恋から戻って来たばかりの健全な男子には、これはキツイ!
俺だって、この衝動に任せて全力で抱きしめたいけど、それはマズいよな…。
「さくら…。」
震えないように、さくらの肩に手を置いて呼びかけると、さくらが俺を見上げてニコッと笑う。
変わっていない、さくらの笑顔。やっと会えた。
「キョーヘー、会いたかった。やっとこの場所を見つけて、ここに来ればまた会える気がして、待ってた。」
俺に会うために、ここでピアノを弾いていたのか?
胸の奥がくすぐったくて、だんだん熱くなっていく。
でも、なんでピアノなんだ?バスケではなく…?
「あれから日本語もちゃんと勉強したの。どうかな?」
さくらの日本語は驚くほど流暢で、あの時のおかしな片言は残っていない、
頬はきれいに戻っていて、痕は残っていないようだ。
「さくら…、バスケはやめたのか?まさか、あの時の事がきっかけで?」
あの時、怖い思いをして、それがきっかけでバスケが出来なくなったのか?
不安で押しつぶされそうになる俺に、さくらが慌てて言う。
「あっ、違うよ?そういう事じゃない!バスケは大好き。…本当は次の日も、キョーヘーと一緒にバスケをしに、ここに来るつもりだった。だけど、あのあと父の都合ですぐに移動することになって、その日の夜にはもう飛行機に乗っていたの。私たちは言葉もうまく通じなくて、お互いの事をちゃんと知る前に仲良くなって、明日も会えると信じていて。だから私はキョーヘーの名前しか知らなくて、さよならを言うことも、手紙を書くこともできなかった。…あの日、来られなくて本当にごめんね。」
本当に残念そうに、泣きそうな顔で言うさくらを見て、また胸が熱くなる。
「いや、それは良いんだ。それよりも、またこうやって会えて良かった。」
あの事件の次の日から、俺は毎日さくらの事を待っていた。ケガで来られないのかな?とか、ご両親が心配して行かせてもらえないのかな?とか、いろんな理由を考えながら、今日こそは来るはずだと待ち続けた。
そのうちに中学校へ入学し、公園に向かう時間が減っていく中で、その期待は少しずつ諦めに替わり、そして、もう来ることは無いのだという失望となった。
「さくら、あの時のケガはちゃんと治った?…俺の方こそごめん。ちゃんと守ってあげられなくて。」
俺がそう言うと、さくらがニコッと笑う。この笑顔をもう一度見て、安心したいと思っていた。
「キョーヘーは、ちゃんと守ってくれたよ?だから安心したし、恐怖心が残らなかった。ありがとう。傷も何にも残ってない。」
さくらが腫れた方の頬を膨らませて見せる。こういう子供っぽいことをする所、変わってないな。
「あの時さ、俺も暴力に暴力で返そうとしてさ…、怖い思いをさせてごめん。さくらが止めてくれて良かったよ。ありがとう。」
あんな姿をさくらに見せちゃダメだよな。これもずっと後悔していた。
「キョーヘー?キョーヘーはきっと、私が止めなくても暴力はしなかったよ。私を助けるために拳を上げたけど、迷ってた。だから私の力でも止められたんだよ。それが嬉しかった。」
そう思っていてくれたんだ…。
6年分の疑問やわだかまりや後悔が少しずつ解消されて、心のつかえが取れていく。
さくらに会えてよかった。
「…ありがとう、さくら。時間が大丈夫なら少し話さない?何か飲み物買ってくるよ。」
俺がそう言うと、さくらのお腹が大きな返事をした。ははっ、これも変わってないなー。
さくらに温かいコーヒーを買ってきて、クラブハウスの休憩スペースで話すことにした。
「さくら、一緒にあんぱん食べない?」
嬉しそうな顔でぶんぶんと首を縦に振るさくらに、大福ちゃんのお店で買ったあんぱんを半分こして渡す。
米粉を使っているから、普通のパンよりもっちりしていて柔らかい。ほんのりと塩味を感じるから、これは塩あんこだな。生クリームとの相性も良いかもしれない。
「キョーヘー!このパン美味しいね!普通のパンと感触が違う!」
「これはお米の粉を使ったパンなんだよ。だから小麦のパンより少しもちもちしてる。さくらはあんこも好きだったよな?」
俺はすっかりぬるくなったコーヒーを飲みながら言う。さくらはウチの和菓子をどれも気に入っていたけど、特にあんこが好きで、コーヒーとあんこを合わせて食べるのが定番だった。
「昔もこうやって一緒に食べたよね?日本の食べ物はどれも美味しくて大好き。」
あの頃のことを鮮明に思い出す。前はさくらの表情で好き嫌いを判断してたけど、今は感想まで聞けるんだ。俺もドイツ語勉強しよう…。
「俺が作ったおにぎりも食べてたよね。梅干しとか大丈夫だった?」
ドイツだと、ザワークラウトとかが近いのかな?
「最初はビックリしたけど、慣れたら美味しくてドイツでもたまに買って食べてたよ!だけど、あの時の梅干しが美味しかったなー。」
へえ、ドイツでも買えるのか。なんかこういうのも嬉しいな。
「そういえば、どうして日本にいるの?いつまでいられる?」
旅行ならすぐに帰ってしまうかもしれない。少し前からここに来ていたみたいだしな…。
「大学の春休みで祖父と一緒に観光で来ているの。4月の初めくらいまでいる。」
なら、あと2週間くらいか?
「祖父も私も、日本で探している物があって別行動してたの。…私はもう、見つけたけどね!」
探し物?俺がキョトンとしていると、さくらが少し赤くなる。
「キョーヘーだよ。昔ここに来ていた時に泊まっていたホテルの記憶から、ここまで辿り着いた。あれから6年も経って、ここに来るのかも分からないし、私を覚えているかどうかも分からないし、今更って思われるかもしれないけど、どうしても来たかった。この日本滞在期間中に、もし会えなかったら諦めるつもりだった。」
さくらはずっと、俺を忘れないでいてくれたんだ。
俺はあのあと、新しい生活の忙しさやバスケに打ち込むことで、少しずつさくらへの想いを忘れようとしていた。
だけど、そんなことは出来なくて、結局はいつもどこかにさくらの面影を感じていた。気持ちを無理やり押し込めることで忘れたフリをしていただけだった。
さくらの事を忘れるなんて、本当は俺だってできなかったのに、さくらは行動を起こし、俺にはそれができなかった。
やっぱり俺は弱いな。
「ありがとう。俺も会えて嬉しいよ。さくらの行動力はすごいな。」
さくらはいつも軽やかに、俺よりも先へ行く。
「キョーヘー、日本にいる間また一緒に過ごせる?」
それはもちろん!
それから俺たちは、時間の許す限り一緒に過ごした。
昔と違うのは、さくらのおかげでちゃんと言葉が通じる事。
昔はバスケばかりしていたけど、今はいろんなところに出かけている事。
買い物に付き合ったり、日本食のお店でご飯を食べたり、スーパーマーケットに行ったり。
また新しいさくらの一面を見つけて、また新しい自分に気付く。
一緒にいるのが楽しくて、隣にいるのが当たり前のこの感覚が戻ってきた。
あとは、夜まで一緒にいられる事。…変な意味じゃないよ?
一日遊びまわって、最後に展望室のあるビルに来た。高い所から街を見下ろして、今まで一緒に行った場所を探す。
「あの辺りがいつものスポーツ公園かな?こうやって見ると、やっぱり夜は灯りが少ないんだな。」
「私が泊っているホテルはその公園の左側…あれ。」
2人で夜景を指差しながら眺めて、会えなかった6年間を埋めるようにたくさんの話をして過ごす。
さくらは、もうバスケをしていなかった。もちろんバスケを嫌いになったわけではない。
さくらの家は音楽の名門一家の流れを汲む一族の本家で、一族全員が音楽家。小さい時から音楽の道を目指すことが当たり前のような環境で育った。
周囲からは本家の一人娘のさくらが、当然のように音楽を目指すものだと思われていたが、さくらは違った。
さくらは10歳の時に参加したサマーキャンプで、たまたま仲良くなった友達からバスケを教えてもらい、その楽しさに衝撃を受けた。
今まで音楽にしか触れてこなかったさくらには、バスケがとても刺激的で楽しくて仕方なかった。
だけど、音楽をする上で、手をケガするわけにはいかず、さくらはスポーツをすることを許されてはいなかった。
それでもさくらは諦めず、こっそりと隠しておいたボールを使って、隙を見つけては練習していた。
日本に来て、あの公園のハーフコートを見つけて、ここでなら自分を知っている人もおらず、思いっきりバスケができると歓喜したのだそうだ。
確かに、あの時のさくらは生き生きとしていたし、とにかくバスケを楽しんでいた。…そういう事だったのか。
だけど、大学に入るとそうもいかなくなった。ケガをして授業や課題を落とすわけにもいかず、同期の学生たちと合わせて演奏をすることもある。子どもの時とは違って今は自分の行動に責任を持たなくてはいけない。そう思い、さくらは自分からバスケを封印した。
「実は、祖父だけは私がこっそりバスケをしていたことを知っていたの。だから、たまに私をバスケができるところまで遠出に連れていってくれた。音楽を愛して、音楽に真摯に向き合っている祖父だけど、私の熱意を分かってくれていた。」
ガラス張りの展望室から、キラキラと光る街の明かりを眺めながらさくらが言う。
俺はガラスに映るそんなさくらを眺めている。
「さくらはおじいさんと仲が良いんだな。」
今回の旅行もおじいさんと一緒だし。良い関係なんだな。
「実はね、祖父の探し物は”初恋の人“なの。」
「初恋の人?」
思わず『初恋』に反応してしまったけど、意外な探し物で驚いた。
「祖父は指揮者で、音楽学校を卒業した後も世界各地にいる学生時代の友人たちと集まって、一緒にチャリティーコンサートをしたり、ボランティアで福祉施設に行ってヴァイオリンの演奏をしたりしていたの。日本で子供向けのチャリティーコンサートを開いた時に出会ったのが、その初恋の人。子どもたちにお菓子を配るボランティアをしていたその方に、祖父は一目惚れをしたんだって。それから祖父は辞書で調べながら一生懸命想いを伝えて、その方と仲良くなった。祖父が日本にいる時は必ず一緒に過ごして、離れている時は手紙を送りあって、とても幸せに過ごした。1年が過ぎた頃、祖父は曽祖父にその方と結婚したいと申し出た。だけど、厳しい家だからそれは認めてもらえなかったの。曽祖父は、音楽界の中でもっと家の力を強くするために、祖父に音楽界の有力者の娘と結婚するように命じた。一方で、彼女の方も実家を継ぐためにお見合いをさせられていたの。2人とももちろん抵抗したのだけれど、今よりもずっと厳しい時代で結局は逆らえなかった。2人はその間も手紙を送り続けたのだけど、突然返事が届かなくなった。手紙は、祖父が読む前に家のものに捨てられていた。それに気付いた祖父は慌てて日本に行ったのだけど、手紙を送っていた住所にはもう誰も住んでいなかった。」
家と時代に引き離された2人。それはどれだけ辛かっただろう。
「お互いにあまり家の話はしなかった。ウチは厳しい家だったし、祖父は名家だということは伏せて、ありのままの自分を見てほしかったから。でも、たった一つの手がかりを失って、行方が分からなくなってしまった。」
俺とさくらが離れた時に似ているな。明日もまた会えるという根拠のない自信があったから。
「今回は、見つかりそうなの?」
これだけ何十年経ってもまだ探し続けてるんだ。見つかって欲しい。
「それがね、日本に来てからテレビで見たニュースで何かを見つけたみたい!その手掛かりで今回こそは会えそうだってすごく張り切ってる。」
「へー!それは楽しみだね!こっちの事なら、何か手伝えそうなら手伝うよ。」
さくらも嬉しそうにしている。見つけてあげたいよな。
「祖父は厳しい家の中で、自分の好きなものを諦めるしかなかった。だから、私にはたった一つの好きなことくらいやらせてあげたいって協力してくれたの。」
「そっか。じゃあ、俺はラッキーだったな。さくらがバスケをやめる前に出会えて。俺もずっとバスケを続けててさ、中学校でも高校でもキャプテンだったんだよ?これもさくらのおかげ!」
おじいさんに感謝だな!さくらと出会うきっかけをくれて、本当にラッキーだった。
俺がバスケを続けていたことを伝えると、不意にさくらの表情が曇り、何かを言いたそうに俺を見る。
「どうしたの?」
さくらのこの表情の意味が分からず俺が聞くと、さくらは絞り出すような声で答えた。
「私ね、お見合いするの。」
…6年振りのさくらとの再会は、もう一度好きだと気づく時間さえ与えてくれない。
「大福ちゃん、おーはよ!」
次の日の朝、俺はまた大福ちゃんの働くパン屋さんに来ていた。
さくらがまたあのパンが食べたいと言っていたから買いに来たけど、今日もあるかな?
「あっ、今井先輩!また来てくれたんですね!」
「お?恭平も来たのか。」
ショーケースにサンドイッチを並べている大福ちゃんと一緒にいたのは、なんと柳だ。
「おー!柳!お前さ、小学校の卒業後にスポーツ公園で俺を助けてくれたこと覚えてる?」
俺が聞くと、柳がとんでもないことを言う。
「あー、あの恭平の初恋事件な。あの時の大学生は、警察が追っていた恐喝・暴行を繰り返していたグループで…」
えっ!
「えっ⁉初恋ですか?」
大福ちゃんが俺より早く反応する。
「や、柳!俺、そんなこと言ったか?」
「いや、見てれば分かるだろ?しばらく落ち込んでいたと思えば、中学に入った途端バスケに必死に打ち込んで、もともと明るい奴ではあったけど、それ以上にチャラけて人との距離を保つようになって…。で、どうした?」
柳に分析されちゃったよ…。本当に人の事を良く見てるんだよなー。
「あの時の子に会えたんだよ。実はさ、大福ちゃんが言ってた金髪のピアノ少女が、俺の知り合いだったんだよね。」
大福ちゃんの目がキラキラしている。
「えーっ!話題の彼女が、今井先輩の初恋の人だったなんて…運命的ですね!」
大福ちゃんはこういう話、好きだよなー…。
「あの子に会えたのか?へー!それは運命だったな。今度こそ離れるなよ。」
もー!だからさー!
「初恋は…認める。だけど、6年も前の事だしね。とっくに終わってたよ!」
昨日は頭が真っ白になり、あまり気の利いたことが言えなかった。
“お見合いの相手が、素敵な人だと良いね。”
それだけ言って、何となくその話は終わった。
「向こうは、お見合いするんだってさ。」
俺がそう言うと、柳は俺をじっと見る。
「お前はそれで良いのか?」
良いのかって言われても…。
「さくらが決めたことだから。俺が何か言う権利…無いよ。」
「…そうか。」
柳はそれ以上何も言わなかった。
大福ちゃんがなんだか泣きそうな顔をしていた。
今日はスポーツ公園のクラブハウスで、改めてさくらのピアノを聞かせてもらうことになった。
さくらは午後から用事があるみたいだから、それならばピアノを聞かせてもらう前に朝ご飯を一緒に食べようと誘って、大福ちゃんのお店で、さくらが喜びそうなパンをいろいろ買って、コーヒーも用意した。
やっぱりここは思い出の場所だし、なんだか落ち着く。
「キョーヘー!こっちのも美味しい!なんだか懐かしい味がするよ!」
さくらが食べているのは、米粉あんぱんの新商品で、中身のあんこは桜あんだ。
白いこしあんに塩漬けにした桜の葉っぱが練りこまれている。
「それは…前に桜餅を食べたのを覚えてる?桜餅に巻いてあった葉っぱと同じものがこのあんこに練りこまれてるんだよ。」
俺がそう言うと、さくらはパッと明るくなる。
「桜餅!もちろん覚えてるよ。自分の名前と同じ和菓子だから、初めてキョーヘーに教えてもらった時、すごく嬉しかった。」
良かった。あの時の俺の説明は何となく通じていたんだな。
「俺さ、さくらに会うまではコーヒーとあんこを合わせて食べたことが無かったんだけど、これが意外と合うんだよなー。とくにこれはパンだからすごく合う。」
2人でいたからこそ見つけた新しい味。こういうのも良い。
食べ終わると、早速さくらがピアノを弾いてくれる。俺はピアノの近くに立ち、さくらがピアノを弾いている所を見ながら聞いていた。
聞いたことがあるけど曲名が分からない曲や、初めて聞く曲を、さくらは続けて弾いていく。
楽しそうに、歌うように、さくらの指がなめらかに動いて、キレイな音が繋がっていく。ピアノを弾いている時のさくらは、スイッチが入ったように真剣で、さくらが音楽を好きなのが伝わってくるようだ。
さくらの音にだけ集中して、さくらの事だけ見ているこの時間は、とても特別で心地良い。さくらの指先が、揺れる髪の動きが、歌うような唇が、今日はとても大人っぽく見える。
最後の曲は、この前と同じ、ドビュッシーの「月の光」だった。何だかこの曲を聞いていると、あの日の夜を思い出す。
「キョーヘー、聞いてくれてありがとう。」
全部の曲を弾き終わると、さくらは緊張から放たれてホッとしたようだった。
「すごく良かった。こんなに近くでピアノの演奏を聴く機会って無いし、ピアノの音って良いなって思った。ピアノを弾いてるさくらもカッコいいし!ありがとう、さくら。」
そう言うと、さくらが少し得意そうに笑う。
「そう?カッコ良かった?やったー!」
さっきのピアノを弾いていたさくらとは、まるで別人だ。
「俺さ、あんまり曲名が分からないんだけど、最後の曲だけは知ってるよ。キレイな曲だよなー。」
美しくて、少し悲しく感じるのは、俺のあの時の気持ちと重なるからだろうか?
「月の光ね…、この曲を弾くとあの最後の夜を思い出す。キョーヘーに何も残せずに、あっという間に空港について、飛行機に向かうボーディングブリッジから見た月が、私にはキョーヘーに見えた。キョーヘーはいつもとても眩しくて、辺りを明るくしてくれるのに、キョーヘー自身は少し寂しそうにも見えて、あの日の月と同じだったから。」
さくらも、俺と同じ月を見てたのか。
俺が少し寂しそうに見えていたのなら、それはきっと母の事があったからだ。
もともと少し体が弱かった母は、さくらと出会うちょうど1年前の、例年より少し冷え込んだ3月の初めに過労で心臓に負担がかかり倒れた。
母は餅菓子の得意な和菓子職人で、3月は桜餅を作るために張り切っていたのだけど、安静が必要でしばらく休養することになった。母の作る桜餅は、色味やシルエットにもこだわった可愛らしい形と、優しくて上品な味が人気で、毎年、母の桜餅を楽しみにしているお得意様も多かった。
代わりに餅菓子を担当することになったのは祖母で、母の餅菓子の技術は祖母から引き継がれたものだった。祖母はウチの和菓子屋の店主で、現役の和菓子職人でもある。母に餅菓子を任せてからは、ずっと干菓子作りに専念していた。
俺と、4つ上の姉の美月は、よく母から和菓子作りを教えてもらった。それは唯一、母とゆっくり過ごせる時間であり、和菓子作りは楽しかった。
教えてもらったことを何回か練習するだけで難なくこなしていく美月とは違い、俺は全然うまく出来ない。
和菓子が好きだから、上手く作れるようになりたいし、母に褒められたい。
だけど、どうしても思い通りにならない。俺が作った和菓子は、なぜかいつもボテッとした仕上がりになってしまう。
姉の美月が言うには、俺は慎重すぎて、逆に和菓子をダメにしてしまうんだとか。 それってそういう事なんだ?
母はいつも和菓子作りの基本的な技術だけ教えてくれて、あとは俺たちの好きなように作ってみなさいと言う。
そして、美月の作るキレイな和菓子も、俺が作った不格好な和菓子も、どちらも好きだと言ってくれた。
俺たちは暗黙の了解で、大人になればこの店を継いでいくことになる。だから、俺は少し焦っていた。
美月はこのままどんどん腕を上げて、立派な和菓子職人になるだろう。だけど俺はどうだ?
母が倒れた後、そんな不安が強くなっていたある日、今日は体調が良いからと、久しぶりに母が俺たち2人に和菓子作りを教えてくれた。なのに、その日はいつも以上にうまく出来なくて、和菓子作りが辛いと、初めて思った。
その日の夜、母が俺の事を自分の部屋に呼んでくれた。
そして、俺の手を取って言う。
「恭平は本当に和菓子が好きなんだね。でもうまく出来ないから悩んでる?」
俺は素直に頷いた。
「好きなのにうまく出来ないと悲しいけど、焦ること無いよ?今はまだ出来ないだけ。だけど、和菓子の世界は厳しいから、自分の望むレベルに到達するにはすごく長く時間が掛かるかもしれない。それを恭平がどう考えるかなんだけど、お母さんは恭平が本当にしたいことをするのが良いと思う。どんなに苦しくても、和菓子職人になりたくて、その苦しみも楽しめるようになるならそれも良し。でも辛いだけになるなら、違う道もあると思う。恭平は優しいから、家の為に和菓子職人にならなきゃいけないと思っているかもしれないけど、お母さんは恭平には和菓子作りを楽しんでいて欲しい。和菓子に関わる仕事をしたいのなら、職人以外にも方法はある。だからまずは、恭平は恭平の得意なことを伸ばしてみるのはどうかな?」
母は、俺が辛いと思っていたことに気付いていたんだ。
「恭平のこの手には、まだまだ無限の可能性がある。美月にも恭平にも申し訳なかったけど、2人には和菓子以外の世界に触れる機会が少なかった。その中で、たまたま美月は和菓子作りに向いていたから良かっただけ。でも恭平にはもっと違う可能性があるし、その時間もある。だから、焦らなくて大丈夫だよ。」
母は俺に期待していないわけじゃない。だけど、俺の生き方を自分で決めるチャンスをくれたんだ。そんなこと、自分で考えた事は無かった。
「恭平、この手を大事にしてね。それは、絶対にケガをしてはいけないってことじゃないよ?自分が本当にやりたい事の為に使って、自分の手に心を配るという事。ケガをした時は放っておかずにすぐに治療して、乾燥している時は保湿をして、いつでもきれいに爪を整えて。そうやって手を大事にしていれば、この手は必ず恭平の心が本当に望むものを掴み取ってくれるから。」
そう言って、俺の手を両手で包み込んで母は微笑んだ。
それが、俺が母とゆっくり過ごす最後の時間だった。
俺の心が、本当に望むものか…。
「ねえ、さくら。お見合いっていつするの?」
聞いてどうするんだ?そう思うのに、勝手に言葉が出た。
「…明日。今、私が宿泊してるホテルのレストランで、祖父とお相手のご両親も含めて一緒にお食事をすることになってる。」
お見合いって、もちろんしたこと無いけど、やっぱり最後は2人きりの時間を過ごすんだよな?
「お相手は、どんな人?」
こんな事、俺が聞くようなことじゃないのかも…、でもモヤモヤする。
「そのホテルグループのご子息で、ドイツにも系列のホテルがあるの。祖父も父もよく利用していて、その繋がりで今回向こうのお父様からうちの父にこのお見合い話がきたみたい。」
さくらが泊っているホテルは、誰もが知っている老舗の高級ホテルブランドだ。そこの御曹司なら、さくらの家柄的にも、さくら自身にとっても申し分ないよな。
俺とは全然、世界が違う。
「そっか。それならひとまず安心したよ。あとは会ってみて、気の合う人だったら最高だなー!」
自分で聞いておきながら、勝手にショックを受けている。情けないよな。
自分がどんな顔をしているのか分からなくて、窓の外を見るふりをしてさくらに背を向けた。
大丈夫。俺のこの胸の痛みは、初恋の思い出を引きずっているだけなんだ。
今の俺たちは、6年前の俺たちとは違う、新しい関係のハズだ。
今なら、まだ大丈夫。
自分の気持ちを整えて、思い切って振り向くと、一瞬、さくらが泣いているように見えた。
…さくら?
だけど、さくらはすぐにいつもの笑顔に戻り、何も答えなかった。
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