魔都エル・マ・グリス――


 北の大国にして魔道の宗主たるアグリスの王都は、その夜、やわらかな雪におおわれていた。

 街の中心で、すべてを睥睨へいげいするかのようにそびえ立つ、巨大な水晶柱〈オルテス・クムリア〉。

 夜闇の中にあってなお星々や月の光でおぼろげに輝く鏡のようなその表面を、撫でるように降りしきる雪は、夜半をすぎてから降りはじめたものであって。


 街道に積もったそれを、ふみ散らかす者は、まだ無く。


 空には半月。

 きれぎれの雲のあいだから覗く月は、冷たい透きとおった空気の中、まるで御伽噺おとぎばなしの挿絵のようにくっきりとした姿を漆黒の空に浮かび上がらせている。


 それは穏やかで平穏な、いつもの雪の夜の光景であるはずだった。


 けれど――その静寂を破るかのように、一台の馬車が街道をゆく。


 2頭立ての4輪馬車。


 深い褐色かっしょくを基調として、金の装飾で縁取られた意匠は、あきらかに高貴な者が乗るにふさわしい代物。

 けれども、その車体のどこにも、持ち主を示す紋章のひとつすら見当たらない。

 おおよそ馬車と分類されるものの中でもけっして小さくはない“それ”が、雪をはね散らしながら疾走する。


 周囲には馬車を守るかのように、5騎の騎兵が並走していた。

 アグリス正規軍のものではないが一揃いの鎧兜に身を包んだ姿は、まぎれもなく騎士のもの。

 馬車と同じく、今は所属を示す紋章のひとつも見当たらない。

 本来ならば胸に黄金の獅子の紋章を抱いたサーコートを鎧の上にまとう彼らは、王都防衛軍の騎士たち。


 その彼らが守る馬車が、エル・マ・グリスの王城から東門へと向かう大通りを駆けてゆく。


 いままさに積もったばかりの、無垢な雪におおわれた石畳に、ひとすじの乱れたわだちを残しながら。


 豪奢なその作りと、左右をはさむように並走する騎兵の護衛たちを見れば、馬車が乗せているのは相応に高い立場の者だと知れる。

 にもかかわらず、高貴ななりに相応しからぬ慌ただしさで駆けてゆくのは、いかなる脅威が迫っているからなのか。

 その後方にひろがる大通りの闇に目を向けたところで、追ってくるものの姿などない――


 ――否。


 闇の中、降りつもった雪が月明かりを反射してぼんやりと輝く家々の屋根。


 そこを足場にして跳ねてくるものたちがいる。


 ひと蹴りで5棟10棟の建物をとび越えて、月夜を背後に迫る影は3つ。


 ひとつは太く、ひとつは重く、ひとつは華奢な影たち。


 その目元に血色の光を宿しながら襲いくる、人ならざる者ども。


 邪悪なるその脅威が、馬車へと迫る。


 馬車の大きさは控えめではあれども、それを牽引する馬は2頭だけ。

 加えて、速さではなく乗り心地と豪華さをもとめた貴族用の代物ではある、とはいえ。


 全力で駆ける馬車の速度に徒歩かちの人間が追いつけるものではない。

 けれども、追いすがる者どもの速度は――屋根を踏み台に跳ねるその脚は、見る間に馬車との距離をつめてゆく。


 そして――


 最初にとどいたのは太い影。

 集団からやや遅れていた護衛の騎馬に接近すると、そのの一撃をみまう。


「――逃げんなよ、しゃらくせえぇぇ!!」


 太い影――と見えたものは、異様に隆起した上半身。


 黒光りする毛におおわれた腕の先には、まるでナイフのような太い爪がそなえられていて。

 その腕を見る限り、“熊”の一種であろうか。

 けれどもその獣には、人語を口にするなどという生態は知られていない――


 などと、思考を走らせる間もなく。


 ――パキン


 思いのほか軽い音とともに、騎兵の上半身が消失した。


 馬にまたがった腰から下だけを残して、まるでそこだけがえぐり取られたかのように。

 尋常ならざる膂力にはじかれ、鎧ごと爆ぜて散った。


 その威力、その脅威。


 まさに常人では対処しかねる怪異そのもの。


 恐怖すべきその事実に、護衛の騎士たちは恐慌し、ただ逃げまどう――はずだった。


 ――けれど。


 けれど、怪異は追う側のみにあらず。


「……行け。お前たちは前に」


 惨劇を横目に、騎兵のうちの一人がそう声を発する。

 凄惨な光景に一瞬われを忘れていた護衛たちが、その声に応じて視線を転じ、馬車に並ぶべく速度を上げる。


 けれど、それを許す襲撃者ではなかった。


「はっ、逃がすかよ!」


 騎兵をひとりほふったその足で、熊の腕をもつ影は疾走を開始する。

 今度は屋根を跳ぶことなく、雪の積もった石畳を駆ける、その速さは果たして人のものでありえるのか。


 見よ、熊のごとき腕を備えた上半身を支える、その脚を。


 それは、アグリス南方スレイズ山脈の麓に生息する銀狼の脚。

 吹雪のように美しく、速く、そして容易くあらゆるものを屠る、恐るべき銀狼ハイレディン

 深く積もった雪の上を、峻嶮しゅんけんな山肌を、ものともせずに駆け抜けるその駿脚。


 そして先ほど騎兵の一人を屠った腕は、アグリス西端モルベア山脈に生息するジャルバダの剛腕。

 全長が8エフレメを超える巨大な熊の1種であるそれは、通称“鬼熊”と呼ばれ、その名のとおり異常なまでの膂力りょりょくを誇る。

 生息地の近隣では、砦の分厚い城壁をその腕の一撃で打ち砕いたという話が、まことしやかに語られている怪物。


 それらを繋げる胴体と頭は、まるで脂肪を極限まで落としたような、筋肉と皮と骨だけの痩せぎすの人間の男のものであった。

 同じく人間のものであるはずのその眼は、まるで手足の獣性が宿ったかのように、飢えた獣のような殺意で護衛達を睨み据える。


 すなわち、熊の腕に狼の脚を備えた人間という異形。


 その常軌を逸した脅威が、護衛騎馬たちに迫る。


 騎士の上半身を鎧ごと粉砕する凶腕が、今まさに振るわれんとした――


 その、刹那。


 ――ギイィィン!!


 金属が打ちあう固い音が、夜の街道に響きわたる。


 馬車の横につこうとした、騎馬の一人の背中をねらった一撃。


 防御不可能に思われた必殺の爪。


 ――それが、止められていた。


「何、だと……てめえ……」


「………」


 呻く異形。その鋭い爪をふせいだのは、武骨なこしらえの両手剣。


 先端が直角に断ち切られたような平たい刀身は、もはやただの分厚い鉄板であった。

 相応の厚さを持つ刃は、断ち切るよりも押し潰すための代物であろう。

 黒光りするその刀身は、光を反射してなお闇に染められたように昏く、黒く。


 それを――柄まで加えれば、それを持つ当人の身長ほどの長さがある剛剣を片手でたずさえて。


 人外の膂力をほこる人狼熊の一撃を止めたのは、さきほど指示を出した護衛の一人。


 防具にもなる黒く分厚い外套を纏い、濃い褐色の手袋にブーツを嵌め、それをさらに色あせた黒のマントで覆っている。

 揃いの鎧をまとった他の者とはちがい、旅人のような風采は、如何にも騎士のそれではなく。


 ――黒衣の男。


 奇妙なことに、その右目は固く閉じられていて。


 ただ乱雑に伸ばした髪の隙間から覗く褐色の隻眼が、闇の中で鋭くきらめいた。


「……やはり教団の〈血蝕者けっしょくしゃ〉か……」


「はぁん?……だったら、なんだ?」


「ならば……遠慮なく、殺す」


「―――」


 直後、跳びすさった半獣人の反応はさすがというべきか。


 けれど黒衣の男が放った剣閃は、得物の鈍さをさし引いてもなお鋭く、黒い毛に覆われた丸太のような巨腕をなかば断ち切っていた。


「がぁっ!?」


 半獣の異形が、悲鳴をあげながら雪のふり積もった街道に赤い血を散らしてもんどりうつ。


 けれど息つく暇もなく、雪の上を転がる半獣人をとび越えて、もうひとつの影が迫る。


「――見事なり!」


 雷鳴のような声をとどろかせながら、迫るは“重い影”。


 重い、と称すほかはなかった異様な体躯。

 街灯の明かりのもと、照らし出されたその正体。


 それは鎧であった。


 ただひたすらに大きく、厚い、に彫金装飾の施された白銀の全身鎧。

 まさに小山と称するにふさわしい体躯は、身長が騎乗した黒衣の男がさらに見上げるほどで。


 視界全部を覆うほどの巨躯が、面頬の奥で血色の瞳をかがやかせながら、迫りくる。


 ――ゴオンッ!


「――!!」


 鈍い音とともに、凄まじい衝撃が雪を白い煙のように巻き上げた。


 それはまさに、刺し穿つ鋼のくさび

 馬上で騎士が構えるような突撃槍、だったもの。


 先端が半ばほどで潰れているというのに、なおも平凡な長槍ほどの長さを持つそれは、もはや槍と称するのもはばかられるほどに重く、武骨で荒々しい。

 これであればなるほど、槌のように重量で相手を押しつぶすことも容易であろう。


 けれども、そんな超重の一撃を――


 受け止めたのはやはり、先ほどと同じ黒衣の男。


「某の一撃をも……!!」


 鎧が呻いたのもなるかな。

 いくら分厚い刀身とはいえ、黒衣の男が持つそれは、全身鎧の重槍に比すればあまりにも薄い。

 縦に受けたところで、真正面からでは折れまがるのが関の山であろう。


 だというのに受けきるその技量、目をむくのも無理はない。

 だから、それが全身鎧の隙となった。


 ――チッ!


「っ!!」


 小さな金属音をたてて、黒衣の男が刃を逸らせる。


 絶妙にたもたれていた均衡きんこうがくずれ、重槍があさっての方向へすべってゆく。


 意図しないその動きに、全身鎧の重心がずれる。


 それを、黒衣の男の隻眼が見逃すはずはない。


 ――ギィンッ!!


「――ぬうっ!?」


 即座にはなたれた斬撃に、全身鎧の巨体がはじき飛ばされる。


 体格差は圧倒的、加えて重い全身鎧を着こんだ相手を、剣の一撃ではじき飛ばすとはいかなる膂力りょりょくか。

 なすすべもなく弾かれた全身鎧は、背後の闇のなかへと消える。


「?……」


 けれど、わずかに覚えた違和感に黒衣の男が眉をひそめた。


 その直後。


 狂った甲高い笑い声が、夜の闇に響きわたった。


「キャハハハハハハハハハハハ!!」


 笑う、笑う、笑う――。


 馬車の上に立った影がひとつ。


 まるで喪服のような黒いドレスに、黒いヴェールをかぶった黒づくしの女。

 どちらかといえば戦場に立つよりも、どこかの御大臣の葬儀に並ぶのが相応しいような出で立ちは、まさに死別の悲しみにくれる淑女というべきもので。


 けれどその印象を裏切るように、黒に塗りつぶされたようなその姿の中で、ただ一か所だけ血色に光る三日月状に割れた口から、気が触れたかのような哄笑をあげる。


「なんだと!?いったいどこから……」


「姫様!」


 前触れなく現れた女に、護衛の騎士たちが焦りの声をあげた。

 彼らの守りは既に抜かれて、守護すべき馬車は女の足元にある。


 まるで騎士たちの焦りをあざ笑うかのように、女は。


 その手にたずさえた巨大な黒い大鎌を、ゆっくりと振りかぶって――


 馬車の屋根にたたきつけようと――


 ――した、刹那。


「馬車を止めるな!走り続けろ!」


 黒衣の男の声が夜闇に響きわたる。


 直後、なにかが弾けるような音とともに、女の足元が発光する。


「ギャッ――!?」


 よく見ればそれは、馬車の屋根に描かれた文様が光ったものだと知れただろう。


 突然の出来事に、しかし黒衣の男の目に動揺はない。

 してみれば、それは彼が事前に仕込んでいた罠の一つなのだろう。

 遠隔起動で雷撃をはなつ、魔術の陣。


 罠にかかった女は痙攣したように動きを止めて、一瞬、けれども致命的な隙をさらす。


 そこへ。


 馬上から跳躍した黒衣の男、その手はすでに剣を振りかぶっている。


 女は慌てて大鎌を取り直すも、遅い、間に合わない。


 そのまま二つの黒い影は交錯する。


 ――ヂィイイン!


「キィアアアアアアアアアアア!!」


 鋼、弾かれる音。


 辛うじて鎌の柄で剣をそらし、女は致命傷をまぬがれる。

 けれど肩を断たれたその痛みに、ひきつった悲鳴を上げた。


 左肩。利き腕ではないとはいえ、両腕を使う大鎌が得物では不利は否めない。


 必然、相手は退くしかないはずであった。


「キヒ!キャハハハハハハハハハ!!」


「……狂っていては退き時も分からんか」


 哄笑を上げながら振り返った女は、大鎌を構えなおしていた。


 ぱっくりと裂けた左肩から血が吹き出るのを気にもとめず、大鎌を繰るその姿はまさしく狂人のそれ。

 三日月状の口元に、変わらず笑みをうかべて。

 疾走する馬車の上、黒衣の男と狂気の女は睨みあった――直後。


「――失せろ、手負いが」


 その、声は。


 何処から聞こえたか。


「――!?」


 女の背後――半獣人と大鎧が転がり去った、馬車の背後の闇の中からそれは現れた。


 するどい声に全身を緊張させた女がふり返る間もなく、その華奢な身体が真横に跳ぶ。


 否、飛ばされたのだ。

 背後から迫ってきた何者かに突きとばされて。


 そして、その何者かから突きだされた鋭い一撃が、黒衣の男に襲いかかる。


 ――ギャリン!


「っ!!」


「ふん……受けるか」


 夜の闇のなかでも鮮やかに燃え上がるような赤髪。


 その身にまとうのは、まるで闇に染められた司祭服とも評すべき、漆黒のローブ。


 神職を思わせるその風貌にそぐわず、手にした細剣の一撃は、黒衣の男をして心胆寒からしめるものであって。


 あらたな闖入者ちんにゅうしゃと黒衣の男は、剣で組みあったまま視線を交錯させる。


「……まさか、お前まで出てくるとはな、レイドリック。

 この国の王妹とはいえ、小娘ひとり殺すだけに教団の紅血卿こうけつきょうが出張ってくるなどとは、意外だった」


「勘違いするなよ。

 王女襲撃の任を俺は受けていない。俺の目的は変わらずネイアと貴様だよ。

 ……裏切り者のルーネイア・ラス、そしてマリク・オルティニア、貴様たちの粛清だけがな!」


「……ならば王女の情報、流したのは誰だ?」


「そんなもの――俺のあずかり知るところではない!」


 問答など不要と言わんばかりに、前触れなく踏みこんだレイドリックが、細剣の連撃を放つ。


 速い。

 並の剣士では、剣先を目では追えなかっただろう。


 けれど。


 ――ギャン、ギン、ギン、ギィイン!


 そのすべてを、マリクの剣は弾いてゆく。


 これほどの連撃を、見切る隻眼もさることながら。


 刀身だけでも自身の身長ほどもある肉厚の大剣を、軽い細剣と同等の速度で振るうとは、いかなる技量の賜物たまものであるのか。


 ならば当然、レイドリックは瞬く間に討ち取られるはず、だった。


 本来ならば。


 にもかかわらず。

 黒司祭――レイドリックは、マリクと互角以上の打ちあいを続けていた。


 突きをくり出すレイドリックの手。

 よく見れば、それがときおり、黒いのようなものに包まれて消える。

 そして同時にまったく別の位置から、同じようなに包まれて、消えた手の先があらわれる。


 直前の刺突の威力をそのままに、意外な方向から襲いかかる攻撃。


 物理法則などまるで無視した魔術の所業。


 それを受けきるマリクこそ、むしろ驚嘆に値しよう。


「はっ……相変わらず憎たらしいほどの腕だな、貴様は!

〈黒の道〉を使ってもなお、その鈍重な大剣だけで全て受けきるとは!」


「っ……教団は何故、彼女を求める?お前たちは彼女に、いったい何を見ている?」


「俺は知らされていない。だが、そんなこと今さら聞くまでもあるまい?

 特に、お前はその身で十分に味わっているだろうに!」


「……黙れ、レイドリック!もう、口を開くな」


「貴様の都合、通したければ力で押し通せ!

 俺たちを止めたければ、斬り伏せて見せるがいい!

 いつものことだ!それが俺たちのやり方だろう!?マリク!!」


「……口を開くなと言った!」


 交錯する咆哮。


 そして――


 ひときわ強く、両者の刃が打ち合わされた――




 ――それは例えば

 ――真っ白な画布が無ければ絵が描けぬように

 ――沈黙が無ければ音は生まれず

 ――混沌が在らねば秩序は生まれず


 ――闇の中にこそ、光は生まれ

 ――光が在れば、影が生まれる

 ――表が在れば、裏が在る

 ――例えるならこれは、そういう物語

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