第三十七話 許されぬ退路
夢を、見た。
憧れと、夢と、現実と、挫折と。
すべてが灰色の淵に堕ちていく夢を、見た。
《……はっ!?》
びくん、とぐにゃぐにゃに崩れたローブと鎧と触手の混合体が痙攣する。それはずるずると蠢いて人っぽい形をとると、ズレ落ちていた兜の位置を直した。わざとらしく周囲を見渡すように兜が左右に振られ、その拍子にまたずれたそれを籠手がねじれたまま押し上げる。
《いかんいかん、完全に寝落ちしていた。ううむ、人に見られていないよな?》
周囲を確認するが、人の気配はない。
小部屋を見渡してみても、特に変化はないようだ。ただ、青く輝いていた転移陣の光が、眠りに落ちる前と比べて大分落ち着いているように見えた。
出入口に向かい、3層の様子を確認する。
相変わらず、紫色の霧に覆われた地底湖の様子。だが、先ほどまでと比べて空間を満たしていた怪しげな光はなりを潜めているように見える。見ているうちにも霧は段々とその濃度を減じていき、うっすらと黒い湖面が揺れている様子が垣間見えるようになってきた。
あの紫の霧が迷宮の改変によって発生するものなら、それが終わりに近づいてきているのだろうか。
そうなれば、もうじき冒険者達が迷宮に入ってくるだろう。改変の後だ、変化した迷宮構造のマッピングの為に多くの冒険者が一斉に入ってくる事は想像に容易い。
《あれ、不味くない?》
そこに来て、ヌルスはこのままここで突っ立っている事の危険性に気が付いた。
“晴れの日”の時、本来人間は迷宮の中に入れない。にも拘わらず、我先にと入ってきた冒険者が、自分達よりも先に迷宮をうろついている怪しげな人影を見つけたら、疑問に思わないはずはないだろう。当然、怪しんで声をかけてくるに違いない。
ヌルスの偽装はあくまで、あり触れたみすぼらしい冒険者に偽装する事で、疑惑がかかってない状態でなら人間を騙せるだろう、という程度のものだ。最初から疑惑をもってあたられたら、到底ごまかせるようなものではない。
しばらく冒険者とは合わない方がいいだろう。だが、隠れる所が他にない。
《むぅ……》
思い返されるのは、この小部屋に逃げ込む前にみた、塞がれた隠し通路だ。本当にあの通風孔が塞がれてしまったのなら、隠し部屋にこの階層からは戻れなくなったことになる。あの異常な、幻のような世界での事だけに現実感が薄いが、ここでもし通路に戻ってみたら塞がっていました、では笑えない。最悪、冒険者に遭遇して「お前なんだ?」となりかねない。
そもそも、見たところ回廊の構造が変わってしまっている。元居た場所に戻るのは骨だろう。
《……あまり考えている余裕はなさそうだ》
ぼぅ、と迷宮の奥で松明が灯ったのを見て、ヌルスは焦りを飲み込むように呟いた。暗い回廊で、松明の光はよく見える。1層2層を最速で突破してきたのか、冒険者が松明で3層を照らし始めているのだ。あの松明の管理は冒険者にとってよい小銭稼ぎらしいが、改変後の松明点灯は恐らくボーナスでも出るのだろう。
《やむをえん、か》
懊悩を切り上げて、ヌルスは踵を返した。向かうは4層へつながる転移陣。
4層は謎の地下密林地帯だ。身を隠す場所はいくらでもある。この場につったっているよりも、あちらに移動した方がまだ有意義だろう。それに、ある懸念、というか希望的観測もあった。
《立ち止まっていても事は進まず、だ。……なんだったっけ、これ。論文の一文だったか?》
思考を過る文面に足を一瞬止めたものの、すぐに魔法陣へと手を伸ばす。たちまち、青い光がヌルスを包み込み、4層へといざなった。
体感的なタイムラグはほとんど存在しない。気が付けば、燦燦と光が降り注ぐ密林の入り口にヌルスの姿はあった。
周囲を見渡したヌルスは、予想通りの景観に人を真似て肩をすくめて見せた。残念ながら、すくめるというより肩を外したような仕草ではあったが。
《やっぱりな。道が完全に消えてる》
そう。以前4層に来た時目撃した、冒険者の踏み固めた後が綺麗に消えている。目の前に広がるのは、無節操に生い茂る草木ばかりだ。これでは、この階層の何が変わったのかさっぱりわからない。
ただ、それはそれで得られる情報はある。
ヌルスは藪に近づくと、ブーツの裏で軽くまさぐってみた。普通に踏みしめると跡が残ると判断したヌルスは、潔く人間の擬態をやめると触手の塊となってその中にもぐりこんだ。
ガサゴソと藪を蹴散らしながら奥へ進むが、足跡のような痕跡は残らない。これなら後から冒険者が来ても、魔物が出入りした痕跡だと考えるはずだ。真実、事実ではあるわけだし。
そうして十分藪の奥へと移動したヌルスは、適当な所で十分な高さのある木に目を付けると、その上へと這い昇った。螺旋を描くようにして木の上まで移動し、生い茂る葉の陰に身をひそめる。同じように樹上に潜む魔物の姿が無い事を確認して、ヌルスは高所から4層の様子を一望した。
《前回来た時は道に気を取られすぎていたな。最初からこうすればよかったんだ》
高所から見下ろすのは、やはり地上からとは情報量がまるで違う。見渡す限り草木が生い茂っている、という点は変わらないが、ただひたすらそれが広がっている訳ではない。背の高い木は出入口周辺に多く、迷宮の奥へ進むにつれて低い木が中心になっていく。そしてその奥には、何やら盛り上がった丘というか、隆起というか、崖のようなものがみえた。その周辺は、再び背の高い木による密林が形成されている。
位置関係的に、あれがこの階層の最奥だろうか?
さらに見渡すと階層中中に、点々と何もない空白の地点が存在している。泉のようなものもあるのを見咎めて、ヌルスはウェッと気分を酷く害した。
この調子では当分、水場を見る度に思い出すだろう。
《……なるほど。もしかしてこの階層の正攻法はこれか? 何はともあれ、ここなら冒険者にもそうそう見つからないだろう。しばし、ここで時間をつぶすとするか》
それに、ヌルスには考えたい事もある。
隠し部屋への出入りに利用している、通風孔のことだ。
利用可能だった通風孔は三つ。うち一つは2層に、もう一つは見知らぬ先の階層に繋がっていた。そして3層に繋がっていた通風孔は、ヌルスの目の前で塞がってしまった。となると残り二つなのだが、それらも果たして無事なのか。そもそも、こうして晴れの日が来るたびに迷宮の構造が一新するのが塞がってしまう理由なら、他の二つも塞がってしまったと考えるべきだろう。
まああの隠し部屋は出来てから相当立っているようだし、これまで3つも生きていたことのほうが驚きではあるのだろう。これまでよく繋がっていたものだ。
……普通であるならば。
《だが、そんな普通があてはまるものか、そもそも?》
緑生い茂る4層を見下ろしてヌルスは訝しむ。かつてあった道がこれからできたのだというなら、それなりの期間を経過しての事だろう。一年か、二年か。この迷宮の更新間隔はそんな感じのものだろう。それを、この迷宮は何度越えてきたのか。十年か、二十年か、それとももっとか。
それはつい最近生まれたばかりのヌルスには分からない。言いたいのは、つまり。
《それだけの年月を越えてきた隠し部屋の構造が、今回の更新を最後に完全に途絶えた……そんなタイミングの良さが、あるか?》
迷宮の中に隠し部屋を作るような存在が、それ……迷宮の更新による通風孔の崩落を考慮していない、とは思えない。ヌルスのように出入口に使う訳ではなくとも、必要だから通風孔は設けられ、そして一つだけでなく複数存在していた。
で、あるならば。
《もしかして、だが。迷宮が更新される度に繋がっている通風孔が変わる、そんな仕組みの可能性はないか?》
それならば、複数の通風孔がある事も、今回の更新で3層が繋がらなくなったのも、説明がつく。
勿論すべてヌルスの勘違いで、長い年月に耐えてきた隠し部屋が今回の更新で完全に崩壊した、という事もあり得る。管理者を失って長い年月が過ぎたのだ、そちらの方が自然でもある。
だが、それではヌルスが困る。
冒険者の出入りが落ち着けば、3層に引き返して通風孔を確認する。だがもし、見た通りにそれが塞がったままでは、隠し部屋に戻れない。そして隠し部屋に戻れなければ、早晩ヌルスは物資不足で干上がってしまう。
だが、もし。もし4層にもあの通風孔が繋がっていれば。道は続く。
それでも、4層という危険な階層を、補給無しで探索する事になる。生存確率は、ごく低いと言わざるを得ないだろう。それでも、やるしかないのなら。
《どのみち、地上に出られない魔物の私に安全地帯なんてないんだ。隠し部屋に戻れなければ、どこかで朽ちるしかない。あるか無いか、じゃない。在ると信じるしかない》
全く、理論的ではない行動指針にもほどがある。
ほどがあるが、しかし。常に答えが用意されているわけではないのが、現実というものなのだろう。
《思うように生きる、というのは中々に難しいものなのだな。冒険者よ》
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