第三十六話 幻覚回廊
ずるり、と通風孔から触手の塊が滑り落ちる。粘液を壁に残しながら床に滑り落ちたヌルスは、つづけて通風孔の奥から装備品を引っ張り出した。籠手や胴鎧、ローブがずるずると触手によって取り出される。表面を粘液でコーティングされたそれらは引っかかって破けたり壊れたりする事なく運び出され、3層の暗がりに並べられた。
いつもならさっさと装備してしまうのだが、今日は人目を気にする事はない。ヌルスは少し触手を止めて、3層の様子を観察した。
《ふむ……これが晴れの日の迷宮という訳か》
薄暗く、じめじめとした地底湖の迷宮。普段は松明でぼんやりと照らされている空間も、今は火を灯す物もいない。
だがその代わりに、空間そのものがぼんやりと明るく光っている。階層全体に紫色の霧のようなものが満たされており、それがぼんやりと発光しているように見えた。それがすさまじい濃度の魔力や魔素といったものである事は、誰に説明されずとも理解できる。
ただこの空間に佇んでいるだけで、体表から魔力がしみ込んでくるような感覚に、ヌルスはぶるりと体を震わせた。あまりの高濃度の魔力に酔いそうだ。
《魔力が満ちているというから、てっきり魔物が狂喜乱舞してるかと思ったが……》
紫色にぼんやり光る3層を見渡すが、どうにも、人どころか魔物の気配もない。いくら疑似生命体といっても、一般の魔物はフロアガーディアンのように簡単に消したり出したりされる訳ではない。姿が見えないという事は、恐らく彼らなりの隠れ家に身を潜めているのだろう。もしかすると本能的に晴れの日は冒険者がやってこない事を理解しているので、その期間は休業、という事なのかもしれない。
そのあたりは、自我に目覚めた事で逆に本能を見失ったヌルスにはよく分からない。
まあ、居ないならそれで構わない。今の所魔力には余裕があるし、積極的に戦いたいわけではない。
《考えてみればこれだけ魔力が満ちていれば一般の魔物も捕食の必要はないしな。ある意味すごく平和な期間なのか?》
慣れた様子で次々と防具を着用すると、そこには鎧の上からローブをまとった不審者の出来上がり。とはいえ、サーコートのように鎧の上から布を羽織る文化が無いわけではない。ヌルスは当然知らない事だが、そういった騎士文化を形だけまねた格好をしている自称騎士もどきも冒険者には多くいる。見た目のみすぼらしさはあれだが、動きさえなんとかなればそうそう白眼視されるものではないだろう。
最も、その動きが問題なのだが。
にゅるり、というか、ぐにょり、というか。歩くヌルスの脚の動きは、どうにもぎこちない。まるで生まれたてで首の座っていない赤子のようだ。これが人間なら、一歩歩くごとに捻挫を疑われるか、膝関節の異常を疑われるだろう。ヌルスも当然人間の関節や骨格を意識しているのだが、制御がおぼつかなくて歩く度に設定した関節の位置がずれている。人に擬態するタイプの魔物と交戦経験がある冒険者が見たら、黙って剣を鞘から引き抜くだろう、そんな有様である。
《や、やっぱ、広くて足元が安定してない場所で歩くのは、難しいなあ……》
残念ながら部屋でもこんな感じだったが、ヌルスは場所が悪いと思っているらしい。どうやら彼はこれでも、そこそこ上手く歩けていると思っているらしい。駄目である。
とはいえ、あぶなかっしいのはあくまでも人間に似ているか、という範囲での事。歩行そのものにはあぶなっかさしさはなく、平坦ではない岸辺をしっかりと踏みしめている。
《しっかし。晴れの日は迷宮の構造が変わったりすると聞いたが、どんな風に変わるんだ? 見たところ、特別変な様子はないが》
紫がかった事を覗けば、3層の様子はヌルスがよく見慣れたそれと変わらないように見える。これがどのように変化するのだろうかと、ヌルスは内心わくわくしながらいろんな可能性を考えてみた。
例えば、突然地響きを立てて回廊が変形を始めるとか、地面が隆起するとか。あるいは超巨大なモンスターが現れて、既存の階層を破壊して作り変えてしまうとか。
しかし、どちらにしろ何かしらの変化の予兆はあるはずなのに、今の所その様子はない。
迷宮によってはそう大規模に変化しないという事も本に書いてあったし、この迷宮はそういうタイプなのだろうか。
考察ともつかない妄想に意識が飛躍する。そんな時だ。
《……ん?》
違和感を覚えて、ヌルスは眼前の光景に意識を戻した。
今、思考に集中して景色から関心を失っていた一瞬。その一瞬で、何やら、目の前に広がる景色が変化してしまったような気がしたのだ。みたところ、湖に無数の回廊が張り渡されている、という基本構造は変わらないようなのだが、その形と数が何か、変わっているような気がする。いや、どんな形だったかは覚えていないのだが、何か違うきがするのだ。
《んん……?》
意識を集中して景色を観察する。ささいな変化も逃さないように注意しているヌルスの前で、しかし、再び唐突に景色が変化した。今度は注意して変化を見逃さないようにしていたので、何が起こったのかはぼんやりと分かった。だが、どうにもつかみどころのない現象に、ヌルスは困惑する。
一瞬で、目の前の景色が入れ替わったように見えたのだ。ヌルスは知らない言葉だが、コマ落とし、という表現が一番近いだろう。そして変化があまりにも一瞬すぎてかつ、受ける印象そのものは変わらないので、ぼうっと見ていると気が付けば全く違う景色に変わっていても気が付けない。
《今、一瞬世界がぶれたような……あ、あれ?!》
自分の認識が信用できなくなって、ヌルスは困惑する。まるで幻でも見せられているようだ。
《な、なんか怖くなってきたぞ。……やっぱ戻るか?》
少し、嫌な予感がしてきたヌルスは、散策をやめて部屋に戻る事にする。通風孔はすぐ後ろだ、振り返ればすぐに逃げ込める。
だが、振り返った先、確かにさっきまでつながっていた通風孔は、いつの間にか土砂ですっかり塞がっていた。
《え?》
慌てて取り付くが、勘違いでも見間違いでもない。ヌルスからすると唯一の出入口が、何故か完全に塞がれている。
《なんで?!》
混乱のあまり周囲を見渡す。気が付けばヌルスの周辺の景色は根こそぎ一変していた。
ヌルスは確かに、通風孔から出たすぐ前の湖のほとりに立っていたはずである。それが気が付けば、回廊のただなか、合流地点の真ん中に佇んでおり、見渡してみても壁は遠く離れている。そうこうしている間にも、まるで幻のように回廊は消えたり現れたり、目まぐるしく迷宮のように変化していく。
まるで悪夢を見ているようだ。あるいは、出来の悪い紙芝居か。
《な、なんかわからないけどヤバイ!!》
気が付けば自体の中心に立たされていた事にヌルスの危機感が煽られる。この階層のモンスターがどこかに引っ込んでしまったのは、これに巻き込まれないためだったのだ。
湖のほとりに戻ろうと回廊を走るが、紫色の霧の中、すべては万華鏡のように変化してはっきりとしない。急に立ち眩みのようなものを覚えて、ヌルスはその場に膝をついた。三半規管というか、上下の感覚すらおぼつかなくなってきている。
これ以上、この紫色の霧の中にいるのは危険だ。だが、走っても走っても、変化する世界に終わりが見えない。
《ど、どうすれば……そ、そうだ!!》
本の記述を思い出す。
確か、どれだけ階層の構造が変化してしまったとしても、変わらないものがあったはずだ。
《転移陣の場所……! 入口……は遠すぎるし、そもそも行った事がなかったな、そういえば。だったら出口の方へ……!》
魔術師として、魔力の流れに意識を向ける。3層はむせかえるような魔力と魔素に溢れていて、そのあまりの濃度に感覚が潰れそうだったが、そのおかげで普段であれば不可能な階層全体の魔力の流れをおおざっぱにつかむ事ができた。何やら一定の流れに従って対流しているのが感じ取れる。その流れには、大きく二つの起点があるようだ。一つは全く知らないが、もう一つには、どことなく覚えがある。転移陣に触れ、光に包まれた時のそれに似ているのだ。
他の感覚を切り捨て、魔力の流れを頼りにそちらに向かう。
流れは常に一定方向に回るのではなく、押し寄せたかと思うと、逆に引き寄せるようにも流れていく。呼吸、あるいは血液の脈動を思わせるその流れに身を任せて、先に進む。回廊は相変わらずあやふやに変化し続け、突然道が二つに分かれたり数歩先が消えてしまったりと、まるで惑わすように千々に変化する。思わず道を変えたくなる気持ちを押えながら、ヌルスは魔力の流れだけを信じて先に進んだ。
《こ、これは、なかなか……怖いな! 忍耐力を試されているようだ》
魔力の流れを追うと決めたものの、他の感覚がそろって「そちらは違うよ」と訴えかけてくるようだ。それを意図して無視し、先に進むのは本能に抗うようなひどい違和感を感じる。それでも、理性と知識を信じて先に進む。
《……見えた!》
魔力の流れが、眼前で収束している。見たところ、回廊から足を踏み外し湖へ落下するしかない、そんな虚空に、ヌルスは覚悟を決めて体を投げ出した。
途端。
すべてがぴたり、と落ち着いた。
気が付けば、ヌルスは見覚えのある小部屋の中に佇んでいた。
シンと静まり返った、激闘の後が残るフロアガーディアンの部屋。奥には、青く明滅する魔法陣。紫の霧も、万華鏡のように変化する回廊も、感覚に訴えかけてくる幻惑も、何もない。
振り返ると、入り口に渡された封鎖用の縄がゆらゆらと揺れていた。
まるで、何もなかったかのように
《…………》
ヌルスはしばし呆然としてから、部屋の隅に移動するとそこにべちゃり、と背中を預けた。必死に走ったあまりにずれてしまった兜の位置を戻しながら、一息つく。
《…………もう大人しくしておこう》
部屋の隅に座り込んで、しばしヌルスは休憩する事にした。
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