第九話 慈悲なき空間
真っ暗な地底湖の水面。泳ぐ冒険者が立てた波紋が、蝋燭の明かりをかき消すように広がっている。その波紋を切り裂いて、三角形のヒレが水面に現れていた。それはすぅっと音もなく、必死に泳ぐ冒険者に近づいていく。
そしてある程度までの距離に近づくと、とぷん、と水面下に沈んだ。
しばしの沈黙が訪れる。ばしゃばしゃと水飛沫を上げて必死に泳ぐ冒険者以外、何の姿も見えない。
が、次の瞬間。
必死に泳いでた冒険者の姿が、どぽんっ、と水面下に急に沈んだ。
数秒後、激しい水飛沫を上げて再び水面に冒険者が姿を表す。だがその体には、黒々と輝く鱗を持った細長い何かが、身動きを封じるように絡みついていた。
《あれは……蛇……いや、蛇みたいな形の魚、か?》
ヌルスのつぶやき通り、それは細長い体をもった魚型モンスターだ。ダークサーペントシャーク、と呼ばれるそれは、この地底湖の湖に潜み、落ちてくる冒険者を溺死させて捕食する。この湖の底には、これまで犠牲になった冒険者の白骨が、堆く堆積されているのだ。
今襲われている冒険者も、必死にロープ目指して泳ごうとするが、身体に巻き付かれた上に気道を圧迫されているため、徐々にその力が弱まっている。なら上に居る仲間がロープを近づけてやればいいものだが、どうやら上の方もトラブルが起きているようだ。キン、キィンという金属が噛みならされる音と共に、人影がちょろちょろ動き回っている。まあそういう階層なのだから、上と下で冒険者を仕留める為に連携しているのはおかしくはない。
さて。
それを見て、ヌルスはどうすればいいのか。
本来であれば、このまま経過を見守るのが吉だ。ヌルスの立場としては他のモンスターにも人にも見つかりたくはない。冒険者に、人に興味があり観察したい一方で、あちらからは敵視されている。迂闊に関わるのはよろしくない。
だが……。
《ううーん》
ヌルスの触手の先端が、無意識にフラフラと左右に揺れる。
『ダンジョンの仕組み』を読んだ事で、彼は冒険者側の事情を知ってしまった。それに、いまにも湖に沈められようとしている、絶息寸前の状態でも意思の光を絶やす事無く、必死に抗っている冒険者の姿。それを見て、触手はおっかない方の冒険者に死ぬほど追い回されていた自分を重ねてしまった。
ぴたり、と。揺れる触手が動きを止めた。
《……まあ、いいか。別にモンスター同士、仲間って訳でもないし》
しゅるり、と風呂敷を解く。粘液のしみ込んだ風呂敷からは、油紙に包まれたガーネットの宝石と、新品のスクロールが転がり出た。ガーネットは魔術の触媒で、スクロールは未契約の魔術式が刻まれている。契約には人間の場合生き血が必要なのだが、厳密には個人情報が採取可能な体液であればなんでもいいらしい。触手型モンスターであるヌルスの場合、粘液をこすりつければそれで契約完了だ。実にお手軽である。
ガーネットの触媒とスクロールを、枝分かれして生えている細い触手で保持しつつ、残った触手をねちょり、と絡み合わせる。ここからが勝負だ。ヌルスは練習した通りに、細かく触手を激しくこすり合わせた。
《上手くいってくれよ……》
「……ル、ルル……ヴァ……ベ……」
こすり合わせた触手の間から、掠れた声のような音が鳴る。
……論文には、人間以外の様々な魔術を使う存在について書かれていた。迷宮のモンスターは勿論、迷宮の外に住むまっとうな生き物、あるいは奇妙な偶然で魔術を発動するようになった地形そのものまで、その類例は多岐にわたった。
その中で一番多いのが、何かしらの器官を擦り合わせ、魔術詠唱の代わりの音を出している、というものだった。例えば昆虫とかいう外骨格生物の中には、羽の付け根を擦り合わせて歌うように魔術を発動させる者がいるのだという。他にも、指を鳴らし、その音で魔術を発動させる変わり者の魔術師も人間にはいるそうで、とにかく音を鳴らす、というのは一種の原始的な魔術詠唱であるのだという。
それを読んで、ヌルスも触手を擦り合わせて何とかできないか練習してみたのだ。そして苦心の果てに、もっとも原始的な、基本中の基本である魔術言語……らしき音を発声させる事ができるようになった。
とはいえ、実戦は初めてだ。いくらなんでも部屋の中で魔術を発動させる訳にもいかない。
頼むから成功してくれ。願いを込めて、触手を震わせ音を絞り出す。
「ル……α……γ……β……」
出来た! ヌルスが喜びに触手を振り上げるのと同時に、魔術が発動する。キーワードによって起動した魔術式は、ヌルスの肉体を通して触媒と接続する。触媒が魔力を生み出し、魔術式によってこの世界の法則に変換される。
炎の矢(ファイアボルト)。
闇を切り裂いて、小さな炎のが鋭くねじ込まれるように飛翔する。一点に収束したその一撃は、冒険者を襲うサーペントシャークの鱗を打ち抜き、その身を焼いた。致命には遠いが、それでも肉体を超高温で焼かれたのだ。どれほどの苦痛かは察して余りある。
それによって、冒険者を締め上げる拘束が緩む。その隙を逃さず、冒険者は魔物を振りほどいてロープに手を伸ばした。
「げほっ、えほ……っ! 引き上げてくれ!」
数秒おくれて、ロープがよたよたと引き上げられる。冒険者が顔を見上げると、回廊の上で仲間がボロボロの恰好でロープを引き上げているのが見て取れた。兜が外れて、傍らには欠けた剣が突き立てられている。あちらもなかなか大変だったようだ。
窮地を乗り切った安堵に、冒険者はふぅ、と息を吐く。そして、その視線は自然と地底湖へと向けられた。
命の危機を前に視野が狭くなっていたが、誰かが助けてくれたのは流石に理解している。しかし、いったい誰が?
救い主を求めて周囲を見渡すが、それらしき人影は見えない。一つ、湖の湖畔でなにやらわちゃわちゃと悶えている触手型モンスターが目に入ったが、いやはや、いくらなんでもあれが魔術を放って助けてくれた、とか、ありえない。
どうやら、助けてくれた人物は姿を消してしまったようだ。シャイな人なのかな、と冒険者は独り納得した。
「おい、いつまでぼうっとぶら下がってるんだよ」
「ああ、悪い悪い」
仲間に怒られて、冒険者はつかまるロープを手繰るように、自ら昇り始めた。回廊に戻って仲間と顔を合わせて、互いに助かった事を笑って喜び合う頃には、触手型モンスターの事など頭から消え去っていた。
<作者からのコメント>
nekokanrxさん、レビューありがとうございます!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます