第八話 迷宮の地底湖
隠し部屋を見つけ、魔術の習得を目指してから数日後。
準備を整えたヌルスは、隠し部屋の換気口を前にしてどうするか悩んでいた。
ヌルスの体には、魔術の触媒と、魔術式が刻まれたスクロールを包んだ風呂敷が巻き付けられている。ちょっと粘液でじっとり湿っているが、中身は油紙で保護しているから汚れたりはしない……はずである。
とにかく、触手が今悩んでいるのは、どの通路を通ればいいのかという事である。
《そもそも、私がここに来た時のはどれだったか……》
うーん、と悩むネルス。そもそもここにたどり着いた時は命からがら、這う這うの体、といった有様だったのであまりあとの事を考えてなかった。
まあ、とはいえ別に必ず元の場所に戻らなければならない訳ではない。むしろヌルスが最初いた階層は、隠れる場所が少なかったので無理に戻っても同じことを繰り返すだけだ。
とはいえ、他の階層の構造を触手は知らない。さらにいえば、そもそも自分が生まれたのが何階層なのかもよく分からないのだ。ただ、灯があった事で、比較的浅い階層である事は想定が付く。
迷宮内の明かりの確保は、冒険者にとって重要な要素だ。故に、彼らを管理する冒険者ギルドが蝋燭の管理をサブクエストとして発行する事があるという。まだ駆け出しの冒険者にはよい小遣い稼ぎであるが、必ずしも迷宮内で思うように動けるとは限らない。つまり、灯が安定しているというのはそれだけ依頼を受けて蝋燭を管理する人間が多いという事であり、人の出入りが多いという事はそう難易度が高い階層ではないという事だ。全部、本の受け売りだが。
《空気の流れを感じる通路は……三つか》
繊細な感覚を持つ触手で、空気の流れを確かめる。換気口はいくつかあるが、その全てが通じている訳ではないようだ。
崩落したか、別の事情か。三つの空気の流れを確認し、ヌルスはしばし悩んだ。
《一つは……やめた方がいいだろうな。魔素がやたらと濃く感じる》
モンスターであるヌルスだからわかる感覚の一つ、魔素の濃さ。換気口から流れてくる僅かな風でもはっきりとわかるほど魔素が含まれているとなると、大本はどんな事になっているのか。どう考えても深い階層に繋がっているのは明らかで、そんなとこにいったら命が無いのは言うまでもない。なので必然、他の二つが候補になるのだが、そちらはそちらで決め手に欠けているのが実情だ。
《どっちも似たような気配を感じるんだよな》
つまり二分の一の確率で元の階層に戻る、である。
しばし悩んだ末に、ヌルスはもう天運にまかせることにした。当てずっぽうともいう。
《不安はあるが、元の階層に戻るのも新しい所に出るのも、それぞれメリットとデメリットがある。悩んでも仕方ない》
勿論、隠し部屋にずっといるという選択肢もある。が、それは他の選択肢と比べても下策だ。
この隠し部屋は、ダンジョンの外ではない、というだけで、大分魔素も魔力も薄い。迷宮の中にいるよりも、急速に活動魔力資源が削れていくのがわかる。ここにずっといても、緩慢に死にゆくだけだ。
それに何より、ヌルスは死にたくない。それは冒険者やモンスターに殺される、というだけではない。いつの日か、冒険者が迷宮を攻略する日が来るだろう。そうなったら、例えずっとこの部屋にいる事が出来たとしても、ヌルスは確実に死に至る。そうならない為に、迷宮の外でも生きている手段を探さなければならない。
そんなものがあるかはわからないが、探さなければ可能性はゼロだ。
覚悟を決めて、換気口に潜り込む。荷物を背負っていても通るには十分な広さがある穴の中を這いずって出口を目指す。流石に二度目という事もあって、ハイペースで道中は進んだ。
《これは……あたりかな。道に覚えがない。それに、元居た階層より深い所だな。魔力と魔素が濃い》
元居た階層に繋がっていたのと違って、まっすぐに伸びるトンネルを這い進んだヌルスは、やがて出入口にたどり着いた。慎重には慎重を期して、細く伸ばした感覚触手を、そーっと外に出して周囲を伺う。
……周囲はいささか薄暗い。冒険者達の設置する蝋燭が、遠いか数が少ないか、だ。天井は高いようで、時折響くカツン、という音が遠く響いている。湿気は高く、どうやらじめじめしているようだ。
周囲に徘徊モンスターも、冒険者の気配もない。
安全を確認できたと判断したヌルスは、ゆっくり穴から這い出て周囲を見渡した。
《なるほど……ここは地下洞窟のようなエリアなのか。いや、それにしては天井が高いな》
剥き出しの、しかしどこかツルツルとした岩場が広がる、天上の高いドーム状の空間。それが、ヌルスが今いる階層の光景だった。迷路のように複雑に通路が存在するというより、広いドームの中に足場が無数に入り乱れている、といった構造のようだ。見上げると、壁のように高くせり上がった足場のようなものが交差しているのが見えた。蝋燭の明かりはそちらの方に多く存在し、ちらほらと動く人影のようなものが見える。どうやら主戦場は足場の上で、今ヌルスが居るのは地の底、という事らしい。見上げていると、遠く天井から振ってきた滴がヌルスの肌に落ちてきて肌を濡らした。
《ふーん。見た所、地底の空中回廊、みたいなエリアなのか。あっちが主戦場で、ここはハズレ、ドジった奴が落ちてくる場所なのか? それだったら、モンスターも少ないかもしれないな》
初見の感想はそんな所だ。勿論、この階層の事をよくわかっていない状態だ、油断はしない。周囲に警戒しつつ、ヌルスはどこか広い場所がないかと探索を開始した。
周囲は暗いが、光源の有無はヌルスには関係ない。潜んでいる待ち伏せ型のモンスターがいないか、ぺたぺたと床を触手の先で叩くようにして気配を探りながら、少しずつ探索範囲を広げていく。
《ふむ? 構造的に、落ちてきた冒険者を狙うモンスターが居るもんだと思ったが、その気配はないな。何か見落としがあるのか……おや》
ある程度進んだところで、ヌルスは動きを止めた。
陸地が不意に途切れている。その先には、何やら透明な液体が満たされている。みれば、足場があるのはここまでで、ここから先は湖のように水が満たされていた。その中を、先ほどの回廊が変わらず聳え立っている。揺れる水面に、回廊に設置された蝋燭の明かりが揺らめいて、なんとも幻想的な光景だ。視覚に頼らず別の感覚で世界を見ているヌルスにはそういった視覚的な美しさは分からないが、何か不思議と心を騒がせる感覚を覚えて、しばしその光景に見入っていた。
《地底空間ではなく地底湖だったか。となると、水に落ちないように高所を移動する、といった階層なのか、ここは》
そうなると、恐らくここのモンスターの大半は……。
ヌルスは後退り、水からちょっと距離を置いた。
あとは、何か確認するよい方法があればいいのだが。周囲を見渡していたヌルスだったが、不意に上層部から悲鳴のような声が聞こえた気がして、そちらに触手を伸ばした。
「うわあああ……」
《おや、まあ》
どうやら上の階層で足を滑らせたか、一人の冒険者が真っ逆さまに落ちてきている所だった。彼は地底湖に落下し、激しい水飛沫を上げて沈んだかと思うと、数秒してから浮き上がってくる。武装した冒険者がああやって水面に顔を出せる所を見ると、湖の水深はさほど深くはないのだる。
だがしかし、水面に顔を出した冒険者は血相を変えて上に助けを呼びかけた。
「や、やばい! 早く!」
「待ってろ、すぐロープを投げる!」
仲間だろう、回廊の方から声がして、すぐにロープが降りてくる。水に落ちた冒険者はそれに向かって泳ぎつつ、警戒するように周囲を見渡している。と、その視線が、何かを見つけて恐怖に染まった。
「き、来た!!」
<作者からのコメント>
sawronbowさん、mozkunさん、稲垣コウさん、レビューありがとうございます!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます