6. 一瞬、冥土(めいど)に落とされると思ったのはナイショだ

SIDE:ヘリオトロープ


 少年が一心不乱に剣を振り続けている。


 だが下半身はフラフラ、上半身もブレブレ。たかだか数十回素振りした程度でこのザマとは、いかに普段から身体を動かしていないかが知れる。

 まぁ、その分厚い脂肪に覆われた身体を見れば火を見るよりも明らかなのだが。


 それでも弱音だけは吐かない。キツくともツラくとも歯を食いしばって耐えている。

 何が彼をそこまで突き動かしているのだろうか。私はぼんやりと昨日のことを思い出していた。


          ◇


 今まで私を縛り付けてきた、唾棄だきすべき奴隷の首輪が外された。

 すかさず隠し持っていたナイフを取り出し、一瞬前まであるじだった少年の首めがけて横なぎに振るう。


ッ……!」

「ッ!!」


 ナイフの刃が首の肉を断つ……その寸前で止める。皮一枚分だけ食い込んだ刃先から血が一滴、つうっと肌を伝って滑り落ちた。


「…………」


 この刃を少し動かせばいつでも殺せる、その体勢のまま少年を睨みつける。

 丸々と太った身体は恐怖のあまり硬直し、歯はカチカチと小刻みに鳴らされ、目には涙が浮かんでいる。公爵家の跡取りとは思えない、とても情けない姿だ。


 それでも……目だけは逸らさずに、真っ直ぐ私を見ていた。


          ◇


 私はかつて、北方のとある国の伯爵家に生を受けた。

 騎士団長を務め、国王陛下からの信頼あつい父。女性騎士として活躍し、結婚後は父を献身的に支えていた母。厳しくも優しい両親に恵まれ、私は幸せだった。


 だが、その幸せは唐突に終わりを告げる。隣国が領土拡大のために、宣戦布告もなしに侵攻してきたからだ。

 その戦いの中で両親は行方不明。まだ幼かった私は奴隷商へと売り渡され、遠く離れた国へと連れて行かれた。


 そんな私を買ったのは、まだ年端も行かない子どもだった。公爵家の嫡男だそうだが、剣すら握ったこともないような肥え太った身体をしている。

 きっと甘やかされて育ってきたのだろう。ニヤついた顔が何とも憎たらしい。


 奴隷部屋という名のおりから出された私に向かって「俺がお前を買ってやったんだぞ。感謝したらどうだ?」とあおってきた時は、人生で一番と言って良いほどの殺意が湧いた。

 奴隷契約による制限がなければ、あの場で締め殺していたかもしれない。


 それからはひたすら耐える日々だった。

 貴族とは民を守るもの、私は両親からそう教えられた。だからこそ幼い頃から剣を振ってきたし、いずれは両親のような立派な騎士になりたかった。

 それなのに両親がいなくなり、騎士になる将来を見失い、貴族でありながら民を虐げるバカ息子の世話をする毎日。


 その下卑げびた視線も、下品な口調も、下衆げすな表情も何もかもがしゃくに障る。

 今はまだ子どもだが、成長すれば考えることすらおぞましい行為をいられるのは想像にかたくない。


 その時は……いざという時のために隠し持ってるナイフ――太ももに巻いたベルトに固定してある――で刺し違えてやる。そう決意していたのだが……。

 ある日、馬に振り落とされてから少年はまるで別人のようになった。


 使用人に対して横暴な振る舞いをしなくなった。それどころか、お礼を言うようになった。

 贅沢ぜいたくなお菓子を食べなくなった。それどころか、たびたび使用人に差し入れをするようになった。

 痩せるために運動を始めた。それどころか、今まで拒んできた勉強やマナーも学ぶようになった。

 そして――私に剣を教えて欲しいと「頼んで」きた。


 命令すれば私は逆らえない。なのに、なぜ選択肢を与えるのか。本当に、本気で、彼は変わろうとしているのだろうか。

 だから条件を出した。奴隷の首輪を外せと。あなたにそれだけの覚悟があるのか、と。

 彼は一瞬ためらうようにうつむいた。だがすぐに顔を上げ、私の首輪に手を…………、


          ◇


 ナイフを突き付けたまま、無言で少年の目を見続ける。首から一滴、また一滴と流れ落ちる血で襟の辺りが赤く染まっている。


「…………」

「…………」

「……私は貴方が嫌いです。そして今の私なら貴方を殺すことは容易たやすい。これを聞いて、貴方はどうしますか?」


 彼は一瞬目を見開いたが、初めて見せる真剣な面持ちで口を開いた。


「今まで本当に申し訳なかった。何を言われても、されても、抵抗はしない。それでも……恥を忍んで頼む。強く、なりたいんだ」


 何て都合が良くて、恥知らずで、自分勝手で……真摯しんしな言葉。

 ナイフを下ろす。そして身体ごと後ろを向いて一言だけポツリと言った。


「…………手加減はしませんから」


 彼の返事は、どんな顔をしているか容易に想像できるほど嬉しそうなものだった。


          ◇

 

「…………グェ!」


 潰れたカエルのような声と、誰かが倒れ込んだ音に意識を引き戻される。どうやら体力が限界を迎えて倒れたらしい……まだ百回も振っていないだろうに。


「坊ちゃまぁ!!」


 慌てて執事のセバスチャンが駆け寄っていく。最近は、ほぼ毎日同じような事を繰り返しているのに大した忠誠心だ。

 ……私はこの生意気な少年が嫌いだ。今はマシになったとはいえ、たかだか一週間かそこら。

 いつまた気が変わって、元の甘ったれたバカ息子に戻るか分かったものではない。今まで受けた侮蔑ぶべつも屈辱もハッキリ覚えているのだから。


 それでも、もう少しくらいは…………彼のメイドでいても良いのかもしれない。

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