第4話 闇の贈り物

「カイル、訓練を中断してこちらへ来い」

 廊下に響く父、ダリウスの冷たい声。その音色にはいつも通りの威厳があるはずなのに、今日はなぜか異様な不穏さを感じた。父に呼び出されること自体は珍しいことではない。だが、胸騒ぎが収まらないのはなぜだろうか。


 俺は練習場を後にし、書斎へ向かった。高い天井と荘厳な書棚に囲まれた部屋に足を踏み入れると、父が椅子に腰掛け、鋭い視線をこちらに向けていた。その傍らには――


 檻の中に少女がいた。


 彼女は縮こまり、膝を抱えるようにしてうずくまっている。その姿勢だけでも、彼女がどれほどの恐怖を抱え込んでいるのかが分かった。金色の髪は泥にまみれ、その美しいはずの輝きは見る影もない。裸足の足には深い傷が刻まれ、所々に赤黒い血痕がこびりついていた。


 そして、その顔。


 俺は思わず息をのんだ。いや、それだけでは済まなかった。吐き気が込み上げてきて、思わず口元を手で押さえた。


 彼女の瞳は虚ろで、焦点はどこにも合っていない。だが、それが単に生気を失っているだけではないことは一目で分かった。そこには、絶望しかなかった。まるで心の底から染み出した闇が、その瞳を塗りつぶしているかのようだった。


「こんな…。」

 思わず呟いた俺の声は震えていた。彼女の顔には、痛々しいあざや乾いた血の跡が無数に散らばっていた。ほほの痩け具合からして、長らくまともな食事を与えられていないのだろう。唇はひび割れ、息遣いは弱々しい。こんなにも生気を失った人間の顔を俺は見たことがない。


「エルフだ」

 父の声が冷たく響いた。まるで、この惨状を説明する必要すらないと言わんばかりに。


「辺境に住む一族の者だが、今となっては何の価値もない廃品だ。だが、闇魔法の鍛錬には役立つだろう。」


「廃品…。」

 その言葉に俺は凍りついた。父の目には、この少女がただの道具としてしか映っていない。苦しむ人間の姿を前にして、何の感情も持たないのか。


「どうした、カイル。これはお前に与える贈り物だ。十歳になったことだしな」

 父の冷たい声が、檻の中の少女を指し示す。


「…贈り物?」

 その言葉に胸の奥がざわつく。この状況を贈り物だと? 彼女のこの惨状を前にして、そんなことを言えるダリウスに対して、俺は生まれて初めて怒りを覚えた。


「彼女を使って、洗脳魔法を極めろ」

 父は淡々と告げた。その言葉には一切の感情がなかった。ただ使命を語るだけの、機械のような声。


「洗脳魔法を…」

 俺は彼女を見つめた。何も語らず、何も動かないその姿。それでも、彼女が生きているのだと分かるのは、わずかに上下する肩の動きからだけだった。


「父上、これはあまりにも…」

 言いかけた瞬間、父の鋭い目が俺を射抜いた。その瞳はすべてを支配する王のように冷酷だった。


「カイル。我が家は代々、光と闇の力を用いて王に仕えてきた。そして、お前は闇の魔法を持つ者として、その力を極めねばならない。この者を使え。拒否するというのなら、お前の覚悟を疑わざるを得ない」


「………」

 言葉が出ない。父の命令に逆らうことの恐ろしさを知っている俺は、それ以上何も言えなかった。


「…分かりました…」

 震える声でそう答えると、父は檻の鍵を解き、彼女を解放した。動くことすらできないのか、父の命令を受けた使用人が檻を持ち上げて運び出し、俺の部屋へと運んでいった。



「訓練を怠るな。お前の覚悟を試させてもらう。」

 父の言葉を背中に聞きながら、俺は部屋へと戻った。


 俺の部屋の扉が重い音を立てて開かれた。そこには二人の使用人によって少女が運び込まれる。


「ここでいいですか?」

「ああ」

 使用人の無機質な言葉に返事をし、俺も部屋に足を入れる。


 少女は、まるで抜け殻のようだった。細い身体にまとわりつくボロ布のような服は汚れにまみれ、彼女の肌に負った傷や痣を隠すことさえできていない。エルフ特有の尖った耳と金色の髪は、まるで過去の輝きを忘れてしまったかのように、どれもが色褪せて見えた。


 だが、それ以上に目を背けたくなったのは彼女の表情だ。否、表情と言えるものはそこにはなかった。目は虚空を見つめ、口は閉ざされたまま。彼女の中には生きる意思すら感じられず、その無垢な絶望に染まった顔を見た瞬間、俺は思わず吐きそうになった。


「…こんなに、ひどい…」


 言葉が喉の奥で詰まる。こんな魂の抜けた顔を見たのは初めてだった。生気のない目、色を失った肌、震えることすらない小さな身体――俺はその光景に圧倒されていた。


「ここに置きます。」

 使用人たちは無表情のまま彼女を床に下ろした。その動作に一片の感情も感じられない。無駄のない動きで担ぎ上げ、無言で立ち去る彼らの姿を見送るうちに、ある不気味な感覚が胸を刺した。


 ――彼女も父に洗脳されている使用人のようになるのか。


 先日の訓練場での出来事が脳裏をよぎる。ダリウスの冷酷な指示、そして俺に課された洗脳の実演。その結果がこの使用人たちなのだろう。無表情で命令をこなす姿に、人間らしさのかけらも残っていない。


 部屋に残ったのは、俺とルミアだけ。扉が閉じる音が重く響き、静寂が降りた。


「…大丈夫か?」


 無意識に声をかけた。だが、返事はない。彼女は床に座ったまま、ただ天井を見つめている。しゃべることができないのか、しゃべる気力がないのか判断がつかない。


「動けるか?」


 少し身を屈めて顔を覗き込む。近づけば近づくほど、その絶望に満ちた表情が鮮明になる。目の奥には何もない。輝きも、意思も、抵抗も――何もかも。


「…名前は、あるのか?」


 返事がない。分かっていたことだが、それでも俺は言わずにはいられなかった。


「名前がないと、不便だろう」


 自分がそう言っている理由がわからない。ただ、彼女の存在があまりにも痛々しくて、このままでは耐えられそうになかった。

 

 名前を付けることで、何かを変えられるかもしれない。

 それはカイルの、淡い期待のようなものだった。



「ルミア。…これから君の名前はルミアだ」


 その名を繰り返しても、彼女は動かない。まるで俺の言葉が届いていないかのように、変わらず空虚な目で一点を見つめていた。それでも俺は、その名をもう一度口にする。


「ルミア。いい名前だろう?」

 



 しばらくして、部屋の隅に置かれていた食事が運ばれてきた。簡素なパンとスープが乗った皿だ。きっと、彼女のために用意されたものだろう。


「これ、食べてくれるか?」


 俺はそっと皿を持ち、ルミアの近くに置いた。しかし、ルミアは動かない。視線を食事に向けることすらしない。

 さすがに何か食べないとまずい。ルミアの身体を見たところ栄養失調でいつ倒れてもおかしくなかった。


「頼む…。少しでいいんだ」


 声を落として懇願する。だが、彼女は応えない。それどころか、俺の存在さえ無視しているように見えた。食べさせるしかない。俺は手に持っていたパンを食べやすいようにちぎり、ルミアの口元へと運ぶ。だが、まったく口を開けようともしない。半開きになった口に入れてもすぐに出てきてしまう。


「どうすればいいんだよ…」


 誰に向けたものでもないその言葉が部屋に虚しく彷徨う。ルミアのあまりの無反応に、俺は自分の無力さを痛感していた。


 彼女は今、この世に生きているだけで、心はどこか遠くに置き去りにされている。そんな彼女を目の前にして、俺には何ができるのだろう。


 その姿に苛立ちと悲しみが募り、俺の手は震えた。どうすればいいのか分からなかった。彼女を救いたいのに、その術が分からない。


――いや、術がないわけではないのだ。

 あとは俺がその決断ができるか。




「ごめん…。でも、これしか方法がないんだ」


 俺は手を伸ばし、闇の魔力を集め始めた。洗脳魔法――本来ならば、絶対に使うべきではない禁忌の力。しかし、彼女を救うためにはこれしかなかった。


「君の心を壊すつもりはない。ただ…ほんの少しだけ、助けさせてほしい。」


 魔力が彼女の周囲に漂い、やがて彼女の心の奥深くへと入り込む。使用人の時のように抵抗は一切ない。もしかしたらあの抵抗は本人の意志なのかもしれない。

 その瞬間、彼女の中に渦巻く感情がわずかに伝わってきた。そこには恐怖、痛み、そして底知れぬ絶望があった。


「…こんなにも辛かったんだな」


 俺は涙をこらえながら、彼女の心に優しく触れるよう意識を集中させた。そして、彼女が少しでも食べる気力を取り戻すよう、闇魔法を調整して祈るように魔力を送り込んだ。


『ルミア、食べてくれ』

 洗脳魔法は声に出して命令しなければならない。

 ルミアはまるで機械のようにゆっくりと俺の命令を実行するためにパンを手につかむ。そして口に運ぶのだった。


「…ありがとう」


 少しずつ、少しずつスープを飲み込むルミアの姿に、俺は胸をなで下ろした。それでも、罪悪感が心を離れることはなかった。こんな形でしか俺はルミアを救えない…



 俺はしばらく無力感に押しつぶされそうになりながら、ただ彼女を見つめていた。彼女がこの部屋に運び込まれるまでに何を経験してきたのか、どんな恐怖や苦痛を味わったのか。想像するだけで胸が締め付けられる。


「…君の名前はルミアだ」


 再びその名前を呟く。もしかしたら、彼女に少しでも反応を引き出せるかもしれないと期待して。けれど、やはり彼女は動かない。


 俺はそっと手を伸ばし、彼女の髪に触れようとした。触れた瞬間、その髪が驚くほど冷たく、指先から嫌な感覚が伝わる。髪だけでなく、彼女の全身から死に近い何かが漂っている気がした。


「…俺がなんとかするから」


 小さく呟いたその言葉は、彼女に届いたのかどうか分からない。それは、俺自身に向けた決意のようなものだった。父に従うだけでは彼女を救うことはできない。この部屋に運ばれた瞬間から、彼女は俺に託された存在なのだ。


 扉の向こうに立ち去った使用人たちの無表情が脳裏に浮かぶ。彼らも、父・ダリウスの闇の力に押しつぶされた存在だ。そのことが嫌でもはっきりと俺の心に刻まれる。きっと彼女は必要とされなかったんだろう。誰にも必要とされず、そんな世の中に絶望して。



「ルミア、俺が君の名前を呼び続けるよ」


 床に膝をつき、虚ろな目をした彼女を見つめる。彼女の中に残されたかすかな何かを信じて、俺はその名前を繰り返した。

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闇魔法しか使えない俺が絶望の少女を救うまで 青甘(あおあま) @seiama

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