第26話 二人の障害物 『一郎の過去と未来の勝因』
まさか。
でも。
そうだとしたら合点がいく。
遊郭で遊女を買われるくらいだから、両刀であるのかもしれないが、一郎さんのことは恋愛対象であり、形だけであっても妻である私は彼の敵なのだろう。
だから夫婦の営みがあったのかも気になるのだ。愛人だの何だの言って私を不安にさせるのもわかる。
しかし、一方の一郎さんから添田さんに対する友情はあっても愛情は感じられない。
そう思うと、この方、健気だし哀れだ。
「今度は妙に納得した顔をされてますね。何を考えてるんです?」
添田さんが怪訝な声を出したその時、「奥様にお客様がお見えです」と書斎に千代さんが現れた。
「私に? どなた?」
「四谷様です。新しい図案が出来たから、奥様にお見せしたい、と」
先日、一郎さんに紹介されたデザイナーの四谷さんだった。
「新作の図案なら、僕が出向いて拝見しましょう」
おもむろに添田さんは立ち上がったが、
「あ、いえ。専務が外出中だと告げた所、では奥様に、と先方が仰って」
千代さんの言葉に、たいそう傷ついた顔をして、すかさず椅子に座り直した。
「私なんかで宜しいのですか」
「奥様のご意見を望んでおられるのです」
躊躇いながらも、悪い気はせずに書斎から出て店の方へ向かった。嫉妬に近い視線が背中に刺さっていたが気にしないことにした。
「奥様、随分と雰囲気が変わられましたね」
店の商談席で待っていた四谷さんは、洋装の私を驚いたように見ていた。
「ええ、店や他の従業員の方の雰囲気に合わせました」
「良くお似合いですよ。和装の奥様とは違った華やかさがあられて……」
そう言って目を細めたあと、四谷さんは「早速ですが」、とスケッチブックに描かれた図案を私に見せてくれた。てっきり女性用の装飾品の新作かと思ったら違った。
「これは、もしかして……」
「シャープペンシルです」
「まぁ……」
鉛筆より細い線が描け、見た目もお洒落なシャープペンシルは、他社が数年前に日本で初めて実用的な繰り出し式のものを発明していたが、高価なためにあまり普及しなかったと聞く。
「高価なものならそれらしく、高級な装飾をしたいと思いまして、女性が好むような花の彫金を入れてみました」
四谷さんが自信たっぷりに、扇形をした本体の梅の花の部分を指差した。
じっくり目を通す私に、「どうでしょうか? 何かご意見はあられませんか」と四谷さんが尋ねる。
私は気になることがあった。
「これはかなり重たくなるのではないですか?」
「そう思いまして、純銀製で考案したのですよ」
「女性を対象にされるのでしたら、もっと細い本体になさった方がよろしいかもしれませんね、実物を見てみないと何とも言えませんが」
率直に意見をのべると、四谷さんは気を悪くするでもなく、「なるほど、そうですね」と頷いた。
「他社のシャープペンシルよりデザイン性に凝った商品にしたくて、機能性に関しては追及が希薄でした」
「デザインで差をつけるのも効果的ですが、商品にさりげなく商標マークをつけるのはいかがでしょう?」
何気に言ったのだが、四谷さんの顔がパアッと明るくなったのが見てとれた。
たとえば、真珠の崎田ならば、貝の真ん中にS。
時計の伊賀野だったら、○の中にIなど、商品やケースに商標マークを刻印してある。(私は持っていないが実家の母が大事そうに仕舞っていた)
中野貴金属店の商品にはそれがないのだ。
ケースには、確かに社名は刻印されているが、それだとブランド性が低いし、何よりお洒落ではないと思う。
「社長や一郎くんに話しブランドマークを考案してみましょう。というか、早速事務所に戻って図案を視覚化したい」
デザイナーらしく、既にいろんなマークが頭に浮かんだのか、浮かれた様子で席を立たれた。
後に 、"この事" が中野貴金属の行く末に明暗を分ける勝因になるなんて思いもしなかったのだが――。
軒先まで送る私に、四谷さんはにこやかに言った。
「貴女のような女性が一郎くんの奥様で良かったですよ」
「ありがとうございます」
誉められ、私は、照れ隠しで質問をした。
「一郎さんは、どのような学生だったのですか?」
ご本人に少しずつお話を聞きたいと思っていたが、何かと機会を逃しているし、私同様、一郎さんも、あまり自分の話を好んでされる方ではない。
立ち話をする二人のそばを、曇り空の下、人力車や馬車が通り過ぎて行く。
四谷さんは、飛ばないように帽子を押さえながら懐かしそうに話した。
「そうだねぇ、成績は優秀であの通り好青年だったから僕達上級生の間でも評判だった。僕は書画美術クラブで一緒だったけれど、一郎くんのセンスの良さは群を抜いていたと思う」
「一郎さんも絵がお上手だったんですね」
「ええ。大会でも賞を貰ってたしね」
夫が誉められると嬉しい。
だけど、私は、彼が絵を描いているところを見たことがないし、絵が好きだという話も聞いたことがない。趣味に走るほどお暇がないのだろうが……。
「僕と同じように海外へ留学してそちらの道に進むはずだったんだけどね」
四谷さんの顔に翳りが出る。
「中退、なさったんですよね……」
ここから先は訊いて良いのか分からず言葉に詰まった。
″あんなこと ″ がとんなことなのか。
ひょっとしたら、私は知らない方がいいのでは……。
そう思っていたら、四谷さんがポツリと話された。
「屈辱的だったんだろう。彼のことを好きになりすぎた生徒が、妄想だけで、彼をモデルに卑猥な絵画を描いたことが」
「え……卑猥な、絵?」
私が目を丸くすると、四谷さんは、迷いながらも続きを話してくれた。
「男子校だからね。女形のように美しかった一郎くんを好きになる生徒は結構いたよ。中でも美術部のその生徒は気持ちも伝えていたらしいが……まぁふられて、それでも想いを断ち切れずに……」
放課後、皆が帰ったあと、部室で一郎さんと自分が情交する様を妄想で描いてキャンバスに残していた、と。
それが見つかって大問題になり、被害者であるはずの一郎さんはさも男色のように噂され、あまりにも写実的な描写だったため、実際にもそういう事をしていたと学校側に嫌疑をかけられてしまったらしい。
「……ひどいですね」
僅かに想定していたことと、さほどかけ離れた事件ではなかったものの、聞きながら、遊女の事も然り、ある種、美貌はお荷物にもなるのだな、とつくづく思った。
「あまり口が達者な方でない彼は、他人に誤解され偏見を持たれることもありますが、根は純粋でイイ男なんです。琴子さん、一郎くんのこと宜しくお願いしますね」
ペコリ、と頭を下げられ、私も深く会釈する。
遠くに見える路面電車を追いかけるように四谷さんが走って行く。
通勤時の満員電車は、停留所に止まらず行ってしまうこともあるから、一本逃がすと大変なのだそうだ。
“宜しくお願いしますね”
頼まれなくても、私は一生、一郎さんと添い遂げる気持ちで結婚をしたのだ。
ちょっとやそっとのことでは泣き寝入りしない。
たとえ、一郎さんに美少年の愛人がいたとしても、それはきっと、私達夫婦生活の障害とはならない……はずだ。
それから数週間後。
帝国ホテルで中野貴金属の創業祝賀会が開かれたのだった。
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