第23話 二人の障害物 『愛人疑惑』

「まずは奥様の能力がわかり兼ねますので、これから見て頂きましょうか」


 添田さんが本の間から出し、テーブルに置いたのは、絵付きの単語帳だった。

 cap《キャップ》(帽子)、dish《ディッシュ》(お皿)、grandmother《グランドマザー》(祖母)など、子供でも知っていそうな内容で、


「さすがに、これくらいは分かります」


 とお返しした。


「さようですか。ならこちらで学習しましょう」


 次に添田さんが出したのは参考書で、掲載されている単語はより日常的なものが増え、文法も図解入りでわかりやすかった。

 

 私に時々質問を投げかけては理解力を確かめる添田さんの教え方も上手だった。


 その傍ら、彼はどこぞかの国の参考書を読んでいる。

 英語とフランス語の他にまだ習得したい言語が有られるとは……。思わず尋ねた。


「添田さんは何を学習しておられるのです?」


 添田さんは私を見ずに答えた。


「ロシア語です」


「ロシア? なぜ、そのような国の言語を?」


 そのような、とは語弊があるかもしれない。しかし、ロシアといえば、ほんの十数年前に戦争をした国だし、その後、ロシアで革命が起きてソビエト連邦が建国されてからも、まだ国交正常化していないときく――


 そう続けると、添田さんは少し驚いたよう様子だった。


「意外ですね、奥様が世界情勢をご存知とは」


「そこまで存知ません。でも、与謝野晶子が『明星』に寄せた” 君、死にたまうことなかれ ”(戦地の弟の身を案じた詩)を読んだのがきっかけで少しだけ……」


「その詩は当時、かなり論争を呼んだようですね。でも結果日本は勝ってますから。近いうちソビエト連邦との国交も復活するでしょう。それに……」


「それに……?」


 添田さんは私の顔からフイッと視線を逸らして、「なんでもありません」と急に話を終わらせた。


「すごく気になるんですけど……」


「そういう大事な話は、一郎くんがお話になるでしょうから。信頼できる夫婦関係が築けているなら、ね」


 また嫌味なことをメガネを上げながら言う。

 この方、本当に苦手だわ。

 少しムッとしながらも、学習に戻って添田さんに英語を教わる。

 途中、タエが二人にお茶を持ってきてくれ、何気に時計を見たらもう三時だった。


「一郎さんは戻ってます?」


「若旦那様は朝からお出かけになったまま、まだ一度も戻られてませんよ」


「そう……」


 いったいどちらへ行かれたのか。

 工場か別店舗かしら、と思っていたら、


「愛人のところかもしれませんね」


 また、添田さんがよけいな一言を漏らした。


 絶句した私をチラリと見て、添田さんは、「そんなに驚かれましたか?」とさも真実だと言わんばかりに言葉を重ねてきた。


「一郎さんに……愛人がいらっしゃるんですか?」


「奥様の浮気を黙認すると言ってるくらいだから、彼にもいるのが当然でしょう」


 それは男性だろうか。それとも女性……?

  いや。

  待って。

  そもそも、


「本当に一郎さんがそのような事を仰ったのでしょうか?」


 つい、この間なら全て鵜呑みにしていたけれど、


『話した通り僕は女性に不慣れだから、やり方次第で貴女をまた傷つけてしまうかもしれない、それが怖いんだ』



 昨夜のような一郎さんの一面を知ってしまうと、不貞を軽く考えるような方とは思えないのだった。


「……では、僕が嘘を吐いている、と?」


 添田さんが捲っていた参考書を手荒に閉じる。

テーブルのスタンドに付いていたほこりが舞ったのを見て、こちらの掃除を後でしなくては、と、こんな時なのに思った。


「申し訳ありません。一郎さんの口から聞いたことではありませんので。あの方に愛人がいると言うのも信憑性を感じられません」


 毅然さを持って答えると、添田さんがまた、あの ″目 ″ をした。

小馬鹿を通り越した侮蔑の眼差し。


「たった数日で、随分と自信を持たれたのですね。まさかと思うが、一郎くんは奥様を抱いたのですか?」


 動揺したが、かろうじて顔は赤くならなかったと思う。


「そんなこと、秘書のあなたに話す必要ありません」



 一郎さんの事をよくご存知なのかもしれないけれど、私は、これから、それ以上にあの方の事を知る必要があるし、添田さんと、私生活まで共有したくはない。


「そうですか。では、奥様は、まだ一郎くんのあの手帳の中身を見られてないんですね?」


「手帳……」


 いつも持ち歩いておられる……。


″中、見た? ″


 あの時の警戒した一郎さんの様子を思い出した。

  あれに、何か秘密が隠されてるの?


「勝手に見たりはしません」


「そうですか。まぁ、それがいいでしょう」


 少し歪んだ笑みを見せて、添田さんはまた言葉を濁した。


 凄く、凄く気になったが、御本人から話されるまでは詮索するまいと決めた。





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