第22話 二人の障害物 『意地悪秘書と書斎にて』

「おはようございます。奥様、今朝は顔色が宜しいですね」


 朝食を持ってきたタエがにこやかに言った。


「本当? 昨夜は早めに就寝したからかしら」


「睡眠は大事ですよね。……奥様、本日は洋装でいらっしゃいますね」


 タエの視線が、私の顔から買ったばかりのスーツにいく。


「ええ。昨日、一郎さんが見立ててくださったの。今日からこれでお店に出ようかと思って」


「もう、奥様ったら、女中相手にのろけないでくださいよ」


 タエが人懐っこい笑い声を上げていると、洗面から戻ってきた一郎さんが、「朝から元気だね」と、無表情で言った。


「あ、おはようございます。若旦那さま。煩くて申し訳ありません。新聞置いておきますね、では失礼します」


 一郎さんに会釈して、タエがいそいそと出て行った。

 相変わらず朝は不機嫌だけれど、まだ昨夜の余韻が残っていた私は、それさえも愛しく思いながら、彼のために茶を淹れた。


「あち……」


 ちょっと熱かったかしら。

 湯飲みを置いて、新聞を読み始めた一郎さんにそれとなく尋ねてみた。


「一郎さんは、新聞の小説なんてお読みになります?」


【鶏姦罪と心中】


 先日、一郎さんがお読みになっていた(と思われる)小説は男性同士の恋愛を主とした物語だった。

 女性が苦手になったいきさつは分かったけれど、その後、一郎さんが男性と恋をしたのか、今もその性嗜好はあるのか、それが今後の夫婦生活に大きく関わってくると思い、尋ねてみたのだが――


「【真珠婦人】のことを言ってるの?」


 一郎さんが少し眉間に皺を寄せた。


「え、」


 そうではなくて。

 そもそも、それが話題になったのは何年か前だし。


「僕は小説は読まないんだよね。でも、【真珠婦人】なら舞台で見たよ。あれ、貴女と同じ華族令嬢が大金持ちに嫁いで貞操を守りつつ、父親の敵討ちのために夫に復讐していく物語だったよね」


「舞台を見に行かれたのですか?」


 ——どなたと?


「うん。もし欲しい本があるなら、誰かに本屋に連れて行って貰うといい」


「はぁ……」


 私の深読みだったのだろうか。


 そんなことより、一郎さんが誰と舞台を見に行ったのか、そちらが気になって仕方ないなんて。

 それだけ、彼に心を奪われている証拠だ。



 朝食を終えて、三越で購入したコテで髪を巻き、それを後ろで結い上げる。

 こうすれば洋装でも和装でも合うと、店員がやり方まで教えてくれたのだ。

 化粧は殆どしない。

 一郎さんが、濃い化粧や白粉の匂いが無理だと仰っていたから。


「まぁ、奥様、雰囲気変わられましたね」


 店に行くと、千代さんを始め店員たちが洋装を褒めてくれた。


「ありがとうございます。慣れるとこちらが動きやすいですね」


 ショウケースを磨きながら、店内を見回すと一郎さんの姿はなかった。

 開店まであと十分だが、工場の方に行かれているのだろうか?

 気になりながらも、開店を迎え、千代さんに仕事を教わりつつ、気付けばもうお昼時になっていた。

 一郎さん。戻ってくるかしら。


「これは奥様、化けましたね」


 休憩のために屋敷に戻る途中、また廊下で添田さんと会ってしまった。

 ニコリ、ともせずに彼はメガネを指で上げて言った。

 夫の右腕である人なのに、抱いてしまった嫌悪は拭えず、私は、「ありがとうございます」と適切でないかもしれない返答をした。


「あぁ、そうだ。午後からは奥様は店に出ないで結構ですよ」


 すれ違い際、そう言われて私は「はい?」と振り返った。

 どうしてそんなことを、この方に言われなければいけないのか。


「なぜですか?」

「一郎くんからの伝言です」

「え?」

 

 それは本当だろうか?


「午後から奥様は僕と外国語の勉強です」


「え!?」


 思わず素っ頓狂な声が出た。


「そんなに驚かれなくても。奥様が仰ったんでしょう? 外国語を習いたいと」


 添田さんが短く息を吐いて続けた。


「一郎君が、手の空いた時に頼むって言ってきたんです。僕も彼の言う事は断れませんので」


 やんわりと辞退したつもりだったのに。一郎さんは私が遠慮してると思ったのかしら。


「遠慮ならいりません。僕も奥様に教える傍ら、他の語学の勉強をするつもりなので」


 何も言ってないのに、添田さんは、

「では午後から書斎で待ってます」

 と足早に店の方に行ってしまった。



 結局、お昼にも一郎さんは戻ることなく、私は一人書斎に向かった。

 結婚してから初めて入る。

  本棚にはダイヤモンドに関する説明書や、金属溶接の専門書など難しそうな本がたくさんあり、机も照明も洋風でお洒落な物が置いてあった。


  きっと、一郎さんはここで事務処理をなさっているんだ。

 そう思うと、何だか胸の鼓動が速まった。


レースのカーテンのかかった窓から、柔らかな陽射しが差し込んでいる。

そばにあった椅子に座ってみた。

革製の重厚な雰囲気の椅子は、いかにも社長のものという感じだ。


 一郎さん御本人は、″専務 ″ や ″若旦那さま ″と呼ばれているけれど、まだお若いからかそんなに偉ぶってもおらず謙虚でさえあられる。


 そういうところも、つい前夫と比べて、素敵な方だと改めて思う。


 ――昨夜は、あの方と初めての接吻をした。


  思い出すと顔が熱くなる。

  一郎さんと同じ布団で休んで、とても、幸せだった。


 結婚してから恋を知るなんて、自由恋愛に憧れていた女学生時代の自分ならあり得ないことだった。



「何を一人でニヤニヤとしてるんです?」



 ハッ! と入口の方を見たら、添田さんがいつの間にか来ていた。


「私、笑ってました……?」


「えぇ、だらしなく」


「……」


 もっと他に言葉を選べないのかしら。

 そもそも、私が先に入室しているかもしれない、とノックくらいすればいいのに。


「なにか良い事でもあったんですか?」


 添田さんがどうでも良さげに訊いてきた。


「別に。夫婦間の些細な事ですから」


「夫婦間の……?」


 彼の、メガネの奥の目がまた細まった。

 つまらない嫁の、その時々の気分なんて気になさらなくて結構です。

 喉まで出かかったが、社長椅子から降りて、真ん中の応接テーブルの方に移動した。


「本日は宜しくお願いします」


 向い合わせに座り、改めて顔を見ると、やはり添田さんのお顔は冷たくて苦手だと感じる。

 こんな人でも遊郭で遊ぶのだと思ったら、少し不思議な気がした。







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