第19話 二人の夜 『筆下ろし』
——”僕が貴女を抱く事は一生ない”
見合いの日。
そう仰った一郎さんが、今宵、私が風呂から上がるのを待っている。
目的は “愛を育むこと” ……。すなわち夫婦の営みをすること、だ。
解釈、間違ってないわよね?
寝室の襖を開けると、橙色の灯りに照らされた一郎さんが蒲団の上で寛いでいた。浴衣に丹前を羽織って、夕刊を広げて見ている。
その様子はいつもと少しも変わらない。どうやら緊張しているのは私だけのようだ。
「……湯冷めしますよ」
やっと出た言葉だった。
「うん」
顔を上げた郎さんと目が合う。
隣の蒲団に入るべきか、一郎さんに寄り添うべきか。夫婦の営みなんて、結婚して間もなく数えるほどしただけで、本当は慣れてなどいない。
迷いながら、 一郎さんの目の前に正座し、膝に両手をついた。
「ふつつかな嫁ですが」
“よろしくお願いします”
と言おうとしたのに、一郎さんが、「それはこっちの台詞だよ」と遮った。
「湯冷めするから」
一郎さんの白い手が、私の肩に置かれる。
それだけで心臓が飛び跳ねた。
そっと引き寄せられて、ふわっと抱擁される。
まるで壊れ物でも扱うかのように、力を入れず、僅かに体温が伝わる程度に。私も恐る恐る両手を一郎さんの背に回してみた。
——これが一郎さんの匂い……。
浴衣ごしに鼻先を掠める甘い香り。
前夫のような酒と煙草の匂いはしない。
石鹸と、成長途中の花のような肌の匂いが混じって、まるで子供と抱き合ってるみたいだと思った。
つるり、とした一郎さんの頬が、私の頬に触れる。
冷たくなった唇が、私のものと重なった。
一瞬、だった。
すぐに唇を離した一郎さんが、長い睫毛を上げて、私の目を見た。
何か言おうとして、それを呑み込むように、再び優しい抱擁に移る。
「……僕の接吻は、普通かな?」
そんなことを耳元で囁かれ、可笑しくて、可愛くて、私は小さく笑った。
「えぇ、普通だと思います」
前夫は、初夜こそ少し手加減したが、性質なのだろう、あとは接吻など素通りして手荒に私を抱いていた。比べようもない。
一郎さんの右手が、ゆっくりと私の浴衣の掛け衿をずらす。
一つ一つの動作がやはり不慣れでぎこちない。
黙って身を任せてよいものか、それとも女といえど、経験者らしく誘導した方が良いのか――
この際、だ。
聞いてしまおう。
他人の口から、一郎さんの過去を暴露される前に知っておきたい。
自分で確かめたい。
「あの……つかぬことをお訊きします」
私の肩に唇を這わせていた一郎さんが、くぐもった声を出した。
「……なに?」
「一郎さんは、女性との経験は初めてなのですか?」
『何せ、彼は女は抱けないし』
『こんな
私が感じたことと、他人が言ってたことが真実なら、一郎さんは男性とはそれなりに経験があっても、女性とはしたことがないはず。
キリスト教が日本に入って来たのもあり、今でこそ男色は悪として捉えられているけれど、江戸時代までは、皆あけっぴろげに少年を買っていたらしい。
過去の武将で、男を抱かなかったのは豊臣秀吉だけだったと聞く。
けして異色な事ではなかったのだ。
だから、私は、一郎さんがそうであっても、けして嫌悪は抱かないし、女性を愛すべきだと責めるつもりもない。
「そんなこと、知りたいの?」
ピタリと動かなくなった一郎さんが、私の肌から離れた。
「……はい、存じ上げないことを、心無い言葉で耳にするよりは、一郎さんの口からお聞きしたいのです」
——そうやって、少しずつ夫婦らしくなっていきたいから。
一郎さんは、私の目を見つめたあと、深い息をついて答えた。
「あるよ。望まぬ形で、筆おろしをされた」
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