第8話 私の旦那様 『意地悪な?秘書』

 私は日陰の女でいるのが嫌で、この結婚を望んだはず。

 社会を知らないまま枯れていくのが恐かったから。


 膳を片付け台所に寄り、女中に、お店は何時からなのかと尋ねると、「10時からですよ」と教えてくれた。

 時計を見るとまだ9時にもならない。

 そんなに早くからやることがあるのだろうか?

 もしかして、私と一緒にいるのが苦痛で早々に出ていった?


 ……そんなに嫌われているの?


「奥様、どうされました?」


 気落ちした私の顔を見て、女中が心配そうに尋ねてきた。恐らく年は自分とそう変わらないだろう彼女の名前は、確か、タエといったか。

  他の女中に比べると話しやすい雰囲気なので訊いてみた。


「……一郎さんは仕事人間なの?」


「なぜそんな事を訊かれるのですか?」


 タエが困惑した声を出す。

 それはそうだ。

 家業なのだから、熱心に仕事をするのは当たり前だし、遊び半分でやるのは、きっと前夫くらいだろう。

 ……でも。

 店舗には数分もあれば辿り着く。

 店内の掃除をする者は他にいるだろうし、どう考えても私を避けているとしか思えない。

 そう、私がモソモソと胸の内を明かすと、タエは首を傾げながら答えた。


「昨日は祝宴でお仕事ができなかったでしょうし、秘書の添田様も早くにいらしていたから、お忙しいのではないですか?」


 私が顔を上げると、タエはニッコリと笑って続けた。


「若旦那さまは女遊びもしない真面目な方ですよ。いつも、あの手帳に予定を書き込んでお忙しそうにしていらっしゃいます」


 タエが指差した先には、卓袱台、そして手帳あった。


「きっと、忘れてらっしゃるんです。あれがないと、若旦那さま、お困りになると思いますよ」



 ……というわけで、今、私は店舗の裏口にいる。

 使い込まれた皮製の手帳を持ったまま、戸の前で躊躇し、ウロウロしていると、「奥様」と声を掛けられた。


 振り向くと、秘書の添田さんが怪訝な目をして立っていた。


「お、おはようございます、添田さん」


  昨日の祝宴にも顔を出されていたので、名前と顔は覚えていた。

 まだ二十代と思われるが、七三に分けられた髪と金縁の眼鏡が、彼をたいそう落ち着かせて見せる。


「奥様、こんなところで何をされてるんです?」


 一郎さんとは違うタイプだけれど、整った顔立ちと低い声が、どことなく冷たい印象で私は少し苦手だった。


「手帳をお忘れになっていて届けに参りましたが、ちょうど良かったです。添田さん、一郎さんに渡して頂けますか?」


 本当は、仕事場での一郎さんを見てみたかったけど……。

 手帳を差し出すも、添田さんはニヤリと口元を歪ませ、首を横に振った。


「折角ですから、奥様の手からどうぞ」


「え、?」


 添田さんが戸を開けるなり私の背中をトン、と押すものだから、敷居でつまづき、転びそうになった。


「まぁ、奥様、どうなさったんですか?」


 これじゃ、ただのそそっかしい嫁だ。

 洋装の若い女性が私を支えて、


「専務、奥様ですよ」


 と、一郎さんを呼んだ。







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