第5話 私の不幸せな結婚 『僕が貴女を抱く事は一生ない』

「初めまして……中野一郎です」


 声は全く抑揚のないもので、ニコリともしない表情からも、この見合いに乗り気じゃないのがハッキリとわかった。


「初めまして。琴子と申します……」


 ――また、こうなるのか。



  前夫の冷たい、暴力的な横顔を思い出す。


  やはり私との結婚を望んだのは爵位を欲しがっている彼の親だけで、この方は私には微塵の興味もないのだ。


 そう思うと、つい俯き加減になった。


「中野社長、桜小路伯爵、どうぞこちらへ」


 そこへ仲人の梅吉が珍しく洋装で現れ、少し早めの昼食をとるために両家を部屋へ促した。


「琴子、息してるか?」


 入室の際、梅吉がそっと囁いた言葉に少しだけ緊張がほぐれ、皆で談話しながらの食事会は何とか終えられた。


「少し、二人でお話してきたら?  庭園にでも行って」


 決まり文句を言う母の口元は、笑っているが恐かった。

″祖祖をするなよ″  ″余計な話をするなよ″ と、父の目も訴えている。


「じゃあ、寒いので少しだけ」


  先に席を立ったのは一郎さんだった。


 庭に出るまで、一郎さんは一言も口をきかなかった。


「疲れましたね」


 池の噴水を眺めながら、ようやく口を開いた。本当に疲れたのだろう、横顔が挨拶の時よりやつれている。


「そうですね」


 私は多少なり笑顔も作ったし、話にも相槌を打っていたが、一郎さんはトウモロコシを食べるチャボのように黙々と料理を口にするだけで、声も発しなかった。たまに目が合えば逸らされたし——


「やめても、いいんですよ」


「……え」


「結婚。僕のようなつまらない男と結婚しても貴女は不幸になるだけだ」


 一郎さんが “不幸” と口にした時、ビュゥッと冷たい風が吹いて、池の水面が私の心臓のように頼りなく脈打った。

 

 ——不幸になる前に、今の私はけして幸福ではない。

 

 それに、この縁談がなくなれば、私は、きっと、一生社会には出られない。

 お互いに気持ちが無くても、形だけでも夫婦にならなければ。

 私は、無理矢理、口角を上げて答えた。


「私のほうがつまらない人間ですよ」


 ただ、華族の娘というだけで、何の価値もない。

 勉学は好きだったが、結婚のために辞めざるを得なかったから深い知識もないし、ましてや一郎さんのような美貌があるわけでもない。

 何より、年上の離婚経験者だ。


「貴女に何の興味もないから知らないけど、一度は結婚生活を経験したんでしょう? 夫婦の営みだって経験しているし、僕よりは人生が豊かじゃないかな」


 涼しい顔をして “興味もない” や “夫婦の営み” などと話され、私は傷ついたり恥ずかしくなったりしながらも、それは人生豊かとは言わないんじゃないかと思った。


「い、一郎さまは、なぜこの縁談を断られなかったのですか?」


 両親の見栄や家業の為とはいえ、まだ若くこれほど器量の良い男性なら他の華族との縁談もあるはずだ。

 はぐらかすように尋ねると、一郎さんは私をじっと見つめて暫く黙った。


「あ、あの……?」

 

 あまりにも長く見ているので、私は俯くしかなかった。


「噂でね、関東一の炭鉱王に華族の令嬢が殺されかけて離縁したと聞いたんだ」


「!」


 私の心臓がまた跳ねた。

 殺されかけた、なんて大袈裟だ。


 でも、前夫の暴力は世間では有名だったのかもしれないし、華族の令嬢であっても、妾腹だからこそ易々と手を挙げられたのでは、と今となっては思う。

 唇を噛みしめる私の横で、一郎さんは淡々とした口調で続けた。


「そんな目に遭った女性なら、男性に触れられるのも怖いんじゃないかと思ってね」


「……どういう意味でしょうか?」


 一郎さんの切れ長の大きな目が、私の全身を捉える。


「もしそうなら、僕にとっては好都合だってことだよ」


 私は、首を軽くひねった。

 しばし考える。

 あ。

 それって。

 ……まさか。

 男色家ってこと?!

 

 口をパクパクしていると、一郎さんは片頬をあげて薄く笑った。


「そういうこと」


「えぇっ?!」


 思わず声を上げると、一郎さんは歪んだ笑みから、愛嬌のある普通の笑顔になって言った。


「大きな声出るじゃない。ずっと俯いてボソボソ喋ってたから、根暗なのかと思っていたよ」


「ね、根暗だなんて……」


 梅吉から、昔は明るかった、なんて言われるくらいだから、そうなっていたのかもしれないけれど……。


「だから、僕が貴女を抱く事は一生ない。それでも良いならこの話は進めさせてもらうよ」


 また、風が吹いた。

 

 さっきより穏やかな秋風が、私の着物の袖と、一郎さんの長めの前髪を揺らす。


 ……そうだ。

 世の中にはきっといろんな夫婦がいるはずだ。

 一生、肌を合さなくても、愛がなくても、穏やかに暮せればそれだけで私は不幸ではない。

 きっと、この人は、私を傷つけない——


 私は小さく頷いて、ハッキリと答えた。



「はい、よろしくお願いいたします」



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