第16話 再び蝦夷地に

 江戸を発つ時、唯一人上役の藤谷弥五郎が見送りに来た。

後輩ではあったが蝦夷地に於ける上役だったので一応節度を持って接し、藤谷は指導を仰いだ先輩として敬意を払い、立場を活かして何かと武田の力になろうとしてくれたのであった。

 湊には近江屋善兵衛の千石船が待って居た。

手代の松吉が迎えて呉れたのである。

 藤谷は出航間際と悟ると、

「武田様、蝦夷地での武運と平安を祈って居ります。亦お会い出来ますこと愉しみにしておりますので何とぞご無事で」

 と別れの挨拶をした。

「其方こそ中央に在って、蝦夷地の開発発展の為に尽力頂きたい。では何れまた」

 武田九郎信行は船上の人となった。

 十数年前にも同様の場面があったように記憶に蘇る。ただ違うのはその時物陰から見送るおなごが居たのを思いだしたのだが、誰だか分らなかった。

それは藤谷と酒を飲んだ時に、話に乗じて浮かんで来た女の顔でもあった。

 江戸湊を後にした千石船は安房の國の先端に沿って外洋に出た。

前回は乗って間もなくして船酔いが始まり、景色を眺める余裕などなかったのだが、蝦夷地での幾度かの船旅に躰が慣れて、江戸上府の際も無事に来れた。

 手代の松吉が何かと側に付いていて、話し相手になって呉れていたのだ。

「だんな見えますか、あそこに見える砂濱ですが」

「おぅ先刻より見えてるが、随分と長い濱だな」

「へぇ、矢指が浦というんですが、通称は九十九里浜と申します」

「確かに長いが九十九里はあるまい」

「まぁ精々二十里てとこでしょうか」

 上古その辺りは玉浦と呼ばれたそうだが、堆積した砂濱は刑部岬から太東岬まで六十六キロだから十七里程である。


 船は東端の岬の沖合を通過して、上からと下からの潮がぶつかり合う難所を無事抜け出して蝦夷地へと向かった。

途中那珂湊、平湯、荒浜、鮫浦さめうら(八戸)に寄港して後は、一気にピロロ(広尾)に向かったのである。

 蝦夷地に戻るのは十カ月ぶりであった。

雪の残る中ピロロに着いた。

武田九郎は下船の後、手代の松吉に一分金二枚を懐紙に包んで渡した。

「旦那いけませんや、主人に叱られますがな」と遠慮したが、

「世話になった御礼だ。受け取って呉れ」

「あい済みません。頂戴します」

 松吉と別れた九郎信行は連絡詰所に顔を出すと、

「武田様お帰りなさい。ご無事で何よりです」

 と部下の津嶋弥一が迎えに出た。

「留守中何事もなかったか」

「特にありませんが、カイが部落に帰ったまま戻って来ないんですよ」

「何かあったか?」

「分かりませんが、用事があると言って行ったきりなんです」

 愛人の息子カイに、不在の間詰所の手伝いを頼んであったのだが、コタンに帰ってひと月ほどだと言うので何か変事が起こったのかと心配になった。

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