第10話  契 り

「ごめんなさいね、昼間会ったばかりなのに呼び付けて」

 アベナンカは入口の戸を閉めた。

囲炉裏には鍋が掛かっていた。

その囲炉裏端の右側に座ると、表面のロルンプヤラ(神窓)の下に棚があり、そこにクマの形をした木偶もくぐうが二体あった。

「菜乃香それは誰が作ったの」と訊くと、

「それは昔父がカラプト(樺太)に行った時土産に持って帰ったものよ。何でも熊送りの時に作ったものを戴いて来たみたい」

 一体は四つ足で、もう一体は二本足で立って居るクマであった。

その立ち姿の木偶を見ていて、何時かラヨチが飼育していたへペレ(子熊)のルホロを思い出したのである。

ルホロが竹筒の水を飲む時のような形であったのだ。

 それらに見惚れていると、

「イペ(食事)は未だでしょ」

 宴会では碌に食べ物を口にしてないだろうからと夕食の支度をして待って居たのだ。

「菜乃香達も未だではなかったか」

「まぁ嬉しい。早速和人の名前で呼んで呉れたのね。オヌマンイペ(夕食)は先に済ませたわ。遠慮しないでイペアン(食べて)」

 と言うのだった。

 オキクルミは宴会の席で御馳走を食べていたが、アベナンカの料理は初めてだったので味わって食べた。

ユクの肉にオハウキナ(にりんそう)やプイ(蝦夷のリュウキンカ)の根が入っていた。そして最後にビヤパ(稗)に少しばかり米のような穀物の入った粥をカスプ(杓子)で掬って器に入れたのだ。

 お茶のように飲むのだという。

「美味しいよ」

「良かった。嬉しいわ」

 アベナンカはイタンキ(椀)にどぶろくのようなアシコロ(醸造酒)を注ぐ。

それは恐らくアチャポ(叔父)から分けて貰って来たのだろう。

「菜乃香も飲んでご覧」

 オキクルミは先に少し飲んで菜乃香に勧めてみると、一気に飲んだ。

「少しずつ飲むんだよ」

 恐らくアベナンカは初めて飲んだに違いない。

色白の肌がみるみる赤くなって、酔ったようである。

 アベナンカはオキクルミに凭れ掛かって珍しく開放的になって、その若く美しい肢体を見せた。

オキクルミはその変貌に戸惑ったが、ラヨチとは最早切れたものと思っていたので、なるがままになったのである。

その瞬間アベナンカは目を閉じたまま口元を動かしていた。

アイヌイタクで何かを言ったようだが、耳元には届かなかった。

 如何やらそのままの恰好で寝てしまったようだった。

気が付いた時は朝であった。

アベナンカの姿はなく、丸裸の上にはアベナンカのアミプが掛けられてあった。

「起きたの」

「早いね菜乃香」

 裏で洗い物をして来たらしく、モウル(長襦袢)のままであった。

「今日出掛けるの?」

「あぁ二、三か所廻るつもりだ。終わったら帰りに寄るよ」

「本当!」

「本当だとも」

 アべナンカは濡れた手をモウルで拭うと、丸裸のオキクルミに抱き着いた。

重なりあった時に何か聞こえたような気がしたが二人は行為に夢中だったので、クナウが早朝には帰って来ることを忘れていたのだった。

そのことを思い出したのは何度目かのオアトゥの後だった。

「クナウが戻って来るわ」

 アベナンカは慌ててモウルとアミプを着ると表の物干し場の下に座り込んで居るクナウを見つけて、

「ゴメンねクナウ。中に入りなさい」

 アベナンカは妹の手を引いたが、

「でも」と入るのを渋った。

 もしかしたらと思ったが、

「大丈夫だから入りなさい」

 と無理やり中に入れたのだが、何かを思い出したように飛び出して行った。

オキクルミには聞き取れなかったが、姉には分ったのである。

「どうしたの」

「カイのチセにイセポ(兎)を忘れて来たので取りに戻ったのよ。可愛がっているのに、未だ子供なのね」

「見られたかな」

「もしかしたら」

 オキクルミはそちらの方が気になった。

クナウは感じ易い年頃である。

そう言えば声が聞こえたような気がしたが、正にクナウだったのだ。

二人は夢中だったから、覗かれても分からなかったのだろう。

 少女にしてみたらあらぬ姿に衝撃を受けたに違いなかった。

それにしても帰りが遅かったのでアベナンカは表に迎えに出てみると、またしても物干し場にイセポを抱えて座り込んで居た。

「どうしたの中に入りなさい」

 クナウは余程の衝撃であったようだ。

そこでアベナンカはそのことを和らげるようにオキクルミと一緒になることを誓い合っての儀式なのだと教えたのである。

クナウは何となく理解したようで、その後は平静に戻った。

 アベナンカは衣類を入れた篭から比較的新しい男物の着物を出した。

それはアチャポ(叔父)のムカルに、シサムとの交易の時に小袖が欲しいと頼んだものであった。

裁着袴と下帯はオキクルミが寝込んだ後に洗ったものだったが、出発の時刻までには乾いていた。


 出発前にオキクルミは公儀の視察使武田九郎信行として歓迎の宴の御礼を述べ、また個人的に前酋長の娘アベナンカとウコル(互いを持つ=結婚)を誓い合ったことも報告したのである。

無論アベナンカを同席させての報告であった。

 役所への手続き上、アベナンカの和名を独身名では阿部菜乃香あべなのかとし、ウコル後は武田菜乃香と名乗る事になる旨合わせて伝えたのであった。

 婚礼の儀は後日改めてコタンに於いて執り行うこととして、オキクルミは次の地に向かって行った。

 それから二か月近く経って担当の戸勝地区内数十カ所を廻って来たと言ってコタンに寄ったが、急用で松前に戻らなければならず、酋長も不在であったので菜乃香のチセに一晩泊っただけで、翌朝にはピロロ(広尾)に向って帰って行った。

昼前には松前行きの船が出る為であった。

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