第2話 運命の出会い

 夏の日差しが海原に反射して眩しかった。

若者は久しぶりにのんびりとした気分で、台状の草の上に座り込んで海を眺めていた。

〈私は何処に行こうとして居たのだろうか〉

 船が転覆して見知らぬ土地に流れ着いて助かったことは記憶に新しいが、何をしに何処に行こうとしていたのか思い出せなかった。

 此処は一体何処なのか…

歩き回っても人と出会うことは無かった。

住んで居ない筈はない。現に誰かが助けてくれたから生きているのである。

若者は寝転んで空を流れゆく雲を見ていた。

その時だった。

小屋の近くの叢がガサガサと音を立てた。

〈獣か〉と身構えながら近づいて行くと、人が二人逃げ出したのだ。

「待ちたまえ」

 大声で呼び止めると、背の高い方が振り返った。女であった。

そこで弓矢を下に置いて危害を加えないことを示すと、その場に立ち止まったのである。

 良く見るとこれまでに見たことの無い服装をしていた。

頭には黒色の無地の布を巻き、白い生地に衿や袖に青い変わった文様の付いた衣服を着ていたのである。

然も驚いたことに向って左のおくみが上の左前であったのだ。

 その女の顔立ちは和人のそれであったが、衣服の着方が信じられなかった。

自分が育って来た土地にしろ、少し離れた田舎にしても見頃の重ね方は右の衽を必ず上に重ねたもので、左前は死装束で不吉とされた。

「あなたが助けてくれたのか、有難う」

 若者は丁寧にお辞儀をしてみせた。

女は何ごとか呟いたが聞き取れなかった。

どうも言葉が違うようだ。

「イヤイライケレ(有難う)」

 思わず口にした言葉だが、女はにっこり笑い返したのである。

如何やら通じたようだが、己が発した言葉が何語なのか分らぬまま話して居た。

 女は自身ををメナシクル(アイヌ)と称し、名はアベナンカ(女神のように美しくなるようとの意味)だと教えた。

その通りピリカメノコ(美女)であった。

 そこで若者は、

「わたしはシサム(和人)で名は……」

 と言い掛けたがその後が出て来なかった。

別に名乗るのを憚った訳ではない。

自分の名前が分からないのだ。幾ら考えても出て来なかったのである。

 アベナンカは笑いながら、

「構わないわ」

 と言うように手振りで制した。

 若者は愕然とした。

自分の名前は思い出せないし、考えてみたら何処から来て何処に向かっていたのかさえ分らなかったのである。

それとメナシクル(アイヌ)の女と会話している言葉はどうして覚えたのか謎だった。

 まさか此の地のカムイ(神様)が突然言葉を与えて呉れたのだろうか。

そして代わりにそれまで使っていた言語と記憶を消してしまったのは何を意味しているのだろうか…。

「貴方の名前はオキクルミよ」

 アベナンカの思い付きで英雄の神の名だと言うのだが、

「偶には同じ名があっても構わないわよ」

 酋長の娘だというアベナンカは美しくて明るい女であった。



 二人は自然の形でオキクルミの粗末な板囲いの小屋に居た。

つい先刻あったばかりの若い二人は、以前からの知り合いのように話が弾んでいた。

 神が言葉を与えてくれたかどうかは分からないが、無論オキクルミの話す言葉は片言であった。

其れでも十分通じたのである。

オキクルミは久しぶりに人と交わり言葉を交わすことで愉しかった。


 風が急に強く吹いたかのように小屋の囲い板を揺すぶった。

オキクルミは警戒するように身構えた。

次の瞬間、三方の板囲いに矢が射られ、ドスドスという鈍い音と共に鏃が突き出たのである。

「やめて~」

 アベナンカは叫ぶようにして飛び出して行った。

女には何が起こったのか分かったようだ。

一瞬の静寂の後三方の板囲いが取り除かれると、クー(弓)にアイ(矢)を番えたメナシクル(アイヌ)の男達が取り囲んで居たのである。

 アベナンカは屈強な男に捕まって動けなかったが、刀を抜かんと身構えてるオキクルミに向って、

「捨てて」

 と言うのだった。

「然し」

 周りを見回す仕草をみせると、

「コタン(集落)の仲間よ。其れとこの人はわたしのアチャポ(叔父)よ」

 オキクルミは理解すると、脇差を鞘に収めて地面に置いた。

すると二人の若い男が両脇を抱えるように押さえたのだ。

豪い力である。

 見ればアベナンカの傍に連れ添うように幼いマッカチ(女の子)が居た。

〈あの時の娘に違いない〉

 間違いなかった。

この娘がコタンに逃げ帰って男達を連れて来たのだ。

 アベナンカのコタン(集落)まではかなり離れているようで、幾筋かの川を渡り、草原や森を越えて行った先の少し高台にあった。

高台と言っても一丈半(四・五メートル)程の高さなのでニ十尺(六メートル)程の樹林に囲まれた一帯ではそこに台地が存在するとは見極めにくかった。

 近くに寄ってみて初めて切り立った崖が見えるのだが、遠くからでは樹林に埋もれた形で何処に在るのか分らず、炊事などで立ち昇る煙を見て初めて気づく程度であった。

 オキクルミは歩き疲れて脚がもつれそうになったが、両脇の若者らに引きずられるような形になりながらも歩いて居た。

崖の一角に凹みが在って樹林側から見ただけでは一連の崖にしか見えなかった。

その凹みに入ると、階段が人二人分程の幅で頂上に続いていた。

両脇に居た一人が外れて、後に付いて上って来る。

 頂上に着くと其処はかなり広く、茅葺の小屋が数十棟確認できた。

 酋長のチセ(住居)の前まで引きずられるように連れて行かれたのである。

大勢の人が集まって来た。

 人々は連れて来られた若者を指して、口々にシャモ(和人の蔑称)シャモと連呼した。

アベナンカは気に止めながら何事かをコタンコロクル(村長)詰まり父親の酋長に告げていた。

 コタンを束ねているコタンコロクルらしく目鼻立ちの整った顎髭の立派な酋長だった。

「シサムの戦士オキクルミよ、娘アベナンカから概要は得た。だが細かいことを知るまではお前を自由にすることは出来ない。

 此処はメナシクル(アイヌ)の土地だ。

シサムのお前が何の用事も無く此の地に踏み入るのは許されることではない。

 だが如何やら他人に命じられた訳でも、己の意思で来たものでないことはアベナンカが証明したので許されよう。お前が役立つようであれば生き残ることは出来る」

 酋長はそう言うとアベナンカを連れてチセ(住居)に消えた。

 

 オキクルミは再び二人の若者に腕を掴まれると太陽のある位置とは反対側の柵の付いた檻に入れられたのである。

半分だけ屋根があった。

 隣りにも同じような檻があり、暫く見ていたらキムンカムイ(ヒグマ)のへペレ(子熊)が飼われていて出たり入ったりと姿を見せたのである。

 暫くすると二人の若者の内の一人のハポ(母親)が世話係として檻にやって来た。

まず最初にへペレ(子熊)のルホロに餌を与えて、竹で出来た筒の水を飲ませていた。

それはまるで我が子に乳を与えるような仕草でルホロも両手(前足)で挟んで飲んでいた。オキクルミはそれを見て、人も獣も情愛が通じることを知った。

 女はへペレの世話が済むと隣りにある小屋に戻って行った。

暫くして今度はお粥の入った木の器を持ってオキクルミの前にやって来ると、柵の下の隙間から差し入れたのである。

「シャモよイペ(食事)だ。お食べ」

 女の口の周りには刺青が施されてあった。歳の頃は三十路半ばぐらいだろうか…。

連行して来た若者たちの母親とすればその位であった。

「イヤイライケレ(有難う)」

 オキクルミは頭を下げながら礼を述べた。

「こりゃ驚いた。お前は言葉が話せるのか」

「少しだけ」

「何処から来た。マツマエの地か」

「分からない」

「分からないって!和人だろうが」

 捕虜の男が言い澱んで居ると、

「オキクルミは船が難破した時に記憶を失ったのよ」

 急にアベナンカが口を挟んだ。

何時の間にか陰に潜んで、話を聞いて居たようだ。

「分かったわ。だけど何でオキクルミと呼ぶのさ」

 ラヨチ(虹)というその世話係は、伝説の神の名が何故シサム(和人)に付いて居るのか不思議でならなかった。

「それは本当の名前さえ忘れてしまったのでわたしが付けたのよ」

「そうだろうね、どう見ても英雄には見えないもの」

 アベナンカもオキクルミも噴き出すように笑った。

「ところでその子はアベナンカの子?」

 シサムにそう言われたマッカチはアベナンカの後ろに隠れると顔だけ覗かせて、檻の中の見慣れない和人を見た。

「英雄の神も美しい女神には心を奪われたと見える。心配しなさんな、その子はアベナンカの妹だよ」

 熊の世話役のラヨチ(虹)はオキクルミの心を見抜く様に揶揄ったのだ。

「名は何て言うの」

 オキクルミは己の現状の立場を忘れて更にそう訊ねるのだった。

「未だ名前は無いの」

 アベナンカはその子の頭を撫でながら自分の前に引き出した。

「付けて貰った名前が気に入らなかったとかではないよね」

 するとラヨチは腹を抱えて笑い出した。

「シサムは面白いことを言うんだね。アッハッハ、アッハッハ」と、

「メナシクル(アイヌ)は大きくなるまで正式には名前を付けないの」

 全く付けなかった訳ではなく、病魔に好まれない呼び名をつけたというのだ。

正式な名前はある程度成長して個性が出てくる頃に、その子に相応しい名前を付けるのだとも言った。

「ではその子を呼ぶ時は?」

「ヤチよ。意味は泥」

「驚いた。我らにも幼名はあるが、決してそのような名前は付けないよ」

 オキクルミはそう言うと、少しずつではあるが忘れ去りそうな事物について思い出しているようだった。


 病魔に好まれない呼び名をつけると言う話は和人には理解し難いが、アイヌはパ・コル・カムイ(疱瘡神=病魔)が幼い子を好むので、親はパ・コル・カムイを遷却する為、汚物の持つ除魔力に拠って護ったのである。

 ヤチ(泥)という名前はましな方で、大概はシ(糞)やシ・ニナ(糞を捏ねる)等の汚物を思わせる名前を付けたものであった。

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