第3話 『氷姫、ちょっとだけ溶ける』
翌日。
俺と渋谷さんの関係にはちょっとだけ変化が現れた。
「おはよ、宮部くん」
頭上からの華奢な声に、俺は顔を上げる。
そこには昨日とは全然違う、いつもの氷姫が何の起伏もない表情で、何度か瞬きをしていた。
だから俺はいつも通り返す。
「おはようございます、渋谷さん」
すると彼女はいつも通りこくんと頷いて、自分の机に……。
「……今日も寒いね、私ちょっと寝坊しちゃった」
「っすね、ほんと朝起きるのが辛くて……」
って、
「え?」
驚きのあまり、パソコンに戻しかけていた顔を、再び渋谷さんの方へと向ける。
すると彼女は彼女で、
「……それじゃ、今日も頑張って行こ」
そう、口早に言ってスタスタと歩いて行ってしまった。
え、何それかわいい。
の、以前に……そもそも職場で仕事以外の話をすることに驚きが隠せなかった。
だって、俺が入社してから一度たりともあの人が、私情を話した記憶なってなかったから。
すると肩をぽんと叩かれて、次はそちらに顔を向ける。
「よ、宮ちゃん。おはよ」
「あぁ、おはよう中街、今日も寒いな」
「何だよそれ、てか、昨日のデートはどうだった?」
ガシャんと椅子に座りながらそう聞いた中街に、俺は思わず渋谷さんの方へと目を向ける。
彼女はまだ出社したばかりだと言うのに、すでにいくつもの書類の束に目を通し始めていた。
「昨日は……まぁ、楽しかった……のかな?」
「えー、何だよそれー、もうちょっと詳しく教えろよー」
「はいはい、もうお金が発生してるんだから、給料分はしっかり働くぞ」
そう言って、次こそ自分のパソコンに向き合う俺。
でも、仕事の合間、やっぱり渋谷さんを目で追ってしまうのは、昨日の渋谷さんの表情が、始めて見るものばかりだったからなのだろうか。
でも、なんか彼女のことが気になって、仕方がなかった。
「でさ、さっさと教えてくれよ〜」
社員食堂、いつもの座る場所。
中街は五目炒飯をもぐもぐする合間、そんな風に口を開いた。
「だから言ってんだろ、フツーに会って、フツーに別れたって」
「だから、その過程を聞きたいんだってばー」
明日お前の分奢るから! そう言われた俺は、色々考えた結果。
「分かったよ、でも約束だからな?」
そう言って、昨日のことと話し始めた。
でも流石にその相手が渋谷さんだった事は伏せて、だ。
「最初はカフェで待ち合わせしてさ、まぁなんていうか、すごい美人な人が来て」
「お、良かったじゃん。確か写真は顔ぼかしてあったんだよね」
「まぁ……でも、最初は正直散々だったな」
カフェでは本当に一言二言しか話さなかったこと。
本当はイルミネーションでいい雰囲気を作りたかったのに、ほぼフル無視で通過したこと。
何を話しても、ほぼ反応が得られなくて、解散したこと。
昨日あったことを、順を追って中街に話した。
その度に、「あはは……」と愛想笑いを浮かべる中街。
まぁ、デート慣れしている彼からしても、ここまでの話は相当散々なものだったんだろう。
でも。
「雨宿りしてたら、クレーンゲームやっててさ、そんですんげ〜下手なのその人」
「うんうん」
「で、その子のためにクレーンゲームを一緒にやって、そんでぬいぐるみを落としてさ」
「はいはい」
「そしたら、その子、始めて笑ったのよ。まぁなんていうか、それはすごくかわいいなって思って」
「へー、いいじゃん」
「で、そこから少し砕けたみたいで、ちょっと話せて、そんでまた会おうって話になってる」
「何だよ、前半はともかく、普通にいい感じじゃんかよ〜。もっと散々なやつ期待してたのに」
「何だよ下散々な奴って、てか早く食えよ、もう昼休み……」
と、言いかけた瞬間。誰かが俺の背後で立ち上がる音が聞こえた。
そしてその人は、スタスタと社食を出ていく。
長くて黒い髪の毛を、華奢な背中の上で揺らしながら。
時々、髪の間から真っ赤になった耳を覗かせながら。
……。
「ん? 宮ちゃんどうした?」
「あ、いや……」
するとその瞬間、ポケットのスマホが震えてすぐに画面を見る。
通知はマッチングアプリ、『このたん』さんからだった。
急いで内容を確認する。
『後で話があります』
……あ、終わった。
「お、このたんじゃん。次はどこに行こーって?」
「……はぁ」
「なんだよ宮ちゃん! 露骨にため息吐くなよ!」
すぐにスマホの画面を消して、俺は担々麺を啜る。
この後、俺はどうなってしまうのか。
てか、俺は部下の『宮部』として会えばいいのか、『Miya』として会えばいいのか、よく分からなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます