第15話

バイクを繁華街のアーケードの入口で停めてもらった。バイト先は誰にも言っていない。知られたくなかった。

「あざっす。そんじゃ、雫さん。お疲れっす」

「おー、お疲れ」

 軽く会釈してヘルメットを返す。

「かりーん! またねー!」

 アリサがぶんぶんと手を振っているのに対してひら、と手を挙げた。何台ものバイクの集団は走り去っていく。一つ息を吐いて、踵を返した。公園のトイレに寄って、派手と露出が過ぎる服を脱いで地味なジーンズに履き替える。

 タントンタン、と金属の階段に足音を響かせたら、「営業中」の札を確認してノックしてから探偵事務所に入った。

「お疲れさまでーす」

 ふわりと暖房の温もりに包まれる。それと、嗅ぎ慣れたコーヒーの香り。一応接客業だから、急に入ってきたお客様に寒い思いをさせないように11月から暖房を入れておくって志賀が話してたっけ。出費が痛いとも。

「お疲れさま」

 パソコンに向かっていた志賀がデスクチェアを軋ませながら回転させ、振り返った。浮かべられた微笑みが、アタシを見て曇る。

「どうしたの、顔」

 アタシの切れた口の端を凝視されているのが分かった。夜の公園のトイレで見た限りじゃそんなに目立たないかと思ったんだけど。よく見てんな。

「転ンだ」

 志賀は口を開いたまま歪めて変な顔をした。

「嘘だと思うなら『見』りゃいいじゃん」

 そう言ってから後悔する。志賀が「見ないよ」と即答したから。

「何で?」

 今になって気付いた。志賀がアタシの物に触らないこと。そうだ、そういえば履歴書にも手を触れずに返してきたんだ。志賀はやろうとすればいつでもできるのに、アタシの秘密を暴かずに泳がせている。どうして。

「さあ、何ででしょう」

 志賀はいつもと変わらない声色で言う。そしてキイ、と僅かな音を立ててデスクチェアから立ち上がった。スリッパがフローリングに擦れて、冷蔵庫が開く。冷凍庫も。

「はい」

 すぐ傍で声がして、ぽいぽい、と幾つかの物が座っているソファーの座面に落とされた。

「湿布貼って、ちゃんと冷やす」

 湿布薬に、小さな保冷剤。そしてローテーブルにコトン、と置かれたのは牛乳。

「今日は冷たいのにしときな。熱いのは染みるぞ〜」

 志賀が冗談めかして笑って、デスクに戻っていく。

「いいよ、そんなわざわざ! いつも何もしない」

 湿布と保冷剤を指すと、志賀は笑みを消した。

「で? 前に『転んだ』ときは、何もしなくて後から随分腫れたりしなかった? 試しにやっときな」

 まるで見ていたかのように言う。喧嘩はちょっと久しぶりだけど、図星だった気がする。アタシは渋々湿布を貼って、上から保冷剤で押さえた。そう心配されると急に痛い。じんじんする。

「ほら、痛くなってきたんでしょう。言わんこっちゃない」

 そう言う志賀の声は嬉しそうに聞こえる。ドSだ。顔に湿布なんて、また目立ってダサいから嫌なのに。

 「何で?」って、アタシも自分に聞きたい。何でここに来たんだ。顔に怪我した時点で、今日は家に帰ればよかったのに。出勤日なんて決まってなくて、好きに出ても出なくてもいいって言われているのに。

 少しでもお金を稼ぎたかったから? 志賀は依頼がなくとも、アタシが事務所にいた時間の分だけ給料を払ってくれる。

 違う、って分かってた。ソファーの上で膝を抱える。志賀がコーヒーを啜る音がした。こんなにコーヒーの匂いをさせて。一体今日何杯目だよ。

「え、待って、そんなに痛いの」

 膝に顔を埋めていたら、「病院行く?!」と志賀がまた立ち上がりかける気配がする。

「違う」

 痛くない。こんなの大したことない。放っておいたって平気なんだ。お金も欲しくない。いや、欲しいけど。でも、一番欲しいのは。

「心配するじゃん。痛み止めも持ってこようか? 痛くないなら顔上げておいてよ」

 志賀が結局また立ち上がってすぐ目の前に来て、屈んでいる気配がする。

「嫌だ」

「えー……」

 全く、雇い主の言うことを何だと思ってるのかね、とぶつぶつ言いながら志賀は椅子に戻っていった。

 アタシ、何にも人のこと言えない。アタシも甘えてンだ。喧嘩なんて隠し通すべきなのに、直後に事務所に来たりして。それで、志賀に「見りゃいいじゃん」なんて。馬鹿。

「やっぱり、今日は帰る」

「えー。ホームページ自分で編集しようとしたらバグっちゃったから、早めに直してもらおうと思ってたんだけど」

「……それを先に言え! この機械音痴!」

 さっきから珍しくパソコン起動させて何かやってるなと思えば。勇んでデスクチェアに向かえば、志賀はさっと席を譲った。

「助かったー。ありがとう日野さん」

 ああ、アタシの言うはずだったことを先に言われてしまった。

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